多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第二節 中世中期――鎌倉時代末期・南北朝期――

五、多古妙光寺の成立と一円法華

 現在、多古町居射にある日蓮宗妙印山妙光寺は、『妙印山縁起』によれば常在院日朝が弘安年間(一二七八~八七)に開創し、二世日通のとき延文四年(一三五九)十一月二十七日に、中山法華経寺三世日祐を請うて供養説法を行っており、天正五年(一五七七)に多古城主牛尾胤仲が染井から現在地へ移して祈願所としたといわれている。同縁起は、日本寺三十四世日言によって元禄十一年(一六九八)に書かれたものである。
 一方、明和四年(一七六七)に多古村の田中武右衛門(軌董)によって著された『多胡由来記』は、文禄二年(一五九三)の多古村の名寄帳にも、慶長七年(一六〇二)の小縄帳にも居射妙光寺は載っていないので、慶長末か、元和年中に現在地に引き移したものらしいと推定している。
 同書はまた多古村ほか近郷の村々が日蓮宗に改宗した事情について次のように述べている。
 
「古(いに)しへは神社仏閣にいたる迄皆真言宗他門勧請也。然(しか)る故当村総社の別当むかしより幾久敷(いくひさしく)山伏寺にて有之、其後応永年中、正中山法花(華)経寺三祖日祐上人、当村(ママ)染井村原の坊へ相-成御入、一百日之間、法花弘(ぐ)通の説法有り。実に宗祖の再誕と申伝へる程の尊僧なれば、其時の領主帰依(きえ)致し、近郷の男女ことごとくみな改宗せり。(中略)其節より別当南正院と相改め、寺役勤め候也。其後、新寺御法度(はっと)並(ならび)に坊号にて寺号無之ばたちがたき由御触相廻り候、俄(にわ)かに天照山法性寺と寺号書改め候」
 
 ここに応永年中(一三九四~一四二八)とあるのは日祐の在世期間(一二九八~一三七四)と重ならないが、同じように日祐の百日説法で全村改宗したと伝える『林村由来記』は、原の坊の説法を暦応元年(一三三八)としている。
 日祐に関しては、「千田胤貞と千葉介貞胤」の項で胤貞との関係を記したが、ここでその生涯を日潮の『本化(げ)別頭(ず)仏祖統記』(享保一五)によって見ておきたい。
 
「日祐、幼にして中山日高の室に投じて出家す。正和元年四月日高の遺命を受けて中山法華経寺に主たり。千葉氏大に外護の力を尽す。一時州の香取郡に巡化す。郡は皆真言宗なり。露坐法を説くこと百日に及ぶ。安久山円静寺主其教に帰服して寺を供し、弟子の礼を執る。後安房に遊ぶ。真言宗多聞寺主宗を改めて寺を供す。鎌倉六浦に往く。妙法禅門師を請ひて真言寺を改めて上行寺を造る。後武蔵国久良岐郡杉田村に至り牛頭山妙法寺を造る。後肥前に至る。千葉氏地を割(さき)て助く。松尾山護国光勝寺を創す。説法教化大に利益あり。天皇之を聞き勅願寺としたまふ。師中山に還る。応安二年五月十五日寂す。寿八十」
 
 日祐の生没年については諸説があって定まらないが、『中山法華経寺誌』の歴代譜は永仁六年(一二九八)~応安七年(一三七四)としている。

日祐上人像(『中山法華経寺誌』による)

 日祐が百日説法をした十四世紀中ごろは下総の日蓮宗展開の第二期というべき時期であった。日祐の『一期(ご)所修善根記録』(『多胡由来記』はこれを『善根記』と略称している)の一項「御堂本尊唱導勤仕事」には、日祐が生涯に勤仕した開堂供養と本尊供養の記録がある。それらによれば、日祐は延文二年(一三五七)四月三日の下総多古日忍阿闍梨御堂供養、延文四年十一月二十七日の千田庄原郷御堂供養、応安二年(一三六九)の千田庄多古日忍遺跡堂供養などに唱導師を勤めたことが記されている。二番目の原郷御堂を『多胡由来記』は妙光寺と推定しており、その点は初めに上げた『妙印山縁起』に一致している。妙光寺に寺宝として伝わる日輝筆の『原法華堂供養記』は日祐の供養について記したものであるが、ここでは原郷御堂は原法華堂と呼ばれており、それが妙光寺の前身であることは間違いないであろう。
 ここに出てくる日忍は、峯妙興寺二世の下野阿闍梨日忍である。日蓮宗宗務院発行の『日蓮宗事典』によれば、日忍は「日弁に下総の妙興寺を譲られたことにより中山の日祐のもとに赴(おもむ)き、著作と伝道活動を行なったといい、『天台深極抄』、『天台四教略抄』などの書写本が伝えられる。また妙興寺には日蓮聖人の舎利が格護されていたらしく、日忍はこれを日祐に分骨したという。なお、日忍の没年について『本化別頭仏祖統記』では応長元年(一三一一)四月十一日としているが、日祐に舎利を分与する旨を記した書状は暦応二年(一三三九)であり、また先の書写本の奥付は両本とも康永元年(一三四二)であり、さらに応安二年(一三六九)に千田庄多古日忍遺蹟堂供養が行われているから、日忍の没年は康永元年(一三四二)から応安二年(一三六九)の間に推定される」と記されている。
 千田胤貞が日祐に寄進した所領の内に、原郷阿弥陀堂職田地(七段および在家一宇)があるが、この阿弥陀堂というのは、この堂がかつて真言宗かまたは浄土系の村堂であったころの名ではないかと思われる。つまり胤貞が所領の内から堂職田地の得分を日祐に永代譲与することによって堂の経済を中山法華経寺がにぎり、日祐が長期間そこで説法することによって、この地域の一円法華が実現したことになる。
 この寄進は元徳三年(一三三一)で、この時は中村郷三谷(みや)堂・辻堂などの堂職田地もともに寄進されているが、この原郷御堂の開堂供養までに二八年もの時間があり、その初めごろに『林村由来記』によれば百日説法があったことになる。この間には鎌倉幕府の滅亡や千田庄動乱があり、時代は大きく揺れ動いていた。
 多古村では同じころ妙光寺のほか木戸谷の妙薬寺も日祐の説法によって真言宗から改宗している。前掲の延文二年に開堂供養が営まれた日忍の御堂もやがて日蓮宗の寺院に成長していったものと考えられる。大原内の法福寺(旧称正徳院)は、あるいはこの堂の後身ではないかとも想像されるのである。
 ところで、近世の初めに妙光寺が居射に移る前、多古村には妙薬寺・法福寺・実相寺(旧称実相坊)のほかに、泉林坊を始めとして実に一二を数える多数の坊があった。先に引用した『多胡由来記』の中の山伏寺もその一つである。日祐の百日説法で改宗して南正院と改め、後に法性寺となったというのであるが、実は文禄の名寄帳には南陽坊の名で載っている。その後いったん南正院に改めた後、法性寺となったものであろうか。法性寺は後に妙光寺の末寺になっている。他の坊は後に廃絶したらしい泉林坊を除き、いずれも寺号に改められているが、明治十二年の多古村の社寺明細帳に載るのは妙光寺・法福寺と妙薬寺の三寺にすぎず、他はすべて幕末か明治維新のころには廃寺となっている。それらの宗旨は一部が日蓮宗とわかるほかは明らかでない。しかし『多胡由来記』の書かれた当時にはことごとく日蓮宗に改宗していたことは間違いあるまい(それらの坊号および改称した寺号については本書下巻「社寺一覧」参照)。なお、前項で述べた「多古村和泉公堂」や「原郷内谷内堂」なども、その後これらの寺坊になったのではなかろうか。
 ところで多古村近郷がことごとく日蓮宗に改宗した当時のこのあたりの領主がだれであったかは明らかでないが、永和二年(一三七六)に妙光寺に日蓮坐像を寄進した大旦那は、その胎内銘によれば円城寺図書左衛門尉源胤朝とその母平氏女であった。また、延文二年卯月の日付のある妙光寺の日祐の曼荼羅(まんだら)本尊には「源胤朝授与之」と脇書きされている。この人物は、先に「動乱後の千田庄と千田氏の系譜」で触れたように、千田胤貞の曽孫でその遺領を継いだ義胤の被官である。おそらく千田氏の有力な被官として仕えるとともに、この地域を実質的に支配し、その経済的実力によって妙光寺の大旦那となったのではないかと想像される。したがって、永和二年二月二十五日に中山法華経寺四世日尊を招いて日蓮坐像の開眼(かいげん)供養が修された際にも、胤朝はこの法会をとりしきったものと思われる。
 この時期に多古が村として成立していたことは、前項で触れた延文六年(一三六一)の日胤の譲状に「原郷内多古村」とあったことで明らかである。そして日蓮坐像の胎内銘には「多古村妙光寺」と記されており、原堂は妙光寺と改めていたことになる。あるいは像の開眼供養を期に日尊によって寺号が与えられ、同時に中山の末寺となったとも考えられる。
 ところでこの円城寺氏は本姓を源と称している。千葉宗家の四家老の円城寺氏と全く別の家系とも思えないが、家老の円城寺氏は千葉氏の支族であるから当然平氏であり、胤朝の母も平氏女と記されている。家老職は図書允(ずしょのじょう)貞政に始まるが、この人は図書右衛門入道とも称し、建武元年(一三三四)当時、香取の代官をしていたことが千葉介貞胤の文書(香取文書纂)によって知られる。この人が湛睿の書状に出てくる図書左衛門と同一人物ではないかということは先述した。香取文書にはこのほかにも円城寺姓の人物は多く見られ、図書左衛門尉胤朝はこれらと何らかの関係があるものと考えられる。多古城の北にゲンジ堀という名の残る中世の館跡がある。安易に結び付けることは慎まねばならぬが、この名はたとえば、平氏の多いこの地で胤朝が特に源氏であったことから付けられたというような仮説も立てられないことではない。
 後に千葉介胤直・胤宣父子が志摩・多古両城を落とされて自刃したとき、両者と運命を共にした円城寺氏一族があるが、胤直父子をこの地に落ちのびさせ再起を図ろうとしたのも、この地が上杉方である円城寺氏の勢力圏であったためではないかとも想像される。
 ただし胤朝は千田義胤の被官であり、また千葉宗家の家老である貞政の系譜には胤朝の名は見られない。そこで一つ気になるのは、『千葉大系図』に見える多古胤氏の兄に当たる胤朝という人物である。胤貞の孫にあたる千田弥次郎胤鎮の嫡子の位置にあり(『神代本系図』では胤鎮の兄胤継の子となっている)、五代先の子孫からはまた千田氏を称している(「動乱後の千田庄と千田氏の系譜」の系図参照)。胤朝とその子孫四代目までが千田姓であったかどうかはわからない。また円城寺を名乗れば系図はそのように記すはずであるから、この胤朝を円城寺胤朝に比定することは慎まねばならないが、千田庄との関係は父や子孫が千田を称していることから十分考えられる。ただ系図では胤貞の四代後であり、日祐と同時代である可能性は薄いと見なければならない。もっとも中世関係の系図では三代先が必ずしも曽孫と限らず、編者の自由な関係づけも見られるので、あまり系図上の関係や位置にこだわる必要はないのかもしれない。
 むしろ図書左衛門尉胤朝としては、東禅寺についての湛睿の書状に見える図書左衛門の方が一族としての可能性がありそうに思われる。しかしこれについては、今のところ何の手がかりも得られないので、今後の課題として残しておく。
 さて、胤朝母子が永和二年(一三七六)二月に法華経寺四世日尊(一三一三~九九)を招いて日蓮坐像の開眼供養を行った、その前年の五月二十八日の日付のある日尊の本尊が妙光寺に所蔵されている。これには「多古木广堂」の脇書きがある。これはおそらく多古村原堂の意であろうと中尾堯氏はその著『日蓮宗の成立と展開』(吉川弘文館)の中で推定されている。そしてそれが本尊勧請の場所を表わすものと考えるならば、この時点では妙光寺はまだ原堂を称しており、また原堂は多古村の内にあったことになる。(原の地は染井原とも呼ばれ後に染井村に入るため、妙光寺は染井から移ったとも言い伝えられている)
 以上の点を律気に考えるならば、永和元年(一三七五)五月には多古村原堂であり、永和二年二月には多古村妙光寺となっていたということになり、原堂が妙光寺と名を改めるのは、その八カ月余の間ということになる。つまり円城寺胤朝が大旦那であった時期に日祐の原堂供養が行われ、妙光寺と寺号を改めて、おそらく寺としての形も整備するに至ったのではないかということになろう。ただし『妙光寺の栞』によれば、妙光寺と改称したのは、永和四年十一月二十七日、日祐によって開堂供養を営んだ時と伝わっている。もっとも、『中山法華経寺誌』の歴代譜によれば、日祐の没年は応安七年(一三七四)七十七歳とあるから、これを信じるならば、日祐の開堂供養はそれよりさかのぼり、供養から改称までには若干の年月があったとも考えられよう。
 それより先、『妙印山縁起』によれば、妙光寺は弘安年間(一二七八~八八)常在院日朝を開基として、創建されたという。おそらくそれは原郷阿弥陀堂から日蓮宗の堂として開創されたことを称しているように思われる。
 『日蓮宗事典』によれば、常在院日朝は「俗名を斎藤兼綱といい、上総藻原郷に住し藻原遠江守を称したという。初め日蓮聖人の教化に浴しその信者であったが、のち出家したという。藻原妙光寺(藻原寺)をひらき、のち下総多古にうつって妙光寺を興し、また志摩妙興寺(注、誤植ママ)を創した。その没年には異説があって定かでない。上総妙光寺伝によれば弘安一〇年(一二八七)三月二二日、下総妙光寺伝によれば弘安六年(一二八三)五月二五日とあり、寂寿はいずれも不明、『本化別頭仏祖統記』は弘安六年五月二三日としているが、これも寂寿不明である」としている。
 誤植の部分は、「志摩(島)妙光寺の堂宇を建て、唐竹妙光寺を創立した」とするのが妥当のようである。島妙光寺(現在の正覚寺の前身)は永仁五年(一二九七)中山法華経寺二世日高によって真言宗より改宗、後に大嶋殿(千田胤継またはその継承者)が大旦那となって日朝が堂宇を建立したといわれ、また『唐竹妙光寺記』は貞治三年(一三六四)日朝によって創立されたと伝えている。
 『日蓮宗事典』の日朝の没年に対しては、多古妙光寺開基の年は適合するが、島・唐竹の妙光寺の場合は適合しない。『唐竹妙光寺記』は応安六年(一三七三)五月二十五日没とし、弘と応の一字違いであるが、それが開創時期の差に及んでいるようである。なお日朝開基の問題については、加瀬包男(かねお)著『多胡由来記研究』(昭和二八)にさまざまの材料を提示して考察がなされていることを付記しておきたい。また、日朝を開基とする寺には、以上の妙光寺のほかに、染井の妙暹(せん)寺がある。その開創は応安五年(一三七二)と伝えられている。
 さて多古村妙光寺が成立しても原郷阿弥陀堂職田地は妙光寺に引き継がれたわけではなく、その後も法華経寺が保有していたことは応永四年(一三九七)の鎌倉公方足利氏満と、応永二十七年(一四二〇)の千葉兼胤の寺領安堵状に「原郷内所々堂免」と記されていることによって知られる。「所々」とあるように、さらに数を増やしていたのであろう。そして末寺の妙光寺としては円城寺氏のような大旦那を新たに獲得しなければならなかったのである。というよりは円城寺氏のような大旦那ができたことで堂から寺に昇格したといえよう。こうした領主・名主層の支持が当時の宗教施設には不可欠であり、そうした檀越の信仰は僧侶を介して村民に強く影響したのであった。篤信者は階層ごとに、また氏族ごとに講を結び、現世・来世の救済や安穏を祈ったのである。
 『多胡由来記』にある「近郷の男女ことごとくみな改宗せり」というような村ぐるみの信仰では、村堂の果たす役割はきわめて大きい。それは単に信仰だけの場ではなく共同体のさまざまの活動の中心でもあったから、領主はその維持のために田地を寄進したのであろう。信仰を同じくし、信仰を通して共同体を把握することは所領統治を円滑にしたはずである。
 千田胤貞の猶子である日祐は、胤貞の本拠である中村郷においては、南中村に元応元年(一三一九)日本寺の基礎を築いたほか、北中村北場の浄妙寺(旧称、東耀寺)、同じく芝の徳成寺を真言宗から改宗させている。そのほか北中村久保の仏光寺、南和田の福現寺などは日祐を開山として創立されている。それ以後これらの寺は中山法華経寺を本寺としてそれとの関係を深めていくことになる。
 千田胤貞とその後継者らが中山法華経寺や真間弘法寺などに寄進した堂職田地には、前述のように千田庄内では倉持阿弥陀堂、中峰虚空蔵(こくぞう)堂、金原郷阿久山堂などがある。これらの堂はみな原郷阿弥陀堂の場合と同じようにやがて法華堂に改められ、中には寺院に発展したものもあった。その他、原郷・中村郷の妙見座主職とその神田などもあった。(補注参照)
 
〔補注〕
 延文六年(一三六一)の日祐譲状には、「譲与所領」の一つに「妙見座主職 御神田原・中村有之」とあり、千田胤貞の年月未詳書状にはその神田寄進のことが記されている。また、千田胤清と推定される譲状(年月未詳)には「原郷多古村坊谷ノ神田一反、同郷三位内ノ田一反、合二反」が含まれている(以上、中山法華経寺文書)。その他、文安二年(一四四五)の日戴置文には「中村三谷坊田二丁並多古二反田」の相続のことが記されている(市川市中山浄光院文書)。
 
 原郷妙見については、大原内の妙見堂(元、法福寺境内)から居射の妙光寺に遷座され、千葉県文化財に指定されている妙見像が、鎌倉時代後期の優作とされるところから、あるいはこれは胤貞によって奉祀されたものであり、日祐にその座主職と神田が寄進されたものに当たるのではないかという推定が成り立つのである。
 こうして千田庄の東部・南部一帯はそのほとんどの寺と村郷全体が改宗して、いわゆる一円法華を実現したのであった。しかしながら胤貞流千田氏が室町時代半ばから衰退したため、中山法華経寺とその門流はその影響を受け、その活動も停滞していった。
 千田氏が村堂の堂職田地や堂免を寄進した地域が千田庄東部・南部に限られるのは、その所領が庄全体に及んでいなかったためと考えられ、そのため北部・西部では真言宗から日蓮宗への改宗が行われず現在に至ったものと思われる。