多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第四節 土地制度と農民

二、江戸時代の検地と新田

 戦国時代から江戸時代初期にかけては日本史上でも最も新田開発の盛んな時期であった。土木技術が発達したため大河川の氾濫を堤防で押え、その流域を開発した例は関東にも多く、牛尾・船越の大炊堤(おおいづつみ)はその名のとおり佐倉藩主土井大炊頭によって築かれ、栗山川流域に広範な新田開発を可能にしたものであった。両村を後に引き継いだ多古藩(松平氏)の『反別七通書』と題された享保六年(一七二一)の文書によれば、その石高は、
 
        本田       古新田      新田      辰新田         合計
  船越  四六二石三〇四   九三石九七三  二七九石八五七  一七石五      八五三石六三四
  牛尾  五四〇石五〇二  二七六石一八四  三五七石四一六  四三石八三八  一、二一七石九四
 
とある。ここでいう古新田・新田の年代は明らかでないが、三期にわたる新田開発の大きさには驚かされる。また本田といっているのは松平氏が入部した寛永十二年(一六三五)当時のものと思われる。土井領では寛永八年に領内惣検地を実施しているから、これが本高となったと見てよいだろう。辰新田は文献によれば寛文四年(一六六四)辰年に当たる。
 松平氏は初め旗本として多古に入るが、寛文九年(一六六九)重臣服部与五左衛門によって、いわゆる服部新田が開かれている。この新田の内、南玉造村の分は延宝三年(一六七五)に一七二石と見られ、貞享三年(一六八六)の同村坂並新田畑の高四〇石余、北中村大鯉新田の高三九石余と合わせると二五二石余となる。この全部が服部新田分かどうか明らかでないが、この内の大きな部分と見てもよいであろう。
 また二八七ページの村高表を見ると、元禄十五年(一七〇二)の『元禄郷帳』から天保五年(一八三四)の『天保郷帳』へとその石高を飛躍的に増大させている村に多古・南中・南並木・南借当がある。多古藩が本領において新田開発に努めていたことが知られる。
 こうした開発によって多くの小農民が本百姓として独立するとともに、従来の谷津田を中心にした用水体系は一変したはずであるから村内の事情も大きく変わったものと思われる。
 このように領主が開発主体となった新田に対して、農民が主体となって切り開き、新田村を作ったのが谷新田、後の中村新田である。初め上総鳥喰(とりはめ)(横芝町)の人印藤某が入植し、延宝元年(一六七三)には家数二軒で、同三年には一一七石余の石高となっている。
 多古町域では、中世末期には谷津田から台地縁辺の辺田に田地が広がり、近世初頭には栗山川とその支流の流域に向かって拡大しつつあった。そうした本田の周りの開発は大規模な新田開発と区別して切添(きりそえ)といい、検地を受けた後は切添新田と呼ばれた。
 近世初期の房総地方では大地震が相次ぎ、それによって急激な隆起があったらしく、多古村一帯の沼沢地が干上がって元禄初めごろから水田になっていったことが『多胡由来記』に記されている。これは多古村周辺ばかりではなく、干潟町から八日市場市にかけての椿の海の干拓に見られるように下総全体の生産力を押し上げるものであった。
 『多胡由来記』には、「西御屋敷下より広沼下まで田地なく沼川也」、「飯土井河駒木下まで田地なく沼川也」と書かれていた辺田沼・烏帽子沼・白鳥沼の一帯が、後には「沼川昔の堀は埋れて田地となる」と表わされている。栗山川対岸には飯土井沼があったが、これも同様であったに違いない。
 ところが谷三倉村では天正検地で二一町二反余あった水田が享保の名寄帳では一五町九反に減り、一町余だった畑が八町三反余に増えている現象があり、その理由は隆起により谷津田が干上がったためと理解されている。二八七ページの村高表を見ると多古町域北部の村々に若干ずつながら村高を減らしている所が多い。これも水位低下のためと考えられている。
 村高の急成長した南借当村の場合、寛永八年(一六三一)の検地では一八町九反四畝余あり、慶長十四年(一六〇九)の検地より二町三反三畝余も増えている。しかしその内容を見ると、上・中田が一町歩以上も減少しているのに対し、下田が三町八反四畝以上増加し、下畑と屋敷地が増加しているのである。
 実は慶長の検地の際には貢租対象外の永不(作)田畑二町歩余があったが。寛永の検地では高に入れられ、それが増加した下田の過半を占めていると思われる。上・中田一町歩余の下田への降格は自然現象によるものか、評価の訂正によるものかわからない。ここにも隆起の影響が出ていたのであろうか。今後の研究にまちたい。その後、元禄十一年(一六九八)の検地で合計三・八二町余増えて全体では慶長期より四割近く増反している。
 現在、多古町域で地名として新田の名の残っている所は次のとおりで、そのほとんどは畑や宅地である。中には台地上にこの名が残っていて、その由来を探るのも意味のある課題といってよい。
 
 多古新田(初め八田新田と称した)、新田(喜多)、新田尻・辰新田(牛尾)、新田(にいた)・新田台(井戸山)、新田(大門)、新田・新田道上(みちうえ)・新田山(本三倉)、新田埜(の)・新田(谷三倉)、新田前(十余三)、新田(坂)、新田(南中)、古新田(中村新田)。
 
 島地区塙台の八幡大神は、社伝によれば元禄年間、島村北谷の新田開発の報恩のために奉祀(し)したものといわれる。柏熊と坂並にある服部与五左衛門の報恩墓碑も同様であるが、新田開発による後代への恩恵の大きさと村民の感謝の深さが思われる。