多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第三節 中世後期――室町時代中後期・戦国時代――

二、板碑(いたび)に見る中世の信仰

 多古町域に残る板碑で南北朝時代に建てられたものは、当時の東国の情勢を反映して、すべて北朝の年号である。すでに「千田胤貞と千葉介貞胤」や「千田庄の動乱」の項で見てきたように、この地方もまた北朝方が優勢であった。
 板碑の造立者は一般に武士階級であり、千田氏のような荘園領主や在地の小領主・名主層であった。石材の乏しい当地方では遠くからそれを運ばねばならなかったから、相当の財力ないしは労役を徴収できる権力が必要であったはずである。
 前述のように、当町域では六七ないし七四基の板碑が造立されているが、第1表の造立年代の表に見るとおりその多くは一三六〇~一四六〇年代、つまり南北朝期を含む室町時代の前・中期に集中している。この時期は千田庄動乱から千葉介胤直の敗亡を含む、当町域で最も戦の多かった戦乱の時代であった。乱世の苦難や不安が、現当二世の安穏を祈る板碑の数に現われていると見てよいであろう。
 胤直の敗死から七年後の一四六二年に建てられた板碑が北中の浄妙寺にある。それには延徳二年壬午(みずのえうま)正月六日と記されているが、公年号の延徳二年は庚戌(かのえいぬ)(一四九〇)であって壬午ではない。壬午はそれより二八年さかのぼり公年号の寛正三年(一四六二)に該当する年である。このような年号は私年号といわれるもので、中央政府が公式に制定した公の年号に従わず、地方の有力者などが独自に制定して、その勢力圏で使用したり、僧侶などが私的に使ったりしたものである。しかし広く一般に使われたわけではなく、政治的な意味はないといわれている。
第2表 公私年号対照年表
公年号     私年号参考
1452年享徳1
32
43          享正1
5(4) 康正1        2胤直敗死
6(5)   2        3
7(6) 長禄1        4
8(7)   2        ・
9(8)   3        ・
1460(9)   4・寛正1     ・(長禄4年北中板碑)
1(10)  (5) ………2………延徳1………徳成寺板碑(長禄5年)
2(11)      3     2浄妙寺板碑
3(12)      4     ・
4(13)      5     ・(寛正5年東福寺板碑)
5(14)      6
6(15)  文正1
7(16)  応仁1
8(17)    2
9(18)  文明1
1470(19)    2
1(20)    3       この年、成氏は御所台滞在か?

 この浄妙寺板碑の「延徳」年号は、足利成氏の勢力圏で成氏の部下または支持者の豪族たちによって建元され使用されたものである。成氏の勢力圏ではこのほかに「享正」も用いられている。享正元年は公年号の享徳三年に、享正二年は康正元年に対応している。康正元年は千葉胤直の敗死した年である。
 「延徳」の使用例は香取文書に五例見られるほか、松戸市小金井の本土寺過去帳、茨城県高萩市赤浜の妙法寺過去帳、栃木県日光市の輪王寺文書にも見られる。また八千代市米本長福寺の武蔵板碑(断碑)が延徳と推定されている。それに対して「享正」の使用範囲は香取文書三例と埼玉県の板碑二基にとどまっている。
 足利持氏は、幕府に対立した永享(一四二九~四一)のころ、公年号が嘉元に改元されて後も永享をそのまま使用し続けたが、その子の成氏もまた改元を無視して旧年号である享徳(一四五二~五五)を長く使っていた。享徳は四年で終わっているが、成氏は享徳十七年正月十六日付の香取大禰宜からの祈祷巻数(かんじゅ(ず))を受け取っており、配下の千葉孝胤は享徳二十年八月付で香取神領の葛原・小野・織幡に安堵状を出している。中央にそむいた成氏の勢力圏でその私年号が使用され、長く持続していたことがわかる。
 「延徳」の私年号が使用されていた松戸市小金井は御所方の原胤房が城を築いて拠点とした所であり、日光も成氏を支持した宇都宮氏の支配圏であったが、「享正」使用圏よりも「延徳」使用圏の方が広範囲であり、浄妙寺の板碑もその範囲にあったものと理解される。ただし成氏自身は公年号の享徳を使い「延徳」は用いていないので、この私年号はその配下と支持者の間で建元され使用されたものである。そして香取神宮や輪王寺を始め宗教者の間で使われ、特に妙法寺・本土寺は北中の浄妙寺と同じ日蓮宗の寺であった。民間における改元の情報は、行政のルートとは別に宗教者の間にもあったらしいといわれている。
 「享正・延徳」という私年号の考案にあたっては公年号の享徳を母胎にしたものと見られている。しかも享徳を成氏が長く使用したことと関係がありそうで、享に正を、徳に延の字を結びつけた意図が感じられよう。要するにこれらの私年号は、成氏が関東公方を僣称していたころの公年号である享徳を、成氏自身が二十数年も使用し続け、中央で改元されていた康正・長禄・寛正・文正・応仁・文明などの公年号を拒否していたところからその勢力圏で生まれたのであった。
 以上、久保常晴著『日本私年号の研究』(吉川弘文館)などを参考にして述べてきたが、同書によれば、関東には鎌倉時代末期から私年号の知識と、使用の伝統があり、それが室町時代、「享正・延徳」などの私年号を生み出す母胎となっている。そしてこの地方の文書などで干支(えと)を欠く「延徳」年号の記されたものには注意を要するとされている。
 なお浄妙寺の板碑は、妙円三十三年忌と蓮妙菩提のために建てられ、「孝子敬白」とあるのみで造立者の名は知られない。同じ寺域に建てられた永享十一年(一四三九)の碑では悲母妙円比丘尼、父蓮妙とあり、応永十二年(一四〇五)の碑では妙蓮・妙円両人は存命して先亡を供養している。
 この浄妙寺の碑が成氏方の私年号を使っているのは、必ずしも康正元年(一四五五)に胤直が滅びたことによって、当地方が成氏方の原胤房の支配下に置かれたことと関係があるかどうかは不明である。なおこの年は、成氏が一時御所台に逃避していたという説のある文明三年(一四七一)の九年前に当たっている。しかし、南中東福寺の一四六四年板碑は寛正五年甲申と公年号を用いている。私年号が民間で使われている場合も、それが公年号でないことがわかると直ちに変更することが普通だったようである。
 成氏が御所台に仮の御所を設けて滞在したというのは『喜連(きつれ)川判鑑(はんかがみ)』(足利判鑑ともいう)の説で、この書(系図一巻)は足利基氏以降の関東の形勢を知る上に必要な史料とされるものである。この説を採用した『日本地理志料』の記述を紹介した上で『大日本地名辞書』は確証なしとしりぞけてぃる。確証はないが、根拠もなしにわざわざこの遠隔の地を『喜連川判鑑』が御所に仕立て上げたとは考えにくい。「御所」という地名から後世この地に生まれた臆説とは性質が異なるのである。なおこの御所を『香取郡誌』は千田氏の館としているが、千田氏の館を御所と呼ぶかどうかも疑問である。
 ところで浄妙寺の板碑の前年一四六一年、長禄五年七月の板碑が南中の徳成寺にあるが、この長禄五年は公年号の寛正二年のことである。実は前年暮十二月二十一日に改元されていたのであるが、その情報がまだこの地に伝わらなかったのであろう。このことと翌年の浄妙寺の場合と合わせて考えると、このころの社会秩序が特に乱れていたらしいことが想像されるのである。なお改元の知らせが遅れた例としては、康暦三年(一三八一)六月の次浦の板碑がある。この年はすでに二月に永徳と改元されており、同年の西古内の板碑では永徳元季八月二十八日となっている。