多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第三節 久松松平氏と多古藩

 松平氏の多古陣屋は主として現在の多古第一小学校校庭の一部で、高野前通りに面した台地にあった。現在その遺構を伝えるのは、前面の石垣の一部にすぎない。陣屋の門は同小学校の現在の校門の右寄りにあった。本書見返しの「田(多)子飯出(土井)橋」図に陣屋の遠景が描かれている。

多古陣屋図(天保7年の多古村絵図部分)

 陣屋は明治になって多古県庁舎に使用され、多古県廃止後の明治六年に競売に付されたのであるが、その時の書類に陣屋の施設が細かに記されているので、その概要を示せば、表門、表門左右板塀、門前段石、門裏雨落石、土留石垣、中門並び左右袖塀、旧庁(畳五八畳、障子一六本、杉戸二四本、雨戸二七本)、板庫、稲荷社があり、その面積は邸地八〇〇坪、山地五〇〇坪、囚獄囲地一〇〇坪(養生所・番小屋を含む)であった。旧庁というのが元の御殿で、玄関式台槻(つき)造り、霧除(よ)け赤銅板、鏡板槻造りとある。
 旧庁は明治八年、多古学校に当てられ、多古小学校に引き継がれた。後に明治二十七年に同校改築の際に玄関は解体されて松平氏の菩提寺である峯の妙興寺に保管され、玄関正面欄間に飾られていた松平家定紋の木彫は現在、多古町公民館に展示されている。久松松平家の定紋は梅鉢であるが、葵の紋も許されており、葵と梅鉢が木彫の表裏に彫られ、欄間の前後から見られるようになっている。
 御殿の間取りについては、『多古学校沿革誌草稿』に載せてある図面を次に示した。図には説明がないが、前掲の畳数などからその広さが知られよう。御座間書院や御使者之間などがあり、家臣もここで執務していた。

御殿間取り図

 『多胡由来記』には、山地は「御陣屋の森」と記されており、陣屋表門前の道は下馬通りとされている。『五十嵐家日記』によれば、陣屋内に馬場があり、その上に長屋があったという。陣屋石垣下には堀が築かれ、正門前の橋は朱塗りであった。堀は現在の佐藤医院の外側で直角に折れて木戸谷奥の池まで続いていた。
 表門の左方に囚獄囲地があり、それには別に門があったが、ここまでは堀はなかった。
 藩主出府中の陣屋には郡奉行、元方(勘定元方か)、目付、代官のほか、組小頭配下の組部屋と、御門部屋の仲間などがいたようである。
 また藩主帰陣中の遊山の供には、側用人一名、近習五名、医師二名、御殿目付一名、代官一名、御(み)台司一名、草履取二名、小使一名、口の者(馬の口取)一名が従っている(『五十嵐家日記』嘉永六年四月の条による)。
 藩士の屋敷は主に広沼東部の現在「お西」の名が残る西屋敷にあった。
 堀の曲り角脇に割元名主の詰める割元会所があった。飛び地も含む各村の村役人(名主・組頭・百姓代)と多古宿の問屋役を支配する割元名主は、嘉永二年当時次の三名であった。共に世襲で幕末には士分に取り立てられている。
 
 多古村 五十嵐篤治郎
 南中村 柴田長太夫
 飯櫃村 池田利左衛門
 
 割元は他の地方では大庄屋とか惣代名主などと呼ばれ、郡奉行や代官の支配下に組村を支配し、触令の伝達、年貢・課役の割付け、訴訟の処理などを行った。その政治的位置については前節で述べたが、以下の各節にしばしば引用する『五十嵐家日記』にも見ることができる。
 江戸藩邸は、上屋敷(本邸)が小石川西富坂上(文京区)に、中屋敷は大久保(新宿区)、下屋敷(休養所)は小石川、後に一時、牛込揚場(新宿区)にあった。

江戸小石川上屋敷地図(右下は伝通院,上方が南である)

 なお、勝以(ゆき)以前の旗本時代の屋敷は江戸城田安門外の地にあった。
 上屋敷には藩主勝権(のり)の代に多古藩学問所が設けられている(第六節の「教育・学問」の項参照)。