多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第二節 碁石まじりの支配

①大名・旗本
○配列は五十音に従った。【 】は領地・知行地、( )内の年度は文書に表われた最初と最後の所領年度である。*印は宝暦十一年、※印は明治初年時点の領有を表わす。
○継嗣者の名前はできる限り収載したが、改名による同一人物の重複はそのまま残し、襲名によって重複する通称や官職名は省略した。
○石高は主に明治元年のものである。
  青山善四郎【五反田村】(慶長ごろ)。
 *朝比奈主殿(とのも)【飯笹村】(享保六)、百助、源六郎(宝暦一一)。
*※有馬治郎兵衛重広【林村】(元禄一四)、八郎右衛門、伊織、次郎兵衛、伊織、喜三郎、勇五郎、彦之進(明治初)一二二石余。
*※安藤若狭守【島・水戸・東台村】(享保一三)、岩之丞、大膳、次(治)右衛門(明治初)島七二八石余、水戸七四石余、東台二六八石余。
  伊井半七【水戸村】(元禄六)。
*※石谷(いしがや)七之助【中佐野・間倉村】(宝暦一一)、大助、庄之助、友之助、鉄之助(明治初)中佐野五三石余、間倉二七石余。
  石川主殿頭(とのものかみ)忠総(ふさ)(佐倉藩)【多古村他】(寛永一〇―一一)。
 ※稲葉兵部少輔正巳(館山藩)【北中村】(嘉永五)、備後守正善(明治初)八七六石余。
*※上田門作【寺作村】(享保一三)、万五郎、権治郎、万五郎、順之助、鑅(えい)助(明治初)四五石。
 *内田出羽守【本三倉村】(元文一)、主膳、近江守、和泉守(天明三)。
  大久保加賀守忠朝(佐倉藩)【石成・林村他】(延宝六―貞享三)。
*※大河内多宮【井戸山村】(享保一三)、文三郎、善左衛門、相模守、又之助(明治初)九四石余。
 ※大沢勘解由(かげゆ)【千田村】(安永五)、主馬(しゅめ)、肥前守、四郎(明治初)六三石余。
*※太田仁左衛門【谷三倉村】(寛文五)、庄兵衛資重、藤右衛門、庄兵衛資盛、庄右衛門富吉、乙三郎、下総守、播磨守【本三倉村の内加増】(天保一一)、下総守、筑前守(明治初)谷三倉二〇六石余、本三倉二九四石余。
  大森織部(おりべ)【南並木村】(安永五)、勇三郎(弘化二)一石余。
 ※小笠原鎚(つち)太郎【船越村】(明治初)五一三石余。
*※小栗又一【五反田村】(元和二)、又市、又一、庄次郎、上野介(明治初)一一七石余。
*※小田切土佐守【一鍬田・寺作村】(元禄一三)、喜郎、土佐守、鉄之丞、土佐守、愛之助(明治初)一鍬田五石余、寺作四三石余。
*※加藤主膳【東松崎村】(元文三)勝兵衛、佐七郎、岩太郎(明治初)七五石。
*※神尾市左衛門【中佐野・間倉村】(享保一三)、備前守、市左衛門、弥五郎、市左衛門、山城守、市左衛門(明治初)中佐野三五石余、間倉一八石余。
 *神田与七郎【高津原村】(宝暦一一)。
  酒井山城守重澄(下総国生実藩)【南玉造村】(―寛永一〇)。
 ※篠(ささ)山忠左衛門【井戸山・坂村】(安永五)、忠左衛門、伊織、隼人、庄左衛門、金次郎(明治初)井戸山三〇石余、坂一一七石余。
*※佐野彦九郎【大原村】(宝暦一一)、右兵衛尉、鉄之進、欽六郎(明治初)二二六石余。
*※神保安芸守氏張【高津原・桧木村】(天正一九)、氏長、市右衛門氏勝、氏信、内匠(たくみ)氏寿(とも)、市右衛門氏秀、隼人武周(ちか)【石成村の内、一鍬田村の内加増】(元文五)、内匠、五郎兵衛武甫(はる)(隼人)、市右衛門、亀三郎、数馬(明治初)高津原二七六石余、桧木六六石余、石成九七石余、一鍬田一〇六石余。
 ※杉浦伝之丞【水戸・牛尾村】(嘉永四)、常之助(明治初)水戸五〇石余、牛尾三九〇石余。
*※瀬名源五郎弐明(かずあき)【井戸山・大門村】(享保七)、源五郎貞雄、俣次郎(明治初)井戸山四一石余、大門一二三石余。
*※妻木宮内【坂村】(宝暦一一)、富次郎、徳之助、久之丞(明治初)六三石余。
  土井大炊頭(おおいのかみ)利勝(佐倉藩)【多古・船越村他】(慶長一五―寛永一〇)。
  戸田山城守忠昌(佐倉藩)【石成・林村他】(貞享三―)、能登守忠実(―元禄一四)。
  鳥居彦右衛門元忠(矢作藩)【次浦・西古内・井戸山・高津原・大門・出沼・本三倉村】(天正一八―)、忠政(―慶長七)。
*※内藤源左衛門【東松崎村】(寛文四)、万之助、源助、源左衛門、源助、修理(明治初)二〇〇石。
*※内藤主膳長政(千之助・与兵衛)【中佐野・間倉村】(宝暦一一)、熊太郎、重郎兵衛、彦次郎(明治初)中佐野三五石余、間倉一八石余。
*※永井監物(けんもつ)【中村新田村】(宝暦一一)、釆女(うねめ)、伊織、房之助(明治初)一一七石余。
 ※中島三左衛門【川島村】(宝暦一一)、鎮太郎(明治初)五〇石余。
*※中根大隅守正成【林・川島・坂村】(寛永一二)、日向守正勝、大隅守正延、大隅守正利、大隅守正直(内膳)、日向守正均(ただ)(内膳)、定之助、恵三郎、主計(かずえ)(錬次郎)(明治初)林一一一石余、川島四九石余、坂(弘化二)一六石余。〔注〕坂村領は明治初年なし。
*※中山外記(げき)【東松崎村】(元文三)下野守直彰(なおあきら)、藤兵衛、攸(ゆう)之進(丞?)(明治初)一〇四石余。
*※新見勘左衛門正房【坂村】(宝暦一一)、八郎左衛門、銈次郎(明治初)八四石余。
*※西尾小左衛門【南並木村】(寛延四)、甚之丞、半三郎、小左衛門(明治初)三五石余。
*※初鹿野(はじかの)次郎左衛門昌重【染井村】(元禄二)、兵右衛門、勘解由(かげゆ)信定(次郎左衛門)、六三郎信照、兵右衛門、啓之助(明治初)一五〇石余。
*※初鹿野伝右衛門昌次【東佐野・染井村】(寛文六)、伝右衛門信定、民部信彭(ちか)、伝右衛門信興(又八郎)、美濃守、備後守、河内守、伝右衛門(河内守)(明治初)東佐野八九石余、染井三四一石余。
*※長谷川久太夫【出沼村】(宝暦一一)、三郎助、鉱五郎、久太郎(明治初)七八石余。
*※馬場藤重郎【本三倉・方田村】(宝暦一一)、権六郎、錠三郎、繁治郎、新一郎(明治初)本三倉四石余、方田四九石余。
 ※羽太(はぶと)清右衛門【方田村】(安永五)、権兵衛、十太夫(明治初)六六石余。
 ※原田源八郎【方田村】(宝暦一一)、勘兵衛、秀之丞(明治初)六五石余。
  土方(ひじかた)河内守雄久(おひさ)(越中国野々市藩)【多古・林村他】(慶長九―)、掃部頭(かもんのかみ)雄(かつ)重(―元和八)五、〇〇〇石。
 ※平岡丹波守道弘(安房国船形藩)【南玉造村】(嘉永四―明治初)九七二石余。
*※伏見主水(もんど)【出沼村】(宝暦一一)、勘七郎、主水、右京、忠四郎、善次郎(明治初)七八石余。
  保科甚四郎正光【多古村他】(天正一八―慶長五)一〇、〇〇〇石。
  堀田加賀守正盛(佐倉藩)【石成・林村他】(寛永一九―)、上野介正信(―万治三)。
*※堀三六郎【中佐野村】(宝暦一一)、喜内、十次郎、金(勤)十郎、貞之助(明治初)八一石。
*※本間十右衛門季明【石成・飯笹・次浦村】(元禄一一)、五郎左衛門、重左衛門、修理(重左衛門)、重右衛門、佐渡守、帯刀(たてわき)、重右衛門、縫殿(ぬいどの)助、大学、縫殿之助(明治初)石成三七石余、飯笹二六石余、次浦四五四石余。
*※牧野源之助【東松崎村】(元文三)、助十郎、健次郎、小田次、助十郎(明治初)二〇〇石。
 ※松浦酒之丞【水戸・船越村】(嘉永四)、亥三郎(明治初)水戸一九七石余、船越三三九石余。
*※松下清九郎重氏【林村】(元和八)、半六郎之則、半兵衛、半之丞之備、半六郎長儀、半之丞、清九郎之覃(ひろ)、内匠正亮、治郎太郎、由之助(明治初)九八石余。
  松平和泉守勝隆(上総国佐貫藩)【次浦村】(寛永一六―)、修理亮重治(―貞享一)。
  松平和泉守乗(のり)久(佐倉藩)【石成・林村他】(寛文一―延宝六)。
 ※松平因幡守康郷(さと)【飯笹村】(明和二)、康真、康盛、中務、因幡守(明治初)四二三石余。
  松平紀伊守家信(佐倉藩)【石成・林村他】(寛永一二―)、若狭守康信(―寛永一七)。
*※松平九郎右衛門【井戸山・大門村】(享保七)、与十郎、吉重郎、安房守、九郎右衛門、春之丞(明治初)井戸山三八石余、大門一二一石余。
*※松平小左衛門勝光(勝国とも)【水戸・南和田村】(寛文一〇―)、勝興、勝寿(なが)、岩五郎勝忠、織部、藤三郎勝久、鉄三郎、房之助、小左衛門(明治初)水戸六一石余、南和田八〇石余。〔注〕久松松平家分家。勝光は多古松平四代勝易の弟。
*※松平半十郎勝郷(さと)(初め勝忠)【船越・御所台村】(寛文一〇―)、勝央(なか)、源四郎勝友、源六郎勝方(みち)、勝美、熊三郎勝久(初め雄之助)、熊三郎、斧七郎勝光(明治初)船越八八石余、御所台一五九石余。〔注〕久松松平家分家。勝郷は勝光の弟。
*※松平勝義【多古・水戸・井野・船越・御所台・南和田・牛尾・南玉造・南中・北中・南借当・南並木村】(寛永一二)、勝忠、勝以(ゆき)(多古藩成立)、勝房、勝尹(ただ)、勝全(たけ)、勝尹(ゆき)、勝権(のり)、勝行【村替えのため多古・井野・南中・南借当・南並木村となる】(嘉永四)、久松勝慈(なり)(明治初)一、七二五石余(村替え前四、五一二石余)。
*※三木平八郎【染井・東松崎村】(享保六)、金兵衛、平八郎、八十五郎、兵庫、重兵衛、勘解由、董(薫)太郎(明治初)染井四六石余、東松崎二〇〇石。
  三田順之助【寺作村】(弘化二)四五石。
*※美濃部彦左衛門【東松崎村】(元文三)、助右衛門、彦重郎、左近、栄次郎(明治初)二〇〇石。
*※三宅藤蔵【西古内村】(宝暦五)、新五郎、久三郎、与五郎、光次郎(明治初)一八一石余。
*※森川庄兵衛【東松崎村】(寛永一三)、八左衛門、金十郎、八左衛門、庄兵衛、鉄太郎、釆女(うねめ)(明治初)二〇〇石。
*※山岡五郎作【出沼村】(享保七)、但馬守、菊三郎(明治初)七八石余。
*※山角藤兵衛【中佐野・間倉村】(元禄六)、四郎左衛門、礒之助(明治初)中佐野三五石余、間倉一八石余。
*※吉田意麿【井戸山・坂村】(享保一三)、意安法印(明治初)井戸山三〇石余、坂一一六石余。
*※和田八郎【方田村】(宝暦一一)、帯刀、八郎(明治初)一九石。

弘化2年各村相給図

 上図は弘化2年(1845)の『関東取締出役控帳』により当時の多古町域各村の相給の状態を図示したものである。ただし寺社の免除地は除いた。
 この後、嘉永3年(1850)に多古藩の村替えがあり、次のような変更があった。
 水戸村 安藤・杉浦・松浦・松平
 船越村 小笠原・松浦・松平
 牛尾村 杉浦・天領 南玉造村 船形藩(平岡)
 北中村 館山藩(稲葉)・天領
 以上は明治初年の『旧高旧領取調帳』によった。
 各村における諸氏の石高については「支配者一覧」の各項を、各村の村高については287ページを参照されたい。

②幕府直轄地(天領)代官
○配列は文書初出の年度により、年代順に行った。
○( )内の地域は文書に表われる支配地である。
 天正一九(一五九一)  南条帯刀(たてわき)則勝(南玉造)
 寛永一一(一六三四)  間宮彦次郎忠次(南玉造)
 延宝 二(一六七四)  水野主水(もんど)(千田)
 元禄 六(一六九三)  小野斎宮(いつき)(千田)
   一〇       設等(しだら)(木(ぎ))勘左衛門(桧木)
 享保 九(一七二四)  小宮山杢進(もくのしん)(飯笹・一鍬田・高津原・桧木)
   一三       野田三郎右(左)衛門(島)
   一七       伊奈半左衛門(飯笹)
   一八       疋(ひき)田庄九郎(飯笹・高津原)
 元文 一(一七三六)  安生太左衛門(飯笹)
    三       関口作左衛門(東松崎)
    五       遠藤久左衛門(飯笹)
 延享 一(一七四四)  上安左衛門(飯笹)
    三       鈴木小右衛門(高津原)
    四       泉本儀左衛門(千田)
 宝暦 二(一七五二)  佐々新十郎(飯笹)
    二       小次郎八(飯笹)
    四       前沢藤十郎(飯笹・高津原)
    九       小新五郎(飯笹)
   一〇       青山市左衛門(飯笹)
 宝暦一一       渡辺半十郎(千田・飯笹)
            神田与七郎(高津原)
   一三       遠藤兵右衛門(飯笹・高津原)
 安永 四(一七七五)  飯塚伊兵衛(島・千田・飯笹・一鍬田・高津原・桧木)
    九       稲垣藤左衛門(千田・飯笹)
 天明 二(一七八二)  稲垣藤四郎(飯笹・高津原・桧木)
    八       内方鉄五郎(飯笹)
 寛政一一(一七九九)  滝川小右衛門(千田・飯笹・一鍬田、高津原)
 文化 八(一八一一)  鈴木伝市郎(一鍬田)
    九       岸本武八(飯笹)
   一二       中村八太夫(飯笹・一鍬田)
 文政 四(一八二一)  山田茂左衛門(飯笹・一鍬田)
 天保 三(一八三二)  森覚蔵(千田・飯笹・高津原)
   一三       羽外記(げき)(飯笹)
   一四       勝田次郎(飯笹・高津原)
   一五       高木清左衛門(飯笹・高津原・桧木・東松崎)
            田口五郎左衛門(桧木)
 弘化 三(一八四六)  岩田鍬三郎(飯笹・北中)
 嘉永 五(一八五二)  佐々木道太郎(飯笹・北中)
 文久 三(一八六三)  今川要作(飯笹・北中)
 元治 一(一八六四)  小笠原甫三郎(飯笹)
 慶応 二(一八六六)  大竹左馬太郎(飯笹・北中)
    三       小川達太郎(飯笹・東松崎・北中)
            河津伊豆守(北中)
 年代未詳       篠田藤四郎(飯笹)
 
 以上の内、享保十三年の野田三郎左衛門の場合でいえば、当時、香取郡内の天領の内の二五カ村を支配している。
 代官は下級旗本が任命されたが、その職務は田畑調査・年貢徴収のほか人別改・土木普請・救済などの行政と、治安・民事裁判・軽犯罪裁判などの公事であった。寛政以後、天領の経営は勘定奉行の管轄になるが、代官は寛政初めまでは伊奈氏が世襲した関東郡代の支配下に置かれていた。このような郡代―代官による農村の支配系列が整備され、農民法令が強化されたのは寛永期であった。
 江戸町奉行の与力給知は、中佐野・間倉・井戸山にあったが、この支配は町奉行が行っている。
 なお、関東郡代が廃止になってから幕府は文政十年(一八二七)天領・私領・寺社領に関係なく約四五カ村(高一万石標準)を一まとまりにした改革組合を、水戸徳川家領分を除く関東全域に結成させている。その司法・警察には関東取締出役が当たった。関東取締出役および改革組合村の設置を必要とした関東農村の治安の悪化は、前述のように複雑な相給による碁石まじりの支配形態と支配者の知行地不在に主な原因があった。
 弘化二年(一八四五)の関東取締出役の控帳によれば、香取郡の支配地は一〇組合に分けられ、多古町域の各村は「多古村外五拾壱カ村組合」に属している。この組合の中心である寄場(よせば)(親村)は多古村に置かれ、寄場名主がいて、ここが触元(ふれもと)となっていた。この大組合はさらに何カ村ごとの小組合に分かれ、この形態は明治初期の大区・小区に引き継がれている。
 寄場とは、各村から出される役人の道案内(職名)の集合場所の意味で、寄場会所(役所)が置かれ、その長は大惣代と称し、その下に二、三名の惣代がいるのであるが、多古の会所のことはわかっていない。
 また寺社関係では次のような寺社領(朱印地)・除地があった(明治初年の『旧高旧領取調帳』によったが、これには南並木村の日本寺領が入っていない)。それぞれ年貢・課役を免除されている。
 
  次浦村  惣躰神社祭典免除地、観音堂免除地
  井戸山村 日枝大神祭典免除地
  大門村  稲荷大神・妙見祭典免除地、薬師堂・阿弥陀堂免除地
  出沼村  熊野大神祭典免除地、薬師堂免除地
  東松崎村 稲荷神社領
  南中村  妙興寺領、日本寺領
  北中村  六所大神領、浄妙寺領
  南借当村 高皇産霊社免除地
 
 これらの石高合計は一一四石余である。
 以上のほかに本町域北西部には野馬(のま)奉行の支配地があり、十余三・飯笹付近には矢作牧(やはぎまき)に、桧木・一鍬田付近には取香(とっこう)牧に属する地域があった。
 矢作牧・取香牧は、油田・内野・高野・柳沢・小間子の牧と合わせて佐倉七牧と称し、小金五牧とともに江戸時代を通じて重要な馬の放牧場であり、幕府の支配下に置かれていた。
 両牧の支配は、慶長十九年(一六一四)に小金・佐倉牧野馬奉行兼牧士(もくし)支配として綿貫夏右衛門(綿貫村名主)が命ぜられ、小金町に役宅を与えられた。以後鍋三郎を代々称し、世襲となっている。牧士も世襲で武士の待遇を受けていた。
 牧の周囲には高い土手を築いて牧馬の逃亡を防止していたが、十余三や一鍬田には現在もその遺構が残っている。飯笹・一鍬田など野付(のづ)けの村々には勢子(せこ)人足の夫役(ぶやく)が割り当てられ、毎年一回野馬捕りに勢子として使役されたほか、土手の修理、牧馬の見回り、灌木の伐採などもしなければならなかった。
 牧に隣接した野付け村の野続きの村々は霞(かすみ)村と呼ばれ、これらの村も野馬捕り以外の諸作業を課せられていた。ただ多古町域の村々のその所属・区分は明確でなく、享和三年(一八〇三)の『総州七牧御野馬捕村高覚』という文書(飯笹萩原家文書)には、一鍬田村は矢作牧二四カ村の内に、飯笹・出沼村は油田牧三四カ村の内に入れてあるが、他の村は明らかでない。
 そのほか小金牧で将軍の「御鹿狩」が催されるときは、勢子人足として牧の野付け村・霞村ばかりでなく常総武三国の農民が村高に応じて課役されている。東松崎村の松崎式部執筆の『御鹿狩日記』(越川弘視家文書)は嘉永二年(一八四九)にそれが行われた際の詳細な記録である。
 また銚子・江戸往還およびその宿場としての多古宿は幕府の道中奉行の支配を受け、多古宿は公用の人馬通行に対する伝馬役を負わされていた。近郷の村々も多古および加茂宿の常備人足の不足するときには助郷(すけごう)を課せられている。
 以上のような権力機構の支配を受ける村方の組織は名主・組頭・百姓代の村方三役であるが、多古藩内では領内各村を統轄する割元(わりもと)名主が置かれていた。割元名主・村役人・村民の三者の関係ないし村民の立場は、北中村の明和二年(一七六五)の「覚」の中に次のように書き表わされている。
 
元禄十六年御領分村々江被(られ)仰付候得共(そうらえども)違乱之者茂(も)有之之由相聞候に付此度又々書付差出候。(中略)
一、不何事一同申出事あらば其村名主・組頭を先達(さきだて)多古割元江申出、割元より役所江可申出(いづ)候。最(尤)名主・組頭之外者人員可五人大勢を催出争ふに於ては可徒党同前事。(後略)
(北中区有文書)

 このような上からの規制よりも、ここではむしろ元禄十六年(一七〇三)に通達があってからも(したがってそれ以前から)これに違反する者が絶えなかったという村民の民主的要求の行動の方に注目しておきたい。
 村役人は村内の上層有力者の間で選ばれ支配者の承認を受けて決められていたので、小前(平百姓)の者が会合して自主的に決めようなどというのはもっての外のことであった。嘉永六年(一八五三)南玉造村で小前の者が集まり連判状を作って村役の年番化を要求する動きがあったが、取調べを受けた土方与作という村民は口書(くちがき)(口上書)で「私方にて議定連印仕候趣被御承知始末有躰(ありてい)可申立候」として次のようにいっている。なお土方与作は村役人ではない。
 
 当月十一日村内又右衛門罷-出私宅寄合相談御座候間、宿貸し可申旨被申聞候。任其意貸置申処、村方名主見習佐右衛門方江年番願之儀に付き連印之者共議定書取極(きめ)可申由又右衛門盛立仕、書類相認、一同連印仕候様子に御座候得共、私儀者他所江参り候者事に御座候間、村役等之儀彼是可申筋に無御座候。宿を貸候の已(み)にて前書申上げ外も前後様子とも不申候。
 
 この一件では名主見習役佐右衛門は退役となり、又右衛門以下六人の農民が処分されて終結している。