多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第五節 交通と商工業

 安永八年(一七七九)に多古村惣代、名主助右衛門が差し出した『御鷹水府(たかすいふ)役御免除願書』(地域史編東佐野参照)には、冒頭に多古村の宿場としての歴史が簡略に記されている。
 第一に、多古村は古くから伝馬次(継)駅場となり、武射郡加茂村から松山村・大寺村・東松崎村の三方面へ道法(のり)三里の間の人馬継立ての宿場であったという。この表現では多古宿が、加茂と他の三カ村の間の中継点にすぎないかのように受け取れるが、実はこれは三方面への継立て場としての要(かなめ)の位置にあることを道筋で説明したものと見るべきであろう。
 次に、椿の海が寛文年中(一六六一~七三)に開発され、元禄年中(一六八八~一七〇四)に検地されてから、特に武家の通行が頻繁になって宿泊と駅馬が増加したため、先年領主より町内へ問屋給として米三俵が支給されるようになり、問屋場も立つようになったという。先年というのは元禄と安永八年の間の七五年ほどの間であるが、それまでは宿駅とはいってもその支配人である問屋は置かれず、たぶん村役人が取りしきっていたのであろう。民間の通行はともかく、公用の貨客は椿の海開発以前にはまだ少なかったことがわかる。もっとも利根川水路がほぼ現在のように完成したのは承応三年(一六五四)のことで、これ以後、この街道の東方からの交通量は徐々に減少していたものと思われる。
 こうして問屋場は立ったが、多古には古来宿付きの助郷村があったものの、人足は駅場にはいなかったので、たいがいは多古村でばかり負担し、多数の人馬を必要とするときは近村へ割り付けてきた。そのためもはや宿付きの助郷というものではなくなっていたので種々差しつかえがあり、村としては難儀をしてきたという。宿駅に備えられた助郷帳に何村助郷高何石、人馬何人何疋(びき)と規定され、これによって人馬の提供を指示されるのが助郷村の通例であるが、初めはそれを必要とするほどの公用がなかったのであろう。自村で適当に処理していたのが背負いきれなくなり、他村へ(指示ではなく)依頼して、断わられれば懇請するようになっていたと思われる。
 さらに東西間の通行ばかりではなく、最近は南北に向かう通行も、加茂村通りから多古へ来るのが都合がよいので、その御用も勤めているという。おそらく多古から桜田権現通りを経由して、佐原方面へ北上したのであろう。このころは千田、水戸を経て多古に至る上総道は整備されていなかったらしい。
 同じ一件で助右衛門が二年後の安永十年に書いている願書には、「下総国多古村銚子並(ならびに)小見川通り往還継場役、其外東金・佐倉へ継合も相勤め」というような表現が見られる。傍点部分の長い名称から、この街道の名称が正式につけられていなかったことがうかがえる。佐倉道は大藩佐倉までの幹線道路であったが、銚子はまだ一漁港であって、佐倉から先はその延長にすぎなかったためである。
 ただ安永八年の願書では、小範囲の、加茂村から三方面への間の継立ての宿に過ぎなかったものを、大範囲の「銚子並小見川通り往還継場」に改めているところが興味を引く。それは単に訴えの効果を考えた結果というよりは、幕府への訴願行動の中で視野が広がった結果が名称に表われたように見受けられる。
 また継立ての用が、佐倉方面に向かってよりは銚子・小見川方面に向かって多かったことも椿の海の位置からうなずかれるのである。東金方面への継立ても先に触れた加茂村通りを通行するものと思われ、こうして多古宿は両総東部を東西、南北に結ぶ交差点となったのであった。
 安永八年の願書では、多古村は古くから伝馬次駅場となっていたといっているが、文禄三年(一五九四)の中山法華経寺の文書でも「多胡宿」と記している(法華経寺四院主連署回状)。前項の初めに掲げた献上柑子のための宿継ぎも、決して例外的に仕立てられたものではないのである。
 多古村の市街地はこうして松平氏一万二千石の城下町であるより先に宿場町であった。本町・仲町・新町の三町は江戸時代「宿」の名を称しており、ここの日待ちの行事は「宿日待ち」と呼ばれて、その日は全住民の公休日であった。
 この三町の形態を地図で見るとき、大原内から高根方向への道筋が直線的に最短距離をとらないで、仲町と本町とで二度直角に曲っていることに気付く。これはおそらく宿場で一般に設けられた枡型(ますがた)――出入り口で宿場内を見通せないように屏風折(びょうぶおれ)または曲(かぎ)の手(曲尺手(かねんて))に道を曲げたもの。甲州街道の日野宿(東京都日野市)も多古と同じように曲の手に街路が曲っていた。ここには七町あり、中ほどの中町には問屋があり高札場があったという――をこの地の地形に適合させたものではないだろうか。おそらく元は最短距離を通っていたものを、ある時期にこのように曲げ、その時またはその後に仲町に並行する新町を造り、町割も定められたのではないかと想像されるのである。

多古仲町・新町遠望(昭和初年)

 前項で見たように、近世初頭、関東の往還の整備・管理を代官頭伊奈忠次が担当したのであるならば、あるいは多古宿の町筋の付け替えも、伊奈氏またはその配下の代官によって行われたのではないかいう想像も可能であろう。
 近世の宿場町の枡型は城郭構造の枡型と同様に暴徒や盗賊をそこへ追い込み取り押える目的で設計されており、これは戦国の軍陣から来た構造ではないかといわれている(芳賀登著『宿場町』柳原書店)。とすれば多古の三町の形態も近世初頭に造られたと考えてよいだろう。本来は枡型の中に本町がなければならないが、本町通りは従来の町筋のままであったことから本町の名がつけられたのであろう。しかし問屋場は枡型の中、つまり仲町の中央部に置かれていたに違いない。
 仲町の名の文献上の初出は寛文元年(一六六一)の仲町全焼の記事と思われるが、本町の八坂神社は寛永中(一六二四~四三)に飯笹の天王台から遷座されたものであることが同社の縁起にある(地域史編多古参照)。疫病の流行を鎮める祇園(天王)信仰によって、宿に持ち込まれやすい疫病から町を守ろうとする願いに発するが、伝承によれば飯笹の天王台から盗んできたものであるという。飯笹側では怒っていったんは返させたが、かえってその後、飯笹で疫病がはやったのでまた多古にもどしたという。この霊験譚は示唆的である。
 飯笹の小字北宿・中宿・南宿の地は、現在では宿に関する遺跡も伝承も残っていないようであるが、おそらく中世には宿町として栄えていたので、その鎮守として八坂神社を勧請したものであろう。それが、中世の後期に多古を通る街道が開通したために衰微し、村は現在の台地下の地に移転するようになったものと考えられる。天王台は現在の小字には残っていない。
 旅宿を主体とする交通集落である宿は、中世の荘園制の発達、鎌倉への往復、民衆宗教の発展などに伴って民衆や物資の移動が盛んになり、自然、民衆の宿泊施設の整備が促されて成立した。これらは公用の継立ての機能はもっていない。飯笹の宿もこのようなものの一つであったかと推定される。
 『五十嵐家日記』によれば多古村の旅籠(はたご)屋は、嘉永七年(一八五四)当時には九軒あり、その位置と鑑札発給年度は第13表のとおりである。発給年度は更改年度でもあり、それ以前はいつから営業していたか、また文政九年以降、嘉永七年までに廃業した者があったかどうかなどはわからないが、これによっておおよその事情はつかめる。横町とあるのは八坂神社前から新町への通りを指すのか、不明である。旅籠屋が本町に多いことが、本来の宿場の中心を示唆しているように思えるが、必ずしもそうとばかりはいえないだろう。
第13表 嘉永7年営業の多古村の旅籠屋
    (『五十嵐家日記』による)
軒数鑑札年度
本町 4文政9(1826) 3軒
天保13(1842) 1軒
仲町 1文政9年
新町 2文政9年 1軒
天保13年 1軒
横町 1文政9年
居射 1嘉永7年(1854)
合計 9

 これらの旅籠はすべて農間渡世となっているが、東海道の大宿場を除けば五街道でもそれは普通であった。東海道で最小の宿場である庄野では家数二一一軒に一五軒で、宿場の家数と旅籠との比率をいう旅籠屋率は七%であった。城下町とか門前町でない純粋の宿場では普通この率は一〇%ぐらいであった。安政五年(一八五八)の多古村の家数は三五七軒で、三町の家数は一三四軒であった。安政五年にも旅籠屋数が変わらなかったとすれば、居射を除く八軒の比率は六%である。多古宿は城下町ではあるが、八軒、六%というのは決して低い率ではない。
 嘉永七年に開業している居射の一軒が注目され、上総道の通行が多くなったことを示すものと考えられる。居射も含め九軒の旅籠は宿役人である問屋の指図の下に伝馬の人馬を出すことが義務づけられていた。宿場の伝馬役は民間人相手の駄賃稼ぎを許す代わりに負わされていた町役であった。
 第14表は江戸時代後期八〇年間に見る多古村の家数の変化の様子を地域別に示したものである。参考までに文禄二年の名寄帳の家数(寺を除く)も並列してみた。
第14表 多古村の家数変化
 文禄2(1593)安永7
(1778)
安政5
(1858)
増加倍率
大百姓小百姓
高根3222341.55
本町8146571.24
仲町4230331.10
新町2138441.16
大原内3018201.11
堀之尻3213151.15
高野前6230321.07
切通2220321.60
居射3139481.23
広沼5028391.39
その他403
不明1430
合計57432843571.26
・文禄名寄帳にある外出(とで)は本町に、居合は堀之尻に、木戸谷は高野前に、西谷は居射に含めた。
・太字は10地区の平均軒数より多い場合である。

 太字で表わした数字によって示される顕著な傾向は、安永期では三町と高野前・居射という主要道路沿いの中心地区に多かったのが、安政期に増加する倍率で見ると高根・切通・広沼など同じ道路でも周縁地区が大幅に増加しており、仲町と高野前は軒数は多くても伸びが止まっている。上総道の交通量が増加し、その道筋が発展してきたことがこの表によっても認められよう。
 なお、参考までに掲げた文禄年度の数は、文禄二年の名寄帳記載の人名に対し、安政期になってその住所を当てはめたものによった。したがってその人々の子孫の住所ともいうべきものであり、文禄当時三町が成立していたという史料にはならない。その他が四名とあるのは「谷・入・東」とある地域が現在では不明なためである。
 大百姓五七人の中には、本町で持ち反わずかに三反八畝という者が二名、その他の地域にも二反七畝、三反八畝という者がいて、これらの者が村内で大百姓の地位にありえたのは農外収入、おそらくは宿駅関係の業務や商業を勤めていたためではないかと考えられる。また子孫不明の者が小百姓で七〇%、大百姓でも二五%近くいるが、その内の相当の部分が流動しやすい町場に住んでいたと思われる。しかし零細な土地保有者でも大百姓は、宿場町に住むことによって小百姓より高い比率で残ることができたのであった。