多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第四節 土地制度と農民

一、天正・文禄検地

 徳川家康は天正十八年八月一日関東に入国すると直ちに家臣団を各地に配置したが、それらの知行割と同時にまずその年の年貢を確保するために下総・武蔵・伊豆の各地で検地を行った。徳川氏も太閤検地の基準に従い三〇〇歩=一反の制や畝の単位をこの年から採用しているが、その検地法は独自のものであった。
 しかし綿密な貢租体系を作り上げるための本格的な検地は翌十九年から二十年にかけて実施された。下総では十九年二月ごろから印旛・香取・匝瑳・海上の各郡の順に行われている。当町域では本三倉(三倉村)と谷三倉に当時の検地帳が残っている。また宮本にも一部の写しが残っているが、これには天正二十一年と記されている(この年は前年十二月文禄に改元され、その二年に当たる)。本三倉と谷三倉の検地帳の日付はともに天正十九年十一月で、きわめて保存状態がよいので、あるいは写しではないかとの疑いももたれている。検地役人もともに梅村伝七郎・春日井新九郎・杉清蔵の三名である。これらは当時香取郡一帯を検地した代官吉田佐太郎の手代ではないかと考えられる。本三倉の方には案内人と思われる佐藤六兵衛の名が記してあるが、この名は本文の名請人の中には見当たらない。
 当時、本三倉から井戸山にかけては鳥居元忠四万石の矢作領に属しているが、この検地は鳥居氏によるものではないようである。「碁石まじりの支配」の節で見たように、この地域の桧木と高津原の一部を知行した旗本神保氏が検地奉行伊奈忠次・長谷川長綱から受け取った知行書立には、矢作領の内桧木・高津原などを請け取るようにとあり、日付はこの年の七月吉日となっている。おそらく代官所の検地によって生まれた矢作領の超過分を削って神保氏に与えたものであろう。この七月と検地帳の十一月の日付に日時の差があるが、本三倉・谷三倉と桧木・高津原とが別の時期に検地を実施したとも思われない。なお鳥居領の検地は、八年後の慶長四年(一五九九)四月から行われている。
 多古に入部した保科氏(一万石)の場合は、「柏熊区有文書」によれば、「保科弾正様御拝領被成候時、大久保重(十)兵衛様御検地被成候時、柏熊拾八町玉造村之高にて御前帳上げ申候」とあって、大久保長安によって検地が実施されたらしい。林村の文書に、保科領の検地奉行の名が見え、独自に実施した形跡もあるが、その年度は明らかでない(地域史編林参照)。
 本三倉の検地帳は地元に三部の写しが残っているが、江戸時代末期に常陸土浦の国学者、色川三中(みなか)が入手したものが『常総遺文』に収められ、その主要部分が房総叢書に載せられている。表紙には「天正拾九年辛卯霜月十三日 下総国香取郡千田庄三倉村御縄打水帳」と記されている。脇書きを加えて「御縄打水帳」とも読みうるが、以下『三倉村水帳』と略称で呼ぶことにする。
 千田庄といっているが、一般に下総の天正検地帳には木内庄、東之庄などの荘園名が村の上に付けられ荘園制の名残りをとどめている。また香取郡ともあるが、匝瑳郡の栗山川以西の地域が香取郡に編入されたのはこの時からと考えられている。近世の検地はすべて村単位に行われ、荘園名は単なる地域名として習慣的に用いられているにすぎない。そしてこの時に本三倉村の枝村である谷三倉・小三倉が切り離されて近世の谷三倉村が生まれたのである。
 
 〔注〕縄打ちとは間(けん)縄で測量したためにいう。水帳とは律令制時代に田の数量を記した「大図帳」に類するものとして御図(みず)帳の名が生まれ、後になまったものであろうと『地方(じかた)凡(はん)例録』はしている。
 
 さて『三倉村水帳』の内容を「遠藤家文書」のもので見てみよう。全体は田方と畑方に大別され、その記載形式は、
 
  東の下
   上田 壱畝弐拾六歩   主計(かずえ)之助
  同中田 九畝拾壱歩    内蔵(くら)之丞
  同上田 三反九畝三歩   藤右衛門
 
のようにまず所在地(小字)を先に記し、一筆(一件)ごとに等級・面積・名請人を記している。田方はすべて二八七筆あり、一筆の平均面積は八畝一四歩(上田二三筆、平均八畝一四歩。中田三九筆、平均一反一畝四歩。下田一二七筆、平均八畝一八歩。下々田九八筆、平均七畝七歩)である。また田一筆ごとの最大は五反五歩、最小は九歩で、ともに下々田である。
 こうして田方が終わると、次のように等級別に地籍が集計され、田畑の石盛が示されている。
 
  上田合(あわせ) 壱町九反四畝拾三歩
  中田合 四町三反三畝拾九歩
  下田合 拾町九反三歩
  下々田合 七町一反弐拾五歩
  四口合 弐拾四町弐反七畝六歩
   上田森(盛) 拾四半  上畑森 八ツ
   中田森 拾弐     中畑森 七ツ
   下田森 八ツ七(七分) 下畑森 六ツ
   下々田森 七ツ    下々畑森 五ツ  〔注〕四口合計の末尾は七畝六歩でなく九畝になるが、原文どおりに載せた。
 
 石盛とは反別に石高を盛り付ける意味で、石盛拾四半は一反当たり米一石四斗五升のことである。本三倉村の石盛は前述の太閤検地の標準より低く、その単純平均は田では一〇・五五であるが、幕末の多古村付近の米の収穫量は上田で一石六斗といわれている。ちなみに江戸時代末期の米の平均収穫量は房総では一反で約一石五斗、全国では約一石八斗と推定されている(『房総通史』)。
 次に畑方についても、
 
  上畑合 四反八畝弐拾九歩
  中畑合 壱町九畝五歩
  下畑合 三町六反六畝弐拾九歩
  下々畑合 四町弐反弐畝弐歩
  四口合 九町四反七畝壱歩         〔注〕四口合計の末尾は壱歩とあるが五歩になる。
 
と合計が記され、以下に二六六筆の記載がある。畑方の一筆平均は三畝一七歩である。田畑合わせて五五三筆になるが、この時期の他の徳川検地の例では作業には一日六三筆ぐらいの時間がかかっているので、その速さでは大体八~九日かかったことになる。ほかに屋敷地が三、二五七坪あり、屋敷地の石盛は上畑の石盛に準じて計算される。
 以上に上げられた各等級田畑の合計に石盛を掛けて集計すると、二八八石一三五五三となるが。個人別に田畑屋敷地を集計して計算すると、二八九石余となって一石ほどの誤差が出るようである。後の『元禄郷帳』記載の本三倉の石高は二九八石九二四である。関東でこのように石高制が採用されたのはこの時期からで、それまでは年貢高を銭納高に替えた貫文制がとられていた。
 次に名請人一人ずつの石高と保有面積を計算すると第6表のとおりで、本百姓を主とする村落の構造を見ることができる。検地帳に基づいて村では、年貢負担者別に田畑・屋敷地の反別、筆数などを記載した名寄(なよせ)帳を作るのであるが、本三倉の当時の名寄帳は残っていないので、すべて昔どおりの手続きで計算してみた。農民個々の名前はアルファベットに代えた。
第6表 本三倉村個人別石高と保有面積(天正19年)
名請人石高屋敷土地合計
A36. 495425029. 12519. 51149. 516
B26. 29867021. 62710. 50032. 407
C21. 028616618. 2018. 01426. 801
D20. 93916016. 3028. 90125. 403
E20. 132713012. 4232. 60115. 504
F19. 825512917. 0185. 92923. 426
G18. 23355412. 8065. 82018. 820
H17. 908912016. 5154. 82421. 809
I15. 921711215. 7285. 32521. 515
J14. 67907610. 9214. 40115. 608
K13. 379416011. 5202. 71214. 812
L12. 645611. 0223. 00414. 026
M12. 218910. 7242. 92513. 719
N11. 994216010. 2174. 62815. 425
O11. 916610. 4143. 70614. 120
福蔵院6. 67686. 9061. 3158. 221
P5. 58447. 7290. 2168. 015
Q1. 33071. 6151. 615
R0. 75930. 9040. 2001. 104
袮宜分1. 26000. 1240. 124
a0. 8643241. 024
b0. 5732150. 705
唯閑坊0. 481800. 600
c0. 42671600. 510
d0. 3361260. 406
e0. 3361260. 406
観明院0. 321200. 400
f0. 29871120. 322
g0. 29871120. 322
h0. 2133800. 220
i0. 2027760. 216
j0. 1867700. 210
k0. 128480. 118
l0. 096360. 106
m0. 093350. 105
n0. 08300. 100
合計294. 162※3337242. 61195. 022348. 810
A~Rは合計1反以上の田畑を所有する農民である。※は11.123反。

 第6表の内A~Oの一五人は枝村である谷三倉に出作の田を持っている。この場合の年貢は出作先の領主に納めることになるが、この時期は領主はともに鳥居氏である。参考までに『作(ママ)三倉水帳』から、A~Oの保有面積と石高、および両村にわたる石高の合計を示した。末尾の内の数字はその場合の持ち高の順位である(第7表)。
第7表 本三倉村より谷三倉村への出作分の石高(天正19年)
田面積同石高石高合計
A3.9052.741939.2373 ①
B1.2070.856127.1547 ②
C1.1140.802721.8313 ④
D4.9104.29225.2311 ③
E0.9040.633320.766   ⑥
F1.801.2621.0855 ⑤
G1.2141.084619.3181 ⑧
H2.0051.628719.5376 ⑦
I3.5082.907318.829   ⑨
J4.0022.804717.4837 ⑩
K1.3021.136814.5162 ⑭
L2.5032.293714.9393 ⑬
M3.4282.87215.0909 ⑫
N3.9213.146515.1407 ⑪
O1.9281.7213.6366 ⑮
合計38.00130.1803

 これに対し『作三倉水帳』所載の村民は一二名であり、そのうち屋敷地所有者は八名である。しかし谷三倉の元禄以後の名寄帳を見ると、これらの本三倉の出作は一名を残してすべてなくなっている。おそらくこれは村切り政策によって出入作が整理された結果ではないかと見られる。それらが没収されたものかどうかは不明である。
 本三倉のA~Oの一町以上保有者は中世の名主(みょうしゅ)層の系譜をひく者と見られ、この中の最も有力な名主の家柄の者が村の名主(なぬし)となったと思われる。田畑保有者で一町以下の者が三名しかおらず零細農は二名にすぎないのが特徴的である。谷三倉村でも一二名中九名が一町以上であり、ここでは下限が八反である。(二九五ページ「持ち反で見る谷三倉村の階層」表参照)。天正十九年の香取郡の多古町域以外の村々の階層表を見ると圧倒的に七反以下の層が多く、特に三反未満の層が多い。第8表は天正十九年に検地の行われた香取郡の金山郷・虫幡村・木之内村・椿村・鹿之戸村・宮本村・諸持郷・谷津村・今郡村・馬場村・福田郷・長岡村の各階層合計と本三倉との対比である。
第8表 本三倉との階層比較 天正19年
   (本三倉は寺院・禰宜分も含めた)
持ち反香取郡内11村本三倉
40~5051
30~4071
20~30245
10~20818
9~1026 
8~9222
7~819 
6~737
5~639
4~543
3~451
2~383
1~21303
0~116916
合計73636

 本三倉には屋敷地は所有するが田畑を持たない者一四名がおり、それが一反前後以下を占めている。この比較を一見して明らかなように本三倉には一反~一町の層が極端に少ない。この層は郡内一一村では四五〇名六一%を占めるのに対して、本三倉は五名一四%弱にすぎず、上層と下層とに極端に階層が分かれている。各村郷の中で本三倉に似ているのは金山郷で、ここでは九反以上五名、二反以下一二名である。各村郷の資料は、堀江俊次・川名登氏共同執筆の『下総における近世初期徳川検地について』(『社会経済史学』二八・三、昭和三八)によらせていただいた。
 『三倉村水帳』の末尾には「大縄之覚」として四八名の名が記されているので、当時の戸数は一応四八戸であったと考えられる。これには寺は入っていないので、前記三六名中寺社関係三を除いた三三名以外に全く土地を持たない層が一五戸ある勘定になる。これらは、いわゆる「帳外の民」といわれるもので、水呑みとか抱(かか)えと呼ばれ、有力農民に隷属していたと考えられる。主人持ちの小屋に住み、主人が名請している田畑の耕作に従っている層である。
 このように当時の本三倉は、寺院・袮宜分を除く本百姓(一応ここでは八反以上とする)一六、無耕地の屋敷持ち一五、水呑み一五という三階層に分かれていたと見られる。無耕地の屋敷持ちは本百姓の分家で、本百姓の田畑を耕作していたものと思われる。彼らはこの後、開墾によって自立するか、またはそれに失敗して転落していくことになる。後の「四、村落構造の変動」の項で取り上げる谷三倉村の場合に、その例を見ることができる。こうした屋敷持ち無耕地層が多いのは、近世初期の検地の一般的傾向よりは進んだ形態であるとも考えられる。
 本百姓とは、独立して農業経営ができる田畑(一町前後以上)を持ち、村の中で一軒前と認められた農民であり、村の運営に参加できる者たちである。領主側からそれを見れば、検地によって土地保有を認められた、年貢の基本的な負担者ということになる。
 ところで『三倉村水帳』には、当時の検地帳に特徴的であった分付(ぶんづけ)の記載が見られない。同年の『作三倉水帳』にはわずかに二例が見える。分付とは名請人の肩に「某分」と付けられたもので、谷三倉の例では「甚左衛門分 惣右衛門作分」(下々畑)、「甚兵衛分 与右衛門」(屋敷)とある。分付は一般に有力農民とのそれまでの従属関係ないし土地所有関係を表わすとされるもので、下総の天正検地帳の半ばにその記載が見えるが、それも前半期に集中している。分付記載の減少傾向は、太閤検地が推進した中世的名主から小農を自立させる方針の実現過程を示すものと見られている。ただ谷三倉の場合、分付主の甚左衛門は二町一反余、名請人の惣右衛門は一町九反余、与右衛門は一町四畝余の保有者である。甚兵衛は不明であるが、その項は甚左衛門の屋敷の次にあり、甚左衛門と何らかの関係のある人物と見られる。これらの例に見る分付は、いわれるような従属関係ではなく、単なる所有関係のように見えるが、背景は不明である。「惣右衛門作分」とわざわざ書いているのは従属性を打ち消しているようにも見える。おそらく本三倉・谷三倉地域では分付関係はすでに残存せず、わずかに二筆がその名残りをとどめているといえよう。
 以上『三倉村水帳』について述べたが、検地帳は役人が検地現場での野帳に基づいて二部作製し、一部は村役人に渡され、以後、村にとって最も基本的な土地台帳となった。しかし次の総検地で更新されると古い検地帳は廃棄されるので本三倉のように天正検地帳が保存されている例は少ない。