多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第三節 久松松平氏と多古藩

 多古藩の財政に関する公的な記録は一切残されていないので、ここではその一端を外側の資料によってうかがい見るにすぎないことを断っておく。
 多古藩の表高一万二千石を『元禄郷帳』の村高で見ると内高は一二、三七九石余であるが、その後、検地を繰り返すとともに、一般には行われなかった本田の検地も新田の検地と合わせ実施して綿密に調べ上げており、また多古・牛尾・船越村のような大きな新田開発による増加分が両総の領地でわかっているだけでも三、二一二石余あり、嘉永三年(一八五〇)の村替え前には一六、三〇〇石に達していたといわれている。その後村替えがあって約二、三〇〇石ほど減り、明治初年には一四、一七三石であった(二六二ページ参照)。
 仮に一万六千石として年貢をその四割とすれば六千四百石である。笹間良彦著『江戸幕府役職集成』(雄山閣出版)によれば、一万石級の大名の場合、年収の九割は藩士の給与と諸経費に充てられ藩主の実収は一割未満であるという。それに従えば六百四十石しか手元に残らない勘定である。実収のうち七割は江戸での費用に充てられ、国元では三割で済まさねばならなかったという。
 江戸時代中期には米一石は一両、末期には三両であったから、それによって藩財政および松平氏の生活の規模がおおよそ見当がつくであろう。ただし年貢率四割とはいっても、多古領の本田では村によって五五%に達する所もあるが、本田・古新田の平均では三九%ぐらいで、新田は二八%くらいと下がり、総量平均では三八%になっているから、年貢は六千八十石くらいと見なければならない。
 松平勝行が二条城定番のとき三千石の役料がついているが、こうした役料は家臣の扶持に回されて余裕はないと前記の書はいっている。
 このような状態でも平時はよいが、いったん事件が起これば財政は破綻(たん)しかねない。多古藩で最大の事件ともいうべき嘉永二年(一八四九)の神代徳次郎逃去事件の際の支出は、小藩としては莫大なものであったと見え、後にその項で述べるように家臣の減俸その他の処置もとっているが、『北中村御用留』によれば次のような通達が藩役所から出されている。
 
   北中村 理左衛門 忠郎兵衛 利右衛門 所左衛門 藤右衛門 要吉 善右衛門
 右之者 御陣屋御貸付金拝借有之候処、当年於上義御不慮之儀御出来(しゅったい)、莫太(大)之御物入に付、勝手向必至被差聞之右弥(いよいよ)借金之儀、霜月廿五日限無相違上納可致もの也。
   十月 多古役所印
右村 名主組頭

 また割元名主五十嵐家の日記にも次のような記事が見える。
 
 九月晦日(みそか) 五十嵐篤治郎 其方儀先年父 御陣屋御非常金之内大前(枚)之拝借之所、身上向一旦改革に付所持之田地当分御預り歟(か)申出(いで)、一先(ひとまづ)聞届置候処、先般 上にても御不慮之儀御出来、存外之御物入にて御勝手方 種々御差支(つかへ)之御時節、右に付元来持分田地之事故(ゆえ)、可成丈(たけ)才覚引取可申又は脇合(わきあひ)江振向候共、当年内に其旨取片付納金可致もの也。
    江戸役所印
   郡奉行 辻 斎宮(いつき)様
   御目付 竹内左仲様  右立合申渡す
   代官兼 与風(よかぜ)金吾様
         割元 柴田長太夫殿
  十月七日 多古村非常拝借人一同江上納被申付候差添組頭差出す。
 
 村々の資産家へ貸し付けてあった非常金をいったん返済させて急場に充てたのであるが、この非常金を使った分だけ後は苦しくなったはずである。当時、多古藩には領民救済のための非常金の制度があったのであろう。
 嘉永五年(一八五二)には割元名主と本領村々の名主が江戸へ呼び出され、九月十七日、藩主勝行から大儀という言葉を賜った後で、家老より何分出精願うと用立てを頼まれており、多古村では十月十日に七五〇両を上納している。この時二〇両以上用立てた者には、翌月御紋付きの盃一個または茶碗一個が下賜されている。
 また文久二年、勝行が京都二条城在番のときは二条城金蔵より三千両を借りており、同四年には惣金二五〇両、内一〇〇両を五十嵐佐一郎、七五両を平山勘兵衛、五〇両を南借当・南並木・南和田三カ村名主、二五両を柴田鉄太郎が用立てている。
 主として『五十嵐家日記』の記事によっているが、何分同日記は一七六三年から一八六三年の百年間のうち一四年分しか残っていないし、勘定元の帳簿ではないので断片的にしか知ることはできない。いずれにしても勝行が藩主の時期は、神代事件とそれによる村替えの上に、幕末で公務が多く藩財政は相当に苦しかったものと想像される。
 同日記には、しゅろ等を各村に大量に植え付けさせている記事も散見する。しゅろは、当時皮をしゅろ縄に、さらし葉を草履・下駄の表や緒などに用いている。文政九年の『農業要集』(香取郡松沢村宮負定雄著)には皮一枚五文、葉一枚七文と下総での市場価格が書かれている。
 多古藩の年貢の定式引きの項目には大豆代米、小豆代米、胡麻(ごま)代米、午房(ごぼう)代米などがあり、雑穀・野菜で納めた分の米を年貢から差し引いている。大豆代米が特に多く、年度によっては米一七八俵(大豆三五六俵に相当)を引いている。藩士に給与するにしても、五人家族で年間味噌・醤油分六斗と仮定しても三分の一以下で足りるから、おそらく米よりも有利な売却利益が上がったために、このような策を採ったものと考えられる。
 しかし神代事件が起きるまでの多古藩財政はかなり裕福であったようである。事件が起きたとき藩主は国元へ帰ってきているが、その行列が多古に着いた時の出迎えのはなやかさは、詳細に『五十嵐家日記』に記されており、事件後の場合と極端な対照を示している。