多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第五節 交通と商工業

 多古宿の伝馬と助郷については、前項の初めに古来のいきさつを多古村名主の願書によって簡単に紹介したが、伝馬に関して当時の事情を知るのに便利な記事が『五十嵐家日記』の嘉永五年(一八五二)の条にあるので見てみよう。この場合の五十嵐氏は多古藩領の割元名主としての立場にある。
 
 閏二月廿一日快晴、駒木台見(検)分。
 名主、組頭、百性(姓)代、下作一条に役席より伊右衛門・仁右衛門・治兵衛・清兵衛来り、昨日一同参り候節、咄(はなし)残り候儀有之、先日組頭迄(まで)、下作の者共より届の砌(みぎり)、当作致さず候上は〔注、前年は見込違いの不作であった。当年作付も見込違いになればの意か〕、他の稼(かせぎ)仕り候心組に付き左(さ)候えば他行(よそゆき)の節人馬仰付られ候ても留守(るす)に相成り候間、其節は勤まり兼(か)ね候。御用御差支(さしつかへ)にて御咎(とがめ)に預り候ては恐入り候間、此段御届申すとの事に付き聞捨てにも相成ず、定めて其旨断り参るにおいては下作人は申すに及ばず、其外共一同申合せ不勤勝ちに相成り可申間、左様にては村内治り兼ね候間、此度は貴殿立服(腹)を捨て内々村役人迄壱割も呉(く)れ候様、左候えば何連(いづれ)にも取計ひ可申趣申すに付き、兼て相断り候通りの儀に付き、去る亥(ゐ)年分用捨米〔注、前年の年貢未済分切捨ては〕決して相成ざる趣申し遣(つかは)す。尚(なほ)又人馬不勤の届甚だ不埒(ふらち)の儀に候。右は御用御差支も有之候ては相済ず候間、其段篤(とく)と糺(ただ)しの上相違無之においては壱日も聞置き難く御役所え御訴え申出候より外無之事に候。下作一条のみに抱(かかは)り候はば日を送り見候ても宜(よろし)く候えども人馬の儀に付ては拙義も年番の事故(ゆえ)聞捨てに相成ず候間、届の節は沙汰致す可く同伴致す可しと申し相返し申し候。
 
 ここには五十嵐氏の権力寄りの立場に地主としての利害も重なっている。こうして二十三日には、多古陣屋で名主・組頭・百姓代にきつい申渡しがあり、二十五日に下作の者が、二十九日には年貢皆済する旨告げに来ており、二十九日の条には「下作米郷蔵にて村役一同出張取立ての事」と記されている。
 
 三月廿一日快晴、染井堰普請。
 昨(昨月)廿一日町方組頭・問屋・百性(姓)代一同参り三町の者共願出候御伝馬御用の儀、去る戌年〔注、一昨嘉永三年〕御仕法にて御助成金下し置かれ、尚又入谷(会カ)商人共より助金差出し候て是迄相勤め居り候。昨亥年中に町方の本町藤兵衛・清左衛門・清吉、中町又右衛門、馬持ち兼ね売払ひ申し候。左候えば残り馬にて御用相勤め候馬八疋に御座追々馬減少致し候事故、右八疋の切も御用繁く相成り候間、差当り両三疋も減少致す可き様子に御座候。左に候ては残り馬五疋にて御用筋御差支へも計り難く候間、何卒(なにとぞ)惣(そう)村一躰(たい)勤め方仰せ附られ下され候共、又は御仕法にて相勤り候様に願奉り度き旨申出候間、口上にて申す通り書留め持参の趣申し候に付き、右にては御用御差支へは眼前の事故、捨置き難く、拙者共仕法致し呉れ候様にとの事故、内伺(うかがひ)致す可しと申し返す。
 三月廿二日曇九ツ時雨。
 町方願一条内伺罷(まか)り出候所、御時節柄御上も御心配の事故、表向き願に候者御取用に相成らず、殊に公辺伺の上申聞き候に付き迚(とて)も惣村一躰の勤め方抔(など)と何様願ひ候ても御取上げ無之儀に候。乍去(さりながら)町方持馬追々減少致し、行(ゆく)々御用御差支へも計り難き儀に付いては馬代金御下げ成さる可く候間、其方共取計らひ、貸附け馬数相増し候様致す可しとの儀に付き其趣組頭・問屋え相達し候事。
 三月廿三日曇。
 昨日申渡し候儀三町重立(おもだ)ち候者え申聞せ候所、馬代金御下げ、尚又当時馬無数中町方、村役人同様相勤め申す可き儀両様共有難き儀に候えども、馬代金拝借致し馬数増し候様致し度候えども、是迄馬持ち参り無之者共、新規買入れ候ても外に遣(つか)ひ方無之、駄賃稼ぎ等渡世程も無之土地柄故、永持ち行届き間敷(まじく)、人足共の儀も勤め方難渋に付き勤め人増し候様の御仕法に無之ては御請 行届き間敷に付き一同え申聞せ候ても迚も御請とも相成らず混究(困窮)致し候計りの事に御座候様に存じられ候。乍去此所にて是非御請申上ぐ可き様仰せ聞かれ候はば、無益乍ら 三町一同参会評儀(議)致す可しとの義に付き、迚も押付けに相成らず候者見請(みうけ)寄合等致させ無益の事に付き、少々にても番人馬相増し候御仕法下され度き趣、組頭・問屋・百性(姓)代申来る。
 三月廿四日快晴。
 御役所え昨日申し来り候儀内伺候所、公辺伺の上申渡し候儀に付き当節御仕法替と申す儀何様願出候ても御取用無之候間、其趣幾重にも申し諭(さと)し、表向き願書差出さず候様致す可き趣仰せられ候間、此趣村役中え申談(はな)し候事。
 
 これでこの一件は同年の日記からは消えている。このような問題は時代が進展する中で体制の矛盾がその場限りの解決策ではどうにもならなくなっていることを示している。さりとて公儀はそれを抜本的に改革することもできず、結局力の弱いところへしわ寄せして片付けてしまうのであった。
 次に助郷の出し方とそれに関する紛争についての具体例を見てみよう。『五十嵐家日記』の寛政五年(一七九三)の分で、十二月の領主からの触書(ふれがき)から始まっている。勘定奉行久世丹後守らの「浦々御見分」と称する巡視の一行で、諸事簡素に応待するよう膳部の内容についても細かい指示が出ている。
 
丑(うし)正月廿一日、助郷邑(むら)々江廻状之事。
          覚
 久世丹後守(以下三名、後出につき略す)
 此度浦々御見分ニ付御通行筋人馬御用被仰付候。依之其御邑々先年御巡見通之人馬用意被成可置候。右申聞度如斯御座候。
   正月廿一日                                    多古邑役人
 同二月朔日(ついたち)、御陣屋御奉行鵜(う)沢牧太様、堀口賢蔵様御下り成され、右御公用御通行執(と)り斗(はから)ひの始末御評議遊ばされ候。弥々(いよいよ)片貝邑御領分御囲〆仰せ承り候に付き御領分夫人足仰付けられ候に付き当邑えも五人の御割付け、四日夜邑役人共、右人足心宛(あて)の者共呼寄せ申付け候。
 人数大原内五左衛門忰八十八、同所幸内、太郎兵衛、中町武兵衛、庄治郎、同所善右衛門忰武助、高根藤兵衛、市郎兵衛、堀(堀の尻)新兵衛、広沼八右衛門、高野前甚助、居射清五郎。
 右之者共他行を繰合せ何時にても御用次第無間違罷出る旨申付置き候事。
      御宿割
   御勘定御奉行 久世丹後守様    御宿壱軒
   同 御吟味役 佐久間甚八様      壱軒
   同 御組頭  勝谷彦兵衛様      壱軒
   同 御勘定  椎名五郎八様      壱軒
   同 御勘定  宮川龍八様       壱軒
   御普請方   辻武右衛門様
   同      長岡亀吉様
   同      星野瀬助様       壱軒
   御普請役   秋田園右衛門様
   同      荒井平吉様       壱軒
  〆(しめて)七軒、右一郡に御宿被成可然哉与(やと)被存候。
   御目付    中川勘三郎様      壱軒
   同      森山源五郎様      壱軒
   御徒士目付  湊五右衛門様      壱軒
   同      鈴木金兵衛様      壱軒
   御小人目付  小磯清九郎様
   同      岩崎半五郎様      壱軒
   同      清水友八様
   同      山本勘太郎様
          内方鉄五郎様      壱軒
      御手代弐人
          笹山重兵衛様      壱軒
      御手代弐人
  〆七軒、右郡始の宿被成可然哉与(やと)存候。
 惣(すべて)〆御宿拾四軒。
一、御繕[一汁一菜]  御上下共同断
一、盛砂等 決而(けっして)無用
一、人馬割御先触等御出不成候
一、人足 三百五拾人
一、馬五拾疋
一、御上下様都合 百四人
一、御案内壱人づヽ銘々出し可申候
 右書付房州より参り候趣にて上総新堀村名主権左衛門方より写し取申し候。
   丑二月廿日
 右に付き助郷村々之内飯高邑(むら)より、人馬之儀此度は松山村江相雇れ候に付き多古村江者難差出旨申し候に付き組頭与兵衛、五郎兵衛、両度掛合ひ候得共(そうらえども)不承知にて不差出に付き願に相成、名主代五郎兵衛、組頭彌五兵衛様には高野前甚右衛門、入惣右衛門、弐人連片貝邑江願出し、願書之控。
   乍恐御書付奉願上候。
                                       下総国香取郡多古村
                                             名主 五郎兵衛
                                         訴訟人
                                             組頭 彌五兵衛
                                    中根内膳様御知行
                                        同国同郡飯高邑
                                           相手名主半左衛門
一 此度御通行御上宿並に継(つぎ)人馬之儀被仰付候に付、助郷邑々江人馬之儀申聞せ候処、右助郷村々之内飯高邑名主半左衛門与(と)申す者、被申候者先達而(だって)松山邑より御用人馬之儀申来り候間、彼(かの)邑江人足差出し可申段、規定仕り候間、多古邑江者人馬難差出旨申し候。依之私共往昔(おうせき)よ里(り)之助郷村之儀に御座候間、両度迄掛合仕り、此度之儀者助郷村々大方重役も相勤め候間、何卒(なにとぞ)人馬差出し呉(くれ)候様(よう)申し候得共、如何(いかが)相心得候哉(や)、兎角(とかく)否と而己(のみ)申立て人馬差出し候儀不相成旨申切候。右体(てい)に被致候而者(ては)、外助郷村々並に駅場之執計(とりはからひ)之差障(さは)りにも可相成哉与(やと)私共至而(いたって)難儀仕り候 依之不恐多願上候。何卒以御慈悲此度之御公用人馬先規之通り無滞差出候様被仰付下置候はヾ冥加至極難有仕合に奉存候。委細書付け不相談之儀者御尋之上乍恐口上にて可申上候。以上。
                                     松平豊前守様領分
                                       下総国香取郡多古邑
                                            名主 五郎兵衛
                                            組頭 彌与(五)兵衛
  御公用
    御役人中様
 
 勘定奉行一行は房州から市原郡新堀村を通り九十九里側へ出て、松山村から多古へ来たものと考えられる。飯高村ではいつもは多古へ助郷を出しているのが今回は松山へ出したことからこの争いが起こったのであろう。その処置がどう下されたか、日記はこの後三月へ飛んでおり通行当日の記事も見られない。
 この時、多古村では五人の割付に一二人を待機させている。覚には人足三五〇人とあるが、一村五人とすると七〇カ村の助郷が必要である。このような大規模な通行はこの街道では江戸時代を通じてもそうなかったのではなかろうか。
 一方、水戸・佐倉道新宿町への水戸家旅用の助郷割付に対し、文久三年(一八六三)九月二十四日に香取郡大角・新里・入山崎・金原・東松崎五カ村から当分助郷免除の嘆願が道中奉行所に出されている(宮本飯田内蔵之助家文書)。これは佐倉道への加助郷であると思われ、幕末にはこのような遠方の村々にもそれが割り付けられるようになったのである。飯笹村など多古町域西部の村々では助郷は加茂村へ出しており、島村などでは時により多古へも加茂へも出しているようである。村々の助郷高(石高で表示)を記した助郷帳や証文などが残っておらず、嘉永三年(一八五〇)の北中村明細帳に「多古村へ人馬大助差出申し候」とあるように他の資料からその事実が知れるばかりで、詳細は明らかでない。
 次に多古村の伝馬に関する勘定はどうなっているのか、嘉永二年暮の例を『五十嵐家日記』は次のように記している。
 
 十二月十日、夫銭暮割り出来、人足賃銭、御屋敷暮・年頭物、伝馬助銭五両にて都合三拾三両、内十三両年番帳尻より出す。廿両惣高割壱石に付き丁せん百文伝馬割りの事。当年より金八十両の利金八両御役所より下され、金五両惣高より助金、壱両壱歩入谷商人より助金、〆十四両壱歩。右年々助金、此度割付け年中勤人馬、里数に割り壱里に付き三十四文、壱丁壱文の増銭、当年里数弐文。
〔丁せんについては二五三ページ注参照〕
       差上申御請書之事
一、金八両也、従(より)御役所元金八十両之利子金八両づゝ年々御下(さげ)金。
一、金五両也、惣村高割を以て伝馬役勤め候者江割付先例。
一、金壱両壱歩、御趣意に付入谷商人より年々出銀。
 三口合せ金十四両壱歩也
 右者御趣意御下金並に助合金年々御割渡し被下候段一同難有承知奉畏候。依之御伝馬人馬御用御差支無之様一同申合せ無滞相勤め候様可仕候。
 右金割付方之儀、甲乙無之様年分勤め方里数江御割付被下是又承知奉畏候。依之一同連印奉り差上げ候。以上。
 
 これには各町惣代が署名している。嘉永二年十二月であるが、実はこの年正月の同日記には次のような記事が載っている。
 
 正月廿八日、町方伝馬一件にて入牢の者共御呼出し御捨(赦)免、出牢に相成申し候。
 
として、関係者が入牢、名主・組頭に役儀取上げその他の裁決があったが、前年の日記が散逸しているので事件の内容を知ることはできない。前年十月、町方一同江戸へ訴え出ようとしたが、組頭がそれを大和田でとどめ、惣代三名だけを連れて願い出ていることが知られるのみである。その結果が十二月十日の記事とどうかかわるのか明らかでない。今後の研究にまちたい。
 また伝馬役がどの程度の頻度で割り当てられていたか、染井村の場合を慶応二年八月二十六日と表紙に記し、同年九月より明治二年二月までの記事のある『御用人足伝馬帳』(染井区有文書)に見ると、三〇カ月に五六件で、各月平均二件未満となっており、村高四五七石、四七軒(弘化二年当時)の村から、最高七人、普通三人と三疋の馬が、多古から酒々井、岩部、松山などへの運送に従っている。主に各藩の通行であるが、官軍家来というものも見られる。染井村は助郷ではなく多古宿の町役である伝馬役を負担していたのであろうか。