多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第四章 近世

第一節 初期の多古支配者

 保科氏の領地は定かではないが、後に松平勝義が知行した多古・水戸・井野・船越・牛尾・南玉造・南中・北中・南借当・南並木の村々のほか石成・林から飯笹に至る一帯と考えられ、多古町域の外では八日市場市の飯高一帯から小見川町の五郷内に至る銚子道に沿った地域ではないかと推定される。また芝山町の旧千代田村域は、初め多古藩領で後に佐倉藩領になったという(『山武郡郷土誌』)ので、保科領であった可能性が強い。飯櫃の山室氏が保科氏に滅ぼされたという伝承(『総州山室譜伝記』)からもそれは考えられよう。
 保科氏が慶長七年(一六〇二)多古を去った後は一時幕府直轄地となり関東代官頭長谷川七左衛門の支配に属するが、保科領の内多古村を含む五千石は次の土方氏が慶長九年に継承し、残りの船越・牛尾・井野・南借当を含む地域は佐倉藩の土井氏および石川氏が領有したと思われる。佐倉領となったこれらの村には寛永八年の同藩の検地帳が残っている。土方氏が元和八年(一六二二)転封となった後は、一時天領となり代官南条帯刀(たてわき)の支配となったようである(柏熊区有文書)。その後、下総生実(おゆみ)二万五千石の酒井山城守重澄が寛永十年に改易になるまで南玉造などを領有するが、一時また天領となって代官間宮彦次郎の支配となり(南玉造区有文書)、寛永十二年松平氏に引き継がれている。
 保科氏の苗字は正光の曽祖父正則の生地、信濃国高井郡保科による。正則は同国伊那郡高遠に住み、高遠氏の代官であったが、槍弾正(だんじょう)といわれた祖父正俊の代から甲斐の武田氏に属して軍功を上げ次第に立身した。天正十年(一五八二)織田信長の信州進攻のときには正直・正光父子は伊那郡飯田城を守っていたが、織田軍が飯田城に達する前に引き揚げて、武田勝頼の弟仁科(にしな)信盛の籠る高遠城に入り、その落城のとき乱戦の中を北信濃へ退去している。
 その年六月、本能寺の変が起き織田勢が引き揚げた混乱のすきに北条氏直の援助で高遠を回復し、十月には南部から信濃経略を推進していた徳川家康に酒井忠次を通じて帰属し、その勢力拡大に尽力した。その功により伊那半郡二万五千石を宛て行われ、天正十二年には、正直は家康の異父妹にあたる久松俊勝の長女多劫姫(康俊の妹。松平忠正・忠吉の未亡人)を後妻に迎えている。康俊は後に多古領主となる松平勝義の祖父である。小田原の陣では家康に従い、多古移封のとき正直は病気で引退し、正光が相続した。この間、正直は祖父以来の弾正忠を称し、越前守に叙任されている。
 保科正光(甚四郎、後に肥後守)(一五六一~一六三一)は天正十八年、多古入部に当たって家督を相続した。翌十九年七~九月には家康に従って陸奥(むつ)の九戸(ここのえ)政実らの反乱鎮圧に出動している。
 文禄元年(一五九二)の朝鮮出兵の折にも肥前名護屋(なごや)の秀吉の本営に参加した家康に従って出陣した。この時、連れて行った夫丸(人夫)一五人分の扶持に関する記述が八日市場の当時の年貢勘定証文の内に見られる。上総坂田の井田胤徳宛てに代官藤田又右衛門らより出された証文である。
 
   辰二月より三月分まで
  一、三十俵者 保科甚四郎[江遣る 夫丸拾五人分御ふち渡]
   四月より五月分まで
  一、三十俵者 同夫丸ふちに渡
   六月より九月分まで
  一、六十俵者 同夫丸ふちに渡
   九月二十九日
  一、七十六俵者 黄金弐両にうり納 但三十八俵かい也
   合百九十六俵也
     ――文禄元年九月二十七日付、八日市場領之内卯之御蔵入勘定事
(『千葉県史料』井田文書)

 井田氏は元の大台・坂田城主で、小田原北条氏没落後に帰農したのであるが、まだこの時期には旧領である八日市場の年貢収取権を保っていたのである。扶持は夫丸一名につき月一俵の割で保科氏に渡されている。
 保科氏の軍役に徴発した夫丸については、後に関ケ原合戦の場合のことが後掲の正光書状に見られるが、九戸一揆、文禄の役、関ケ原合戦などの軍陣の際には多古町域を含む領内全村に夫丸が割り当てられているはずである。その場合の労役の規定について、この年正月に香取地方に触れ出された夫丸に関する文書を見てみよう。代官頭大久保十兵衛らの名で出されたもので、九州の陣屋に差し出す人夫は、千石につき一人の割当てであった。人夫の途中の路銭として、千石の郷中では一石につき五文の割合で、夫役のため年貢を免除されている土地から調えて出さねばならなかった。人夫の扶持は毎日米六合、留守の妻子には月一俵が与えられ、その田畑は郷中で耕作することになっている。もし人夫が逃亡した時は、その一族は勿論、名主および組の者まで直ちに成敗するというものであった。中世のような無制限の使役から見ると、一定の基準が打ち出されているところに時代の変化が見られる(香取文書、大禰宜家蔵)。
 この後、慶長三年(一五九八)の秀吉の死までが桃山時代に当たり、その後の関ケ原合戦期までが保科氏の多古統治時代である。
 慶長五年(一六〇〇)七月、家康の上杉景勝征討に正光は参陣した。石田三成挙兵後は『寛政重修諸家譜』では浜松城を守ったとあるが、正光の江戸留守居役に宛てた書状(後掲)によれば、尾張・美濃方面に転戦していたようである。関ケ原合戦後は西軍に属した青木紀伊守一矩(のり)の居城であった越前北の庄の城番を勤め、越前国中の政務を執っている。
 同年十一月、復帰を希望していた旧領高遠へ二万五千石の増賜転封に決まったが、実際に正光が多古から移ったのは翌六年の秋だったらしいことが、正光の江戸留守居役および多古城番に宛てた書状によって知られる。以下の引用は『信濃史料』所収の「保科御事歴」によっているが、実際に出されたものは失われ、保科家に残された案文である。
 
 度々書状到来披見候。其元先(まづ)々何(いづ)方も静に候之由心安候。弥(いよいよ)油断有間敷(あるまじく)候。尾州表(おもて)之事は定(さだめて)而其許(もと)へも可其聞(きこえ)候。去廿二日・三日、ごうと(美濃・河渡)の渡り・萩原之渡、両日に両度之合戦何れも味方大勝にて、両度に五千程被(られ)討捕候。領共(ママ)何れも関東へ参候。其上美濃・尾張敵之城一度に八つ明渡候。京勢軍(いくさ)に打負、たるい(美濃・樽井)・赤坂を被取切、各大柿(垣)へ逃籠(こもり)候。則此方之人数押寄、去廿六日より被取詰候。大柿に籠候之衆は、石田治部少輔(三成)・筑前中納言殿(小早川秀秋)・備前中納言殿(宇喜多秀家)・小西摂津守(行長)・島津兵庫助(義弘)、右之衆にて候。弐万程にて取籠之由に候。取巻候人数は八万之御着到にて候。天下之落去候は只此一城に極り候の間、森(毛利カ)を始として西両国衆致後詰候はん哉(か)。
 一、女共江戸へ越候事親(保科正直)に候人へ委(くはし)く申越候間、定而可御指図候。若(もし)江戸へ越候者、江戸之番には七左衛門・左吉・水右衛門尉・茂右衛門尉・波多右近・梅津・金子左近、其外中間弐人差置候而、其外之衆は各有多胡、収納専一に可申付候。天下之落去も五十日之内たる可候間、可心安(やすかる)候。文明寺源英慶印へ伝言可申可心得候。一挭斎召仕候玉作之夫丸、背法度候間、召搦(からめ)候処に、縄をぬきて欠落(かけおち)候。いかやうにも尋出し可成敗候。彼替急度(きっと)可差越之由可申付候。恐々謹言。
    (慶長五年)八月廿九日                                 肥後守正光(花押)
 松沢喜右衛門尉殿
 丸山半右衛門殿
 吉川織部佑殿
 
 「何方も静に」とあるのは江戸も多古もという意味であろう。「女共江戸へ越し候」というのは妻女を人質に江戸へ差し出したものと思われる。「其外の衆は各々多胡にありて、収納専一に」といい、少数を江戸に残し、他の者は多古へ行って年貢の取り立てに努めよと指示している。法度にそむき脱走した「玉作の夫丸」というのは、多古の南玉造から徴集した人夫であろう。その替わりとして再徴集して送られた者もいたに違いない。
 同じ便で多古城番の黒河内(くろごうち)長三にも書状が出されている。
 
 度々御状、何(いず)れも参着仕候。其表万(よろづ)方御静謐(ひつ)之由、心安存候。殊に御煩気近日御平癒之由、満足此事に候。(中略)
 此上は関東表も弥御静謐に候はんかと存候。然共、其元被御覧合、佐竹(義宣)より人数立て候ずば、先々一往女共之儀は其許へ被召寄候て可下意趣に候。自然万々一向美濃国に致後詰候者、大柿之城落城前に対陣したし候はん哉と存候。然則天下之弓箭(せん)此時に極候間、佐竹・(上杉)景勝など談合候而、関東筋へ手合せ候はんかと存候。さワ(や)うの砌(みぎり)、女共など江戸へ参候者、下々さはぎたち、留守中人すくなに候間、収納かた(方)已下之さわりに可罷成候。其節在所筋さはぐと可申候者、爰(ここ)元之夫丸・中間已下も欠落候はんかと存候間、先静に候折節、女共其許へ参候へば、自然さわぎ候砌は、家中之者共妻子其外、或は小源次、或は岩窪など計之しまつは多く安く候。其上留守中之者計(はから)ひ残り候而、収納之しまつ肝要と存候。其程迄は有間敷候へ共、兼而(かねて)之為御仕置に候間、如此可申候。若女共被召寄候者、御大儀に候共、先一往在所へ被御出候而、此方より申越候とは御無用に候。本佐(本多佐渡守)より之指図と被仰候而、先女共御先様江戸へ被遣(つかは)、五三日も御残候而、其上江戸へ御越候、尤(もっとも)に候。留守中之者共之かた(方)へは何共不申遣候。是も此方より指図なきやうにと存候。只其元より本佐之御内儀と被仰候而可下候。とかく天下之勝負大柿一城に極候間、三十日之間たるべく候。とかく御煩さへ少も御平癒に候者。早々多胡へ御出候而、仕置等被仰付候而可下候。かやうには申候へ共、佐竹より人数たふ/\と立候へば安緒(堵)にて候。縦(たとへ)人数立候共、五百千之間にて候者、只時之首尾計と可思(おぼし)召候。森さへ   候者、佐竹・景勝も少は手出し候はんと可思召候。恐惶謹言。
    (慶長五年)八月廿九日                                 肥後守正光(花押)
  黒河内長三殿
 
 この時期、正直は病気がちで心配であったが、回復したなら早く多古へ行って指図してくれることを正光は期待していたのである。東西の対決間近で、常陸の佐竹、会津の上杉の進攻が何よりの気がかりであった。婦人らが江戸へ引き揚げれば、情勢が悪いからだろうと民衆が騒ぎ、国元は手薄だから年貢の収納が困難となる。その際、在所筋、つまり多古で騒ぎが起きれば、多古から引き連れてきた人夫や中間たちも脱走するかもしれないといろいろ指図をしている。
 次いで九月十九日の松沢以下三人宛ての書状では、関ケ原の勝利を急ぎ知らせた後、
 
 天下一時落居目出此事に候。弥東筋静に候はんと心易候。(篠田)菅次事  時に而遣候。雖然、只今之分と人も入間敷候間、先々林之郷之収納肝要に可申付候。一左右(一報)次第爰(ここ)元可参候由可申候。(後略)
 
と簡単に指示している。林村あたりで年貢について何か問題が起こっていたらしい。
 明けて慶長六年(一六〇一)正月九日、正光は多古の黒河内長三宛てに飛脚を出し、高遠復帰の件の経緯と今後の予定を知らせている。
 
 一、越前之国を三州様(結城秀康)へ被遣、雪消次第御家中衆爰元へ被参候由に候。然則我等も二月時分は大坂へ罷登、弥得御意候而、直様高遠へ罷下候はんかと存候。一、何も御知行割にてしか/゛\無其由承及候。一、多胡之儀御代官に罷成候様にと大十兵(大久保長安)まで申届候。挨拶には菟角来秋までは自余へは申付間敷候間、国替之事者秋中成共被成候而可然之由被申越候。先安堵に而候。菟角高遠之儀も秋所務よりうちに各妻子引越候ては堪忍罷成まじく候間、下総にて夏くらしをいたし候て、其上秋かけて在所(高遠)へ参候はんかと存候。其内高遠之仕置者、百姓之還住肝要存候、其段可仰付候。爰元以之外之深雪に候て通路不自在候間見合候而、以使者万端御談合可申候。一、其後御煩気弥御平癒候哉、承度存迄候。(後略)
 
 その後、越前の正光から江戸の松沢喜右衛門宛てに次のような指示が出されている。
 
  足軽拾人、其元より多胡迄扶持かた相渡可遣者也。(三月十八日)
  夫丸壱人さし返候。其元より多胡までの扶持方を出可越者也。(三月二十四日)
  たこの夫丸十人、其元よりふち出し候て可越者也。(三月二十七日)
  中間藤六さし返候間、其元に而加扶持、可召置候。(三月二十八日)
 
 五月になっても正光はまだ越前にいたらしく、二十日付で高遠に帰った松沢喜右衛門宛てに高遠施政のことを指示している。その中には次のような項目が含まれている。
 
 一、爰許に召置候夫丸四人、風気にて相果候。替急度申付可遣候。彼夫丸之在所者、長介かた(方)より可申越候。
 一、只今之分者、此方に暫可召置様子に候。然則、爰元に詰候者共をも大形(おほかた)妻子などもち候者をば、為国替返候。
 一、爰元へ遣候中間共、身上難成候よし及訴訟候。雖然爰元いまほど手前逼迫候間。少之取替も成がたく候。何とぞ調法に成候者、於其許借米候而、壱人に付而壱石ほどづゝも借し被申候て相渡尤に候。いづれも妻子堪忍難成由之事に候。
 一、重而中間を何様にも拾人ほど相尋可差越候。関東之中間共悉欠落候間、如此候。
 
 多古から連れて行った人夫四人が、越前の寒さのためか風邪で死んだので替わりを要請し、その人夫の死を在所へ知らせること、国替えのため多古出身の妻帯者は返すこと、多古など関東出身の中間は全員逃亡したことなどが知られる。また中間たちが生活困難を訴えているが、財政逼迫のため、そちらで借米して手当てをしてくれと指示している。そして六月二、三日ころには江戸へ参着することを知らせている。
 七月十六日、高遠移転についての指示を多古から高遠の松沢らに与えた正光の書状には、正直の病状が思わしくないこと、高遠に樹林寺の観音堂を建てる件、江戸の母から知らせがあったゆうしょうという者を多古へ捨て置く件などが記されている。
 正直・正光の祈願所であった良文村五郷内(小見川町)の樹林寺の夕顔観音像を写し、観音堂の土を持って行って、高遠城の鬼門に当たる地に祈願所として同名の寺を建てたのは、正直の意志であった。正直は正光より先に高遠へもどるが、慶長六年の九月二十九日に没している。墓は高遠の建福寺にある。
 また正直の祖父正則夫妻の墓が八日市場市飯高の法華寺跡にある。正則は天正十九年(一五九一)九月六日去、夫人は慶長七年(一六〇二)六月二十日去とある。夫人の死は正光が高遠へ移った翌年であるが、その後も多古に残っていたのであろうか。墓碑には「奉-建元禄三庚午年海音比丘之」とある。なお正則の父、正俊は文禄二年八月六日に没しているが、多古には墓はない。

保科正則夫妻墓

 保科氏が多古を領したのはわずか一一年に過ぎず、その間の領内での事蹟については地元にはほとんど記録が残されていない。
 保科氏入部当時の関東の情勢は家康にとってきびしいものであり、両総は北の佐竹氏、南の里見氏にはさまれて緊迫した状態にあったから、保科氏はじめ各地に配置された諸将は武装進駐したはずで、当然軍事に重点を置いたものと思われる。したがって信州で山城やその戦闘に慣れていた保科氏は、明き城になっていた多古城を修復して入城したのではなかろうか。正光の関ケ原合戦前の八月二十九日付書状で、佐竹・上杉、特に佐竹の進攻やそれによって起きる多古の騒ぎについて考えをめぐらせているところを見ても、多古の防備には戦国の武将として十分配慮していたことが考えられる。『信濃史料』はその見出しを「下総多胡城主保科正光……」と記しているが、正光の書状に多古城に関する文字は見えない。いずれにしても多古城は保科氏転封後の元和元年(一六一五)大坂落城直後の一国一城令によって破却されたものと思われる。
 後の久松松平氏の時代、武家屋敷が陣屋からかなり離れた多古台下の西屋敷の地に置かれたが、これは多古城時代の侍屋敷の地を引き継いだものではないかと考えられ、あるいは保科氏の時期にここに屋敷が造られたのではないかと想像される。
 保科氏の支配期は中世的統治と戦国乱世に終止符を打ち、後の幕藩体制への序幕となった時期ではあるが、この時期に関東に配置された徳川家臣団はまだ幕藩体制下の大名ではなく、徳川という大名の部将であって、保科氏自らの意志で領地を経営するまでには至っていなかったと思われる。
 新領地の住民に対しては穏やかな懐柔策をとり、社寺の領地は安堵してその保護の禁制を出し、新たな寄進も行って人心の収攬につとめた家康の方針は、保科領においても貫徹していたものと思われる。天正十八、九年に家康が寄進した朱印地としては松崎稲荷三十石、日本寺十五石、浄妙寺十二石などが知られており、東禅寺は後に火災で朱印状を焼亡したため朱印地を召し上げられたといわれ、その石高は不明である。
 なお、飯櫃の山室氏について記した『総州山室譜伝記』には、天正十八年十二月に山室氏が保科氏に攻め滅ぼされた合戦のことが詳細に描かれているが、史実としては信用できない。「保科正直、同正光、同正之、大熊大膳対馬守」らその勢およそ一千余騎などと書かれているが、当時、正直は病気隠退しており、後に養嗣子となる正之にいたってはまだ生まれていない。大熊大膳は保科氏の検地奉行として三枝伝左衛門とともに林村の文書にその名が残っている(地域史編林参照)。
 保科氏は高遠移封後、養育を託された将軍秀忠の三男幸松丸が成長して正之と改めてこれを継いでいる。正之は山形を経て会津若松に転じ、松平家二十三万石を創設した。ただし保科の名跡は、正光の弟で後に上総飯野城一万七千石に封じられた弾正忠正貞に譲られている。正貞は伊勢桑名にいた叔父の松平(久松)定勝に寄食していたのを母の縁で家康に召し出され、次第に加増されて飯野城主となったものである。