多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第三節 久松松平氏と多古藩

 弘化三年(一八四六)八代藩主勝権(のり)の時、幕府より罪人神代(くましろ)徳次郎(元、唐大通事)の監禁を命ぜられ、身柄を引き渡された。 〔注〕通事は通詞とも書く通訳兼商務官で、オランダ通事と唐通事があり、大通事・小通事以下六階級がある。
 老中牧野備前守より申渡しがあり、藩の留守居役辻弥門が出頭し「永御預(ながのおあずけ)」を仰せつかった。評定所からの引渡しは七月二十五日深夜八つ時に行われ、辻弥門と物頭が警固の人数を召し連れて引き取った。
 いったんは堀口堅蔵長屋に四方格子、二重根太の囲(かこい)場所を造って入れたが、長期間、江戸表に置くのはよくないということで多古へ移し、西屋敷(広沼)に同様の施設を造って入れ、厳重に監視していた。
 神代徳次郎の罪状については、老中の申渡しの写しが多古町方田の石橋家文書に残っているが、事件は複雑をきわめ理解しにくい。森永種夫著『犯科帳――長崎奉行の記録――』(岩波新書)に弘化三年のその判決内容が「あいのこ目利(めきき)」の題で掲載されているので、全文引用させていただく。
 
 十二家船主周藹亭(しゅうあいてい)の席に出ていた寄合町遊女初紫は、いつか懐妊の身となり、病気と称して勝山町にいる知り合いの政八の宅に身を寄せていた。やがて男の子を生んだが、これを唐人の子としては、他日成長してから本人が困るだろうと思い、政八は、今紺屋町にいる忰の徳三郎に預け、娘のつるに養育させた。人別帳にも政八の孫廉平ということにして届けておいた。
 周藹亭は、初紫が自分の子どもを生んだことを知り、銀札二十一貫六百六十匁をその養育料として贈った。しかし、唐人からの贈りものは表向きは受領できないことになっており、初紫の手には渡らないでいた。この大金に目をつけた唐大通事の神代徳次郎はその銀札を預かり、初紫の揚げ代や衣類の染めもの代などの支払いのように見せかけた。唐人屋敷乙名(おとな)の春野弥三太もその相談に乗ってごまかしの書類を作って便宜をはかり、徳次郎はこの銀札を現金化するのに成功した。
 徳次郎はやがて長崎会所頭取の高島四郎太夫(秋帆)にわたりをつけ、廉平を四郎太夫の手代次八の実子ということにして、なにか仕事を与えてくれるように頼んだ。四郎太夫は、反物目利(たんものめきき)の平次兵衛と真八とを呼び、廉平をどこか反物目利の養子にしてくれと話した。平次兵衛、真八の二人は、権勢ある四郎太夫の言うことを聞いておかないと将来の不幸と考え、廉平を同業の駒作の養子に周旋した。
 その後、長崎会所内の乱脈が摘発され、高島四郎太夫など主だったものは江戸で処刑になった。その取り調べのとき、右の一件も明るみに出たのだった。
 廉平の養育料として初紫に贈られた銀札が途中で不当に処分されていたことは、周藹亭はなんにも関知していなかったから、その金はそのまま本人に返されることになった。しかし、そのときにはすでに彼が病死していたために、その後任の十二家船主沈晋伯が帰国するとき、その金は周藹亭遺族のものへ返却してくれるようにとことづけられた。
  判決 神代徳次郎―唐人屋敷門前で磔(はりつけ)になるべきところ、牢屋敷出火の折放免され、二度とも指示どおり帰って来たので中追放。春野弥三太―重追放。政八―三十日手鎖(てぐさり)。徳三郎・つる―急度叱り。次八―五十日手鎖。平次兵衛・真八―過料三貫文。初紫―三十日押し込め。廉平―反物目利取り放し。
 
 中追放となった徳次郎が「永御預」になった事情は不明である。西屋敷では三重の囲いを造り、番士が厳重に警戒していたのであるが、引き取ってから三年目の嘉永二年(一八四九)七月三日夜、たまたま鍵をかけ忘れていたため、すきを見て徳次郎は脱走してしまった。
 前年の十月五日、藩主勝権は病のため隠居し、嫡子勝行が家督を継ぎ、この年三月十五日に初めて暇を賜って多古に入部してきていた時であった。以下、『五十嵐家日記』によってその後の経過を記すが、家中の狼狽と困惑ぶりが目に見えるようである。
 
 ……御災難と相見(あいみえ)七月三日夜何時も不訳(わからず)逃去、番士眠り一切不存、翌四日朝見付夫(それ)より諸方手配致し相尋申候得共(そうらえども)四方に行衛(ゆくえ)相知不申、山中草を分け候ても一向足も不付当惑之次第、昼夜尋罷在(まかりあり)候。其節江戸表者町方同心江御願被成、田舎者八州取締江御願被成候に付、七月十四日夕御取締出役吉岡静助様、吉田僖平治様御廻村、其節御奉行関谷庄之助様御内談有之候て、右出役衆拙宅江御同道御越被成候。翌十五日昼御出役衆横芝江御出立に相成候。
 七月十六日殿様御発駕に付十五日御家老様迄御暇越(乞)に罷出候、表袋弐つ持参致し其夜五ツ時御陣屋御出立無滞相済、御着之節同様会所前江罷出候。
 
 徳次郎の逃亡は藩主出立の準備に家中とりまぎれた時期のすきをねらった計画的犯行であった。
 
 七月十六日夜九ツ頃八州御取締吉岡静助様、吉田僖平治様忍姿にて拙宅江御来被成、御泊りに相成候、右一件手引致歟(や)も難計者当所に有之間、夜中罷越候に付、内々留呉(とめくれ)候様御申被成候、翌十七日朝御召捕相成、引参り候、十八日加茂村江御越に相成、囚人腰縄に致、御召連被成候。
 
 徳次郎逃亡の手引きをした疑いをかけられたのは当地の百姓小左衛門といい、江戸飛脚稼ぎをしている者で、十九日に江戸へ連行された。近国の間道などを熟知する者の手引きがなければ逃走できぬはずと疑われたのである。
 
 七月十九日江戸小石川出立、御家中御目付役竹内左仲、徒士(かち)目付中尾伴吾、外に徒士弐人、廿日到着、廿五日江戸出立御供目付鈴木宮治、御中小姓三人岡部才助、小川好之丞、上月厳、徒士小川三那登、廿六日着、右之外御中小姓より徒士迄之衆五、七人位、三度も御下り被成候、皆々御陣屋に罷在候。
 七月廿四日関東御取締中山清一郎様、渡辺園十郎様、吉岡静助様御着、前之囚人御召連被成候、廿五日又々吉田僖平治様も御入来被成候、段々御吟味有之候、西屋敷中元(仲間)久治、安蔵両人御引渡相成、御吟味被成候得共一切相訳(わか)り不申候、廿七日夕御陣屋江御返しに罷成候、当所之者両人召捕に相成候処、見込違歟(か)、壱人御捨免、壱人腰縄、村預け書面出る、廿八日未明御出役様御出立被成候。
 
 そして八月二日、江戸表で家老高橋勘作方(まさ)義が公儀に対する藩の責任を一身に負うべく切腹した。『五十嵐家日記』にこの件の記録はないが、松平家の分家(飯笹松平氏)筋からの示唆により詰め腹を切らされたものと伝えられている。江戸の芝光明寺に葬られたが、なぜか多古町喜多井野にも墓碑が立っていて、これは飯笹松平氏が供養のために建てたのではないかともいわれている。同じ八月二日ようやく関東取締からの人相書手配書が近郷村々へ出されている。それによれば「丈低く太り、丸顔頬細く色赤く、髪月代(さかやき)髭(ひげ)とも薄く……言舌さはやか、少し鼻にかかる……」などとある。

井野の高橋勘作墓(中央)

 八月五日到着大目付御取締辻斎宮、中小姓鈴木弓治郎、野村銀治郎、蔵方与風金吾、徒士目付椎名喜内、斎藤丈助、伊藤金太郎、右之衆御下りに相成候(中略)是迄凡(およそ)四十人も江戸家中参り居候。
 
 続いて江戸から下る者、西屋敷の責任者や番士に付き添って江戸へ出立する者が記され、九月二日にはその年不作のためもあって村方へ倹約の触れが出され「殊に於上茂御預り人逃去候而御難渋被遊候に付」として、神事地鎮祭にも酒が禁じられるほどであった。藩財政の項で述べたように九月晦日には割元名主五十嵐篤治郎宛てに、父親の代に「御陣屋御非常金」の内から村民に貸し付けた金について、抵当の田地を他へ振り向けて才覚し、年内に返却するよう郡奉行らの連名で通達が出されている。
 藩をあげての憂慮をしり目に、逃走中の徳次郎はどの経路を通ったのか、遠く京都で召し捕られた旨の江戸南町奉行所の沙汰があり、十月四日には村々へ「向後尋ねに及ばず候」と通告があった。『五十嵐家日記』にはその件のわきに「九月廿八日江戸着の趣風聞」と付記されているので、奉行所の正式の沙汰より先に知らせは入っていたらしい。
 徳次郎逮捕の知らせによって藩の空気もなごんだのか、その年の年貢割付け、および納入に関する役所と農民の間のいきさつにそれが現われている。
 
 十月晦日当村名主・組頭・百姓代御呼出、御役所にて被仰渡
 一、御米四百七拾俵
 右者当田方、違作水腐致候処、御時節柄御物入多に候得共、村役人達而願に付、御仁恵を以被下置候間、早々皆納可致もの也。
 
 右の趣旨を惣百姓に伝えたところ、百姓側からは不作だから前年同様にしてくれと願いが出て、役所との間に立って村役人が苦慮し、米の貸付などさまざまの手立てを工面して説得に努め、最終的には役所が折れて引石(ひきこく)している。当時多古村の石高は、新田約五百石を合わせ千三百石を少し上回っていたから、平年作の年貢は千俵を越すはずであるが、その年の年貢はその半分以下という相当な不作で、物入りの多かった藩にとっては二重の苦しみであったが、それでも神代事件の落着で心がなごんでいたのであろう、藩は村方の年貢請書の提出に対し、百姓に夫喰(ふじき)米を与えるよう村役人に指示している。ただしこれは村役人が工夫して捻出したものであって藩の支出ではなかった。耕作面積の多い高持ち百姓は年貢皆済後も年間の飯米を保有していたが、小前と呼ばれる持ち高の少ない百姓にはこうした夫喰米の下げ渡しは喜ばれたであろう。しかし、それさえ次の産米によって返さねばならなかったのである。
 十一月になって、神代逮捕を依頼した八州取締の「当処に止宿致し候節、入用高金拾六両二分と百八十文懸り」(『五十嵐家日記』)について、本来は全額藩が出すべきものであるが、藩は出費が多かったため半分しか負担せず、残りの三分を多古村、七分を他の一八カ村で負担することになった。さもなくても不作で年貢に苦しむ農民にとっては余分な負担であり、その苦労は容易なことではなかったと思われる。
 そして藩に対しては、十二月十九日に幕府の裁許が下された。藩主松平勝行は閉門、家中一四名に処罰、一方逃亡した神代は死罪であった。勝行に対する御裁許申渡書は「徳次郎儀に付ては兼(かねて)より相達候趣も別(わけ)て入念に申付置候処、手当等閑之様子に相聞え、油断なる義、不調法之事に被思召(おぼしめされ)、急度(きっと)も可仰付処、格別之以御宥恕閉門被仰付候もの也」というものであった。申渡しは老中松平伊賀守宅において老中列座の上、名代の戸塚豊後守に対して行われた。
 家中の者および神代徳次郎に対する申渡しは南町奉行遠山左衛門尉役宅で行われた。
 
 中追放―家臣、浅野正作=檻内勤番であったが、昼一人、夜二人の同番足軽に病人があり昼夜一人ずつ詰めていたのを黙認し、その上、当夜は当番として、鞘水掛け口錠卸しを指示しながら確かめもせず、ことに居眠りしていたため。
  〔注〕鞘は牢屋の二重格子の間にある土間で、内鞘、外鞘がある。水掛けは屋敷境の囲いと見られる。
 中追放―足軽、川野安蔵=徳次郎勤番であったが、当夜当番の際、錠を卸しかけにしたまま居眠りし、翌朝まで逃亡に気付かなかったため。
 軽追放―中間、久次郎=徳次郎賄(まかない)方として日々の食事を運ぶ際、鞘水掛け口開閉を引き受けながら、当日行水の湯を入れ、水掛け口錠を締め忘れたため。
 押込(おしこめ)―足軽、近藤助次郎・鎌形弥助=檻内ならびに門番を勤め、昼一人、夜二人の内病人があり一人ずつ詰めていたが、当夜は弥助の当番で逃亡に気付かなかったため。
 押込―家臣、石井唯五郎・五十嵐佐太郎・勝又茂兵衛・渋谷幸助・渋谷駒之助=徳次郎の檻内勤番であったが、足軽の病気欠員をそのままに放置したため。
 押込―家臣、山田平蔵・五十嵐平左衛門・浅野平作・渋谷定治郎=徳次郎取籠めの取締として日々見回り注意すべきところ、昼夜二人ずつ詰める掟があるので増員したく、陣屋付き足軽を繰り合わせ勤務させたい旨重役高橋勘作へ申請したが、「現状で差し支えあるまい、その方らが詰めた上、昼一人、夜二人勤めるよう」申し付けられた。その後病人が出て番人不足になったのを知らず逃亡させてしまった不注意のため。
 死罪―神代徳次郎。
 
 以上であったが、中追放は住居地および武蔵から畿内に至る東海道・木曽路筋、下野・甲斐・駿河・肥前の諸国に入ることを禁じられた。軽追放は居住地、江戸一〇里四方、京・大坂・東海道駅路、日光および日光駅路などの立入り禁止、家財・家屋敷没収である。押込(おしこめ)は一定期間門を閉じて自宅に謹慎させたものである。
 十二月二十一日、役所から殿様が御閉門仰せ付けられたため正月の松飾り、祝事を遠慮し、村々火の元大切にせよとの触書が名主に渡された。
 同二十四日、関東取締より、村預けになっていた百姓小左衛門は以後預かりに及ばずという御用状が届いた。小左衛門にとって全くの濡れぎぬであったが、この後も飛脚稼ぎが許されず、安政五年(一八五八)ごろになっても内分で飛脚をしているらしいことが、当時の『多古百姓明細書』によって知られる。
 藩主勝行の閉門は約五カ月後の翌嘉永三年五月二十一日に解かれたが、同時に、追って村替えの処分をする旨を宣告された。この年は稲の成育がよく災害もなく年貢も皆済された。そして藩内は動揺と不安の内に処分を迎えた。
 
 (嘉永三庚戌年)十二月十日、領分之内、下総国香取郡、葛飾郡、上総国武射郡、長柄郡、山辺郡之内、高壱万四百三拾三石余、上知被仰付、右為代知陸奥国楢葉郡、石川郡之内高八千三百弐拾八石余被之。(『多古藩主松平氏系譜』)
 
 表高は変わらなかったが、差引き二千百五石の減石で、多古周辺の五カ村と下野八カ村を除いて、下総・上総の領地の大部分を陸奥の寒村に替えられてしまったのである。しかし、大名として残りえたのも、親藩なればこそであったかもしれない。高橋勘作の死は処分軽減に何らかの効果があったのであろうか。
 十二月十七日に五カ村の名主・組頭が呼び出され、「此度御領分御村替御上地(知)之内、下総御領分、左之五ケ村御残相成候間、為心得相達候。多古村、南中村、南並木村、南借当村、井野村」との通達を受け取った。
 一方、上知となった他の村々では次のような形式の一札を差し出している(『北中村御用留』による)。
 
   差上げ御請一札之事
一、今般御村替御上地被仰出之趣一同承知奉恐入候。右に付来春御代官所より御引渡済迄、村内混雑ケ間敷(がましき)義無之様相慎み御静謐に農務出情(精)、小前末々迄、御田地御林者不申御尋之節有躰に村境違論不仕御案内可申、且又百姓村地山畑山等之竹木四壁之竹木迄、私に猥に伐払申間舗(まじく)、都而(すべて)境論等堅令停止、村役人共御代官所御呼出之節、旧来御領中御制法之通り相守差図を請(うけ)御引渡之節、無差支様可相心得旨、被仰渡畏候。依之御請一札奉差上候。如件。
国村名主・組頭・百姓代

 明けて嘉永四年(一八五一)の元日四つ時(午前十時)に、年礼に役所へ参上したのは上知をまぬがれた五カ村の村役人だけで、例年に比べさびしい正月であった。
 正月三日、多古村村役人の寄合では「御村替にて御心配中に付、奉社(びしゃ)等の義者神事と者乍申物静にいたし度事に付、其組下江申聞(まうしきかせ)、例之大根種(だいこだね)等者無用之事、大勢相集候而者(ては)不宜、成丈(なるたけ)小勢に致、厳敷(きびしく)近所之者にて可致様組頭中江申聞候」(『五十嵐家日記』)と藩に遠慮して祝事も自粛するように申し合わせている。
 二月に入ると、上知された村々では新しい領主となった旗本諸氏を迎えているようである。三月には藩主勝行が半年の暇によって入部した。通常の参勤交替であった。前回は初入部のためもあって盛大に迎えたが、今回はひっそりとしたもので、『五十嵐家日記』には「殿様御入部御着」とのみ記されている。
 村替えによって新たに与えられた一三カ村のある石川郡と楢葉郡は、磐城(いわき)国に属し、現在の福島県いわき市、双葉郡富岡町・楢葉町に含まれている。
 石川郡領は仲村・蒜生(ひるお)村・曲木(まがりぎ)村・川辺村・上吉村・下吉村で、高二、七四二・六〇二石、楢葉郡領は小久(おひさ)村・夕筋村・上浅見川村・前原村・上小塙(こはなわ)村・上郡山村・井出村で、高五、五六二・一六一石、合計八、三〇四・七六四石であった。新領支配の役所(陣屋)は上郡山村(富岡町)に置かれ、代官ほか手代三名、医師一名に仲間二名が下向している。

上郡山陣屋図(向かって左の屋敷は名主役宅)

 新知請(うけ)取りには家老平野数馬、郡奉行清水仁兵衛、代官与風(よかぜ)金吾、鈴木弓次郎が江戸から出役したが、新領地の様子は『嘉永四年亥三月、松平豊後守御村替被仰付御新領請取御出役、道中手控』に詳しく描かれている。まず、それまで新領となった村々を支配していた代官嶋田帯刀の桑折(こおり)陣屋へ手続きに行っている。
 
 桑折宿より御新領石川郡え出る道筋、先(まず)須賀川迄(まで)帰る。当宿より左りの方〔注、東方〕一里半程行。成田宿と申(まうす)駅場有。夫(それ)より二里半斗(ばか)り行程に、仲村、蒜生村、川辺村。
 御新領石川郡川辺村庄屋鉄太郎、同人宅にて暫く逗留仕(つかまつり)、村々巡見相済候事。上曲木村、下曲木村、吉村、〆(しめて)六ケ村なり。
 右何れも入合、高山、谷合の村々、田畑の中にても一、二丈位の大石、小石は数しれず、先田畑向は甚(はなはだ)麁(そ)田(粗田)のよし。稲株などは武州辺の半株位のものなり。誠に難渋の場所、往来の人馬抔(など)、一生にも見る事稀なり。
 とうふ位は随分有之間ニ合候へ共、壱丁と申は二、三寸角位代せん(銭)五文位なり。酒は壱ぱい四拾五文、但(ただし)壱ぱいと申は弐合五勺也。槇(まき)は壱駄百七十五文位、但壱駄十二抱(把)、長さ三尺、角弐寸、一抱(把)十本結。銭相場五貫五百文、但し丁せん(銭)〔注、九六銭(くろくぜに)を百文とする数え方に対し銭百枚で百文とすること〕なり。米両七斗四、五升位、但米は宜敷(よろしく)候得共、何方(いずかた)にても鍋飯にて風味悪し。醤油は壱升弐百文位、但し江戸の百文位の品也。煙草は五匁五文位、但し甲乙あり、何れも品悪し。半紙壱帖四拾五文位、但壱帖弐十枚、大さ美濃紙位。肴は一切無之、折節参り候得共江戸の犬も喰ぬ品也。小鯛壱疋(ぴき)八百文位、綿木綿至て少し、外の品々も何事によらず高値なり。
 
 ここから楢葉郡の新領までは途中八坂峠の難所があり、平(たいら)城下からは太平洋岸を行くこと、平の飲み水事情の悪いこと、漁業の小規模なことを記している。
 
 是より御新領楢葉郡村々、小久村、夕筋村、上浅見川村、上小塙村、前原村、井出村、上郡山村、〆七ケ村也。
 右何れも海辺、磯迄十七、八丁位〔注、約二キロ〕。別(わけ)て夕筋村抔は大浪の節は庄屋の屋敷迄浪打込位の程にて漁船と申は一切無之候。前原村、小塙村辺は少し海へも隔有之候。夕筋村、上浅見川村、井出村の義は海道筋え出張居也。雁鴨の類は一切無之よし、尤鴨はよく参る候よし。
 
 このように新領は当時は下総とは比較にならないほどの荒畑の多い寒村で、この地方でも最も開発のおくれた「誠に難渋の場所」であった。両郡の村々はそれまで天領・諸藩領と二転三転した末に代官支配となり、これ以後は明治維新までの十数年多古藩領となるが、明治四年三月、磐前(いわまえ)県に引き渡されている。
 こうして神代徳次郎逃去事件は多古藩に大きな傷痕を残して終結した。家臣からは切腹一名、中追放二名、軽追放一名の犠牲者を出し、百姓小左衛門のような無実の嫌疑で迷惑をこうむった者もあった。減封となって苦しくなった藩財政は記録には残っていないが、人員整理・減給は避けられなかったと思われる。嘉永四年四月八日、本領の五カ村に、今後は不作の年でも扶食(ふじき)米の下付や、年貢の減免はできなくなった、家臣も減俸した、したがって不作の年に備えて各自食料を蓄えるようにとの達しが出されている。