多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第二節 中世中期――鎌倉時代末期・南北朝期――

三、千田庄の動乱

 金沢文庫古文書の東禅寺に関係ある文章を読むとき、最も目を引くのは、「一天悉動乱」とか「地下(ぢげ)乱妨未静候之間、無正躰候条嘆入候」というような世情への不安動揺を直接的に伝える文字である。称名寺から東禅寺へ宛てた書状には鎌倉幕府滅亡前後の動乱について、また東禅寺からは千田庄周辺の争乱についてそれぞれ状況と感想を申し送っている。幕府とともに金沢氏も滅び、檀越を失って称名寺も危機に瀕していた。東禅寺も在地の有力武士をこの戦で失った後であった。次の文は湛睿の書状の一部で、宛先は不明であるが東禅寺かもしれない。
 
 此四五日之程、寺中巡礼之仁出来候。土橋寺之辺、動乱之由、荒説候。[罷過候○]若事実候者、驚入仰天無極候。(後略)
(湛睿書状、一八四一)

 湛睿はまたその著書の奥書に次のように記している。
 
 建武二年乙亥下総州千田庄土橋東禅寺、以業疏当巻年始開講。然世上転変之後、三四年以来都鄙(ひ)不静謐(ひつ)、道俗尚多危。就中当寺現住  在縁之仁[有数輩故○守護使]乱入被召取了。雖猥雑無極而難黙止故、始正月十七日二月七日、首尾廿日方談之訖(をはんぬ)。世法仏法悉以廃滅、何日何時更欲再興、悲哉嗚呼(ああ)。
(『戒本見聞集』奥書、識二一三)


東禅寺境内

 「世法仏法悉廃滅」以下には、檀越金沢氏を失った悲しみもこめられていよう。「俗歯六十五」と年齢を付記してあり、それを思い合わせるとき、不屈の学究の姿勢と末法の世への深い嘆きに心打たれぬ者はいないだろう。
 「守護使不入」の制札を東禅寺は立てていなかったとは思えない。守護使は制止を侵して乱入し、寺の縁者は召し捕られたのである。それを黙視できず二十日間も訴訟にあたったのであるが、それも成功しなかったのであろう。この縁者は、滅びた金沢氏の一族か、あるいは生き残った当地の武士ではなかったかと推測される。
 湛睿は翌年、別の書の奥書に次のようにも記している。
 
 建武二年乙亥後十月八日、於下総国千田庄土橋東禅寺重開講肆(し)、至同三年丙子四月十二日。闕(けつ)日三十四五日、其外放-下万事、講読一部訖。去四五年来一天悉動乱、随(したがって)年雖増、未静謐之期。此一両年間、当国殊(コノ間文字ナシ)触事多危、更無(以下文字ナシ)
 (文字ナシ)就中、当寺居両陣之中間(以下文字ナシ)
(『華厳五教章纂釈』奥書、識五三七)

 (文字ナシ)とある部分は湛睿の苦渋を示していると言えないであろうか。動乱のさなかも講義は続けられ、余事は放下して講読に専念していたのであるが、「両陣の中間に居り」と態度は決めてはいても、それでは済まない圧力があったのではないかと思われる。
 時は建武三年(一三三六)四月十二日すぎで、動乱は年々激化していた模様で、前年九月には千葉庄で合戦があり、この年の七月には土橋城が落ちている。その間も戦は続けられていたのであった。
 そのような戦乱の中の東禅寺に、称名寺からは次のような見舞状が届いている。
 
 其後久不案内候之条、自然懈怠(けたい)嘆存候。抑(そもそも)近年者、下州(下総国)不断騒動之由、伝承候間、御心労奉察之候之処、智光房等事、重畳云(如)何計(ばかり)難儀仁被思食(召)候覧と、嘆存候。事々難儀、不参入言上仕候。身作法只令思食(召)遣給候。恐惶謹言。
(神算書状、一七〇一)

 前にも述べたように湛睿の講義は、建武四年(一三三七)の三月まで行われていたことが知られており、暦応二年(一三三九)には称名寺の長老となって、貞和二年(一三四六)七十六歳で入寂している。
 湛睿のような高僧は別として、中には次のように時世への苦衷を切々と述べた尼僧の書状も東禅寺から称名寺へ出されている。
 
 (前欠)やうになりて候程に、あさましき事にて候。かまへて/\、よきやうに御たすけ候べく候。この人/\も、かまくら(鎌倉)にてし(死)に候はんよりは、まいらせて候、つちはし(土橋)ゑ(へ)まいり候へと、申候へども、さう(左右)なく思ひまいらせ候て、まづ申いれまいらせ候。はる(春)になり候はゞ、いかさまにも、まいり候て、申入まいらせて候。このよし(由)を申させ給へ。あなかしく。
 たび/\御文まいらせ候しに、御返事もう(設)け給はらず候御事、なげ(嘆)き入まいらせて候。いなか(田舎)の御やう(様)も、いかにとわたらせ給候やらん、これのやう申ばかりなき御事にて候ほどに、はやかつ(餓)ゑし(死)に候はんずるやうにて候。いかにとし候ても、御てら(寺)ゑ(へ)まいり候て、御時かゆ(粥)も給はり候て、いくほど候はんずるにて候て(後欠)
(氏名未詳書状、三六九五)

 いかにも女文字の綿々たるかきくどきようで、心細さが年月を越えて伝わってくる思いがする。戦乱の世のこととて飢饉は必ずしもめずらしくはないかもしれないが、死がすでに日常の感情のうちにあるのは出家の故であろうか。「今年は関東一向飢 (饉)」と報ずる湛睿宛ての書状も見られる(真円書状、一六八三)。