多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第三節 久松松平氏と多古藩

 多古の松平氏は本姓を久松氏と称し、その祖先は菅原氏であるといわれる。菅原道真(八四五~九〇三)より三代目の雅規が尾張国智多郡に住んだとも、菅原氏の支族久松麻呂が智多郡に流されたともいい、その子孫が久松を名乗ったものとされている。久松松平氏が天満宮を守護神として祀(まつ)り、梅鉢を家紋とするのはこのためである。
 徳川家康の生母お大(だい)の方は三河国刈谷(かりや)城主水野忠政の女で、松平広忠に嫁して家康を産むが、間もなく水野氏が今川氏にそむいたために広忠は心ならずもお大を離別した。お大はその後、智多郡阿古居(現・知多郡阿久比(あぐひ)町)の小領主であった久松俊勝に再嫁して勝元・勝俊・定勝兄弟を産んだ。こうして兄弟は家康と同母の異父弟であったため、後に家康の本姓である松平の姓を賜り、同族となったのである。したがって徳川家臣団の中では譜代の一門衆に当たっている。松平氏には諸系統があるので、この一族は久松松平氏と呼ばれている。なお前の保科氏の項で述べたように、俊勝の長女多劫姫は天正十二年(一五八四)に保科正直の後妻となっている。
 家康と生母および異父弟との対面の様を『徳川実紀』の「東照宮御実紀」は次のように描いている。永禄三年(一五六〇)桶狭間(おけはざま)で今川義元が織田信長に討たれた翌年春、松平元康(家康)と信長が講和した後のことで、家康は二十歳であった(元康を家康に改めたのは永禄六年、松平を徳川と改めたのは永禄九年のころである)。
 
「君の御母北の方は岡崎より刈屋(谷)へ帰らせ給ひて後、尾州の智多郡阿古屋の久松佐渡守俊勝がもとにすみつかせ給ひ、こゝにて男女の子あまた設け給ひしが、君は三の御年別れ給ひし後は御対面も絶はてし故、とし頃恋したはせ給ふ事大方ならず。御母君もこの事を常々なげかせ給ふよし聞えければ、幸に今度尾州へ御出陣ましますちなみに、阿古屋へ立よらせたまはんとて、懇に御消息ありしかば、御母君よろこばせ給ふ事大方ならず。此久松は水野が旗下に属し織田方なれど、御外戚紛れなき事なれば、何かくるしかるべきとて、その用意して待ち設けたりしに、君やがてその館にましまして御母子御対面まし/\、互に年頃の御思ひのほどくづし出給ひて、なきみわらひみかたらせ給ふ。其傍に三人並居(ならびゐ)し男子を見給ひ、これ母君の御所生なりと聞しめし、さては異父兄弟なればとてすぐに御兄弟のつら(連・列)になさる。是後に因幡守康元、豊前守康俊。隠岐守定勝といふ三人なり」〔注〕「くづす」はうちとけて話す意。
 
 勝俊(康俊)の兄、勝元(康元)は家康の関東入国のとき下総関宿二万石、後に四万石を与えられ、その子忠良のとき美濃大垣五万石となった。その子忠憲は信濃小諸四万五千石に移るが、嗣子がなく断絶した。しかし、忠憲の弟康尚(ひさ)に下野那須において一万石を賜り名跡を継がせたが、その子忠充(みつ)が乱心のため領地取上げとなり、その子康顕(あき)からは旗本となっている(信濃佐久郡で五千石)。しかし康顕は若死したのでその采地は収められ、弟尚慶に同郡で千石を与えられたが、康顕の子康郷(さと)が父の遺跡に千石加増されて、下総香取郡ほかで六千石を知行した。その子康真(まさ)を経て孫康盛が継ぐが、この時、飯笹に陣屋を構えている(地域史編飯笹参照)。
 勝俊の弟、定勝は伊勢桑名十一万七千石となるが、それより先天正十八年に下総香取郡小南(こみなみ)に三千石を与えられている。定勝の次男定行は伊予松山十五万石、三男定綱は初め下総山川(小見川町)五千石から伊勢桑名十一万石、五男定房は伊予今治(いまばり)三万石余を領し、ともに明治まで相続されている。それぞれ松山の久松、桑名の久松、今治の久松と呼んでいる。桑名の松平家は後に越後高田を経て陸奥白河に転じ、中納言田安宗武の子定信(白河楽翁)が養子に入っている。定勝の四男定実は旗本となり、六男定政は三河刈谷二万石を領するが、乱心のため収封され、子孫は旗本となっている。