多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第二節 碁石まじりの支配

 徳川氏はその所領の内から旗本に知行地を分け与え、残りを蔵入(くらいれ)地とし、天領と称して直轄した。天保(一八三〇~四四)の末ごろ、旗本約五、一〇〇家の内、地方(じかた)知行を給知された者は約二、三〇〇家あり、全国で約二六〇万石に上っている。天領も江戸時代を通じて約四〇〇万石を維持していた。旗本知行所数の約八割が関東地方に置かれたが、国別にその石高を見ると、下総は武蔵・上総に次いで多い。宝永二年(一七〇五)の時点で、下総の旗本知行所は全国のそれの一一%、上総・下総両国を合わせると二四%を占めている。
 蔵入地は、関東地方では武蔵を中心とする約三〇万石の地を、関東郡代伊奈氏が各地に代官所を置いて支配した。伊奈氏はそれを世襲したが、寛政四年(一七九二)に廃絶し、それ以後は勘定奉行が関東郡代を兼ねていた。しかし幕末に関東農村の治安が悪化したため、文化二年(一八〇五)関東取締出役、いわゆる八州回りが置かれ、その取締に当たった。
 両総地方には、このような旗本知行地と天領のほかに、江戸町奉行配下の与力の給料に充てる奉行給知も各地に置かれており、それらが大名領(それも飛び地が多い)や社寺の朱印地と入り混じっていた。あたかも盤面一杯に白黒の碁石が雑然と敷き詰められたようであったから、この支配形態は碁石まじりと称された。この形は関東では一般的であったが、房総地方はその典型ともいうべき地域で、多古町一帯の村々もその例外ではなかった。以上五種の支配者の多古町域全体に占める石高の比率は幕末で、旗本領六一・六%、大名領二九・八%(内、多古藩一八%)、天領七%、与力給知〇・八五%、寺社領・免除地〇・七五%で、旗本領がその中心となっている。
 江戸時代には知行地は村を単位としていたが、一村が複数の支配者によって分割知行されることを相給(あいきゅう)(相知・分給・分郷など)といい、二~五給になることが比較的多かったが、時には一〇給以上になることさえあった。多古町域の村々では第3表のように相給の村は全四〇カ村の内で三時点平均六〇・五%を占め、東松崎村の九給が最多給であった。
第3表 相給村数の変遷
宝暦11弘化2明治1平均
(1761)(1845)(1868)
一給16161515. 7
二給11111211. 3
三給5665. 7
四給4233
五給1211. 3
六給1221. 7
七給0000
八給0000
九給1111
合計394040
相給村比59%6062. 560. 5

 また相給の際の土地の分割のしかたも、一線で境を画すというものではなく、一人の耕作地の中でも田畑一枚ごとに支配者が異なるという場合さえあった。方田村に残っている絵図を見ると、三人の旗本の支配地の区別を表わすの記号が畑一枚ごとに打たれて入り混っており、碁石まじりの様相を如実に知ることができる。こうした田畑の入り混りも相給の村では少なくなかった。

方田村絵図

 多古町域村々の武家の支配者数を、約百年にわたる三年代で示したのが第4表である(二〇七ページ「弘化二年各村相給図」参照)。江戸時代後期にはあまり変動がなく、嘉永三年(一八五〇)に多古藩の村替えがあったため異動はあったが、明治元年の数は変わっていない。
第4表 各村支配者数の変動
(寺社領・免除地を除く)
村名宝暦11弘化2明治1
(1761)(1845)(1868)
多古111
211
水戸334
石成222
千田122
333
五反田111
東佐野111
中佐野666
東台111
大原111
井野111
染井333
飯笹233
間倉555
一鍬田233
船越223
牛尾112
次浦111
西古内111
御所台111
寺作222
井戸山466
高津原322
大門222
桧木222
出沼333
本三倉222
谷三倉111
川島222
東松崎999
454
方田444
南玉造111
南中422
北中122
南和田111
南借当111
南並木242
中村新田11
合計899595

 なおこのような零細な分割知行が行われたのは、知行地を支給する際に、知行高の不足分を近くの村から足石(たしこく)する越石(こしこく)などの処置を取ったためである。時には収納の平均化を図って行う場合もあった。
 相給の場合、一村が分郷され、それぞれに原則として村役人が置かれた。一村を代表するときは、各名主が交代で年番または月番名主(輪番名主)を勤めた。こうして村役人が増えるごとに村入用(村費)は増え、知行所単位で諸掛りを配分しなければならなかった。また同じ旗本を共通に地頭とする村々では知行所総代名主を置く場合もあった。また千田村のように天領に住民が一名もなく、旗本知行地の名主が天領の名主を兼ねている所もあった。
 相給の村の一例として、本章第六節の「日蓮宗不受不施派の法難」の項に引用した、天保十一年十一月十六日付の寺社奉行宛て請証文の署名から、中佐野村の場合を見てみよう。
 
   堀金十郎知行所
    下総国香取郡中佐野村
       百姓 新右衛門(以下四名略)
   山角礒之助知行所
     同村
       清左衛門女房 げん(以下一名略)
   石谷友之助知行所
     同所
       百姓 茂左衛門
   神尾山城守知行所
     同村
       百姓ニ而医師 梅英
   筒井紀伊守組与力給知
     同村
       百姓 権右衛門
     右拾人代
      同給知
       組頭 善兵衛
     村役人惣代
      右友之助知行分
       名主見習
        利吉代兼
      右金十郎知行分
       名主   与惣兵衛
 
 中佐野村は六給であるが、内藤重郎兵衛知行地では不受不施派信者がいなかったので五人の支配者の名が出ている。中佐野村は弘化二年(一八四五)に家数一九軒の小さな村である。ただし天保九年(一八三八)の大巡見の際に提出した文書の覚では二四軒とある。家数の内訳を見ると、弘化二年の場合、堀給が七軒、山角給二軒、石谷給三軒、神尾給二軒、内藤給二軒、町与力給が三軒である。そしてそれぞれに村役人が置かれ、五人組も別になっていた。
 相給の場合、同じ村でも支配者によって年貢率が異なることがあり、幕末から明治初期に川島村では中島氏の年貢が三八%であったのに対し、中根氏の場合は四八%と一〇%も違っていた。
 分散知行について、初め桧木村と高津原村の一部を知行した神保氏の場合を見ると、天正十九年(一五九一)に与えられた知行書立(かきたて)は次のようになっている。
 
       御知行書立
  一、六拾六石四斗壱升三勺二才
            下総国やはぎ(矢作)領之内
             ひの木(桧木)之内
  一、百四拾五石四斗三合八勺四才
            同領
             かな山郷之内
  一、弐百七拾六石三斗九升三合
            同領
             たかつわら(高津原)郷
    (以下、中野・稲荷(とうか)山・成井(なるい)・柴田・古山郷の分省略)
    合弐千石
   右分御請取可成候、  (重而カ)御朱印可申請候。
     卯七月吉日                                     伊奈熊蔵(花押)
                                            長谷河七左衛門(花押)
    神保安芸守殿
 
 これは関東検地奉行伊奈忠次・長谷川長綱から、神保氏の初代安芸守氏張(うじはる)に宛てた知行割である。矢作領は当時、鳥居元忠四万石の所領であるから、天正十九年の検地によって生まれた超過分を削って神保氏に与えたものであろうか。その後あらためて将軍からは朱印状が与えられ氏張の領主権が認められている。
 
     下総国香取郡弐千石並山林等之事
   右出置訖(おわんぬ)永可知行者也、仍如件。
     天正二十年二月朔日                                 (家康朱印)
    神保安芸守殿
 
 神保氏の知行地はすべて香取郡の内であるが、このように各地に分散しており、桧木村では相給となっている(神保氏については地域史編一鍬田・高津原参照)。
 旗本は江戸に集住させられていたため、知行地とは年貢収取の関係しか持たないのが普通であった。大名に昇格する前の多古の松平氏のように知行地に陣屋を置くのは、一万石未満でも譜代大名並みの待遇を受けて参勤交替をする、いわゆる交替寄合衆だけである。したがって旗本領は天領・藩領に比べ支配力が弱く、江戸時代末期には治安が悪くなり関東取締出役の支配下に置かれるようになったのである。
 以下は多古町域に天正十八年(一五九〇)以降明治初年まで約二八〇年の間に領地・知行地を持った大名・旗本を五十音順に列記したものである。
 当町域に知行地を持った旗本は四〇カ村に延べ五六家(多古松平氏も入れる)、宝暦十一年(一七六一)には四七家、明治初年には五〇家であった。また大名は延ベ一四家(内佐倉藩七家)で、宝暦十一年には多古松平氏ただ一家、明治初年には三家であった。なお第4表の内、旗本知行地は宝暦十一年四〇カ村に六三カ所、明治初年には七七カ所であった。
 大名・旗本に続けて、幕府直轄地の代官を、これは任期制のため年代順に列記した。