多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第二節 中世中期――鎌倉時代末期・南北朝期――

三、千田庄の動乱

 南北朝時代の争乱の一環として起こった千葉氏内部の抗争も、土橋城が落城したものの千葉介貞胤が足利方に降ったため、建武三年(一三三六)十月に自動的に収束した。千田胤貞はその直後に病死したが、すでに千田氏の惣領職は「千田胤貞と千葉介貞胤」の項で述べたように、建武元年の十二月朔日に嫡子孫太郎胤平に譲ってあったとすれば、土橋城の返還などの戦後処理は貞胤と胤平の間で友好的に行われたものと思われる。
 ところがこの胤平なる人物は『千葉大系図』や『松蘿館本千葉系図』に全くその名が載せられていない。胤貞自身が譲状に嫡子といっているので、これは一応嫡統と考えてよいだろうし、胤貞系の九州千葉氏が相伝した『神代本千葉系図』には胤平は掲載されている。この点『大系図』とは対照的である。
 はたして胤平が実際に惣領職を継いだのかどうか、実証する史料は乏しいが、その胤平の跡は誰が継いだのか、『神代本系図』にも胤平には子孫が書かれていない。そして観応元年(一三五〇)になって胤貞の第四子(『松蘿館本系図』による)胤継の署名で、千田庄の倉持阿弥陀堂免が真間弘法寺(市川市)に寄進されている(弘法寺文書)。次いで観応三年の中山本妙寺への寄進状(同文書)には「大隅守平胤継」と署名がされていて明らかに胤継は大隅守を継いでいるので、この十余年の間に千田氏は胤平から胤継に代わったと見られる(弘法寺への寄進状については次節参照)。
 なお、中山法華経寺の日祐の文書目録に「原郷妙見御神田事」という項目があり、その中に「孫太郎殿御労(いたつき)之時、御寄進田の坪付一通」の文字がある。病平癒を願って寄進したのであろうが、胤平は病身で短命だったことが想像される。
 これは伝承であるが、次のような記述が林村の文政元年(一八一八)の検地帳の末尾に付された『古来より林村之御領主』という文書の中に見られる。これには、林村は源頼朝のとき千葉常胤の弟千田胤幹の領地となり、大隅守胤貞のとき肥前へ移ったあと、「嫡子孫太郎胤平殿従前之如くに千田之庄を御知行被遊候」と記されている(地域史編林参照)。一片の伝承ではあるが、胤継ではなく、胤平を語り伝えているところが興味深い。それも胤貞方の本拠である中村や大嶋城からやや離れた林村であるところも興味を引く。
 胤継は大嶋城にいたため大嶋殿と呼ばれていたので、先の書状の「可落大嶋之由」や、土橋城の合戦に「大嶋よりも岩部よりも……しりつめも不仕候て」の大嶋は胤継である可能性が強い。同族でありながら反目し合っていたために、並木城や土橋城が千葉介方に攻められても援軍を出さず、あえて見殺しにしてしまったのであろうか。大嶋城と並木城の距離を考えるとき千葉介方はそれを読んでいたようにも感じられる。
 ところで胤貞が胤平に譲状を書いたのは建武元年(一三三四)十二月朔日であり、三河で亡くなったのは同三年十一月二十九日(『億師年譜』)であった。この時五十歳であったから、嫡子胤平、その子滝楠はそれぞれ三十歳、十歳を越えていないと考えてよい。
 かりに千葉・大嶋合戦が胤貞の生前に起こされたとすると、滝楠は十歳以下であり、この名は真言系の法号のように思われるが、その年に滝楠という法名は早すぎる。「千田孫太郎殿、子息滝楠殿」と金沢文庫古文書は親子の間に読点を入れているが、これを切って読めば胤平と滝楠の親子が、たぶん千田氏の正統を主張し、千葉介の後援を得て、大嶋の胤継に圧力をかけたのであろう。もしこれを切らずに読めば、胤平は隠退しているか、またはすでに亡く、子息が成人して滝楠を名乗っていたのを千葉介が援助したのかもしれない。
 いずれにしても惣領職を争うとすれば胤貞の生前では譲状の時期から考えて奇異であり、千葉介方も貞胤本人が関与したとすれば、胤貞死後に帰国してからのことであろう。以上の点から千葉・大嶋合戦は、胤貞死後、何年か後のことであり、観応元年(一三五〇)に胤継が真間弘法寺へ土地を寄進した時よりは前のことと考えられるのである。あるいはこの寄進は、千田庄の動乱が収まってからその報謝の気持を表わしたものであったかもしれない。
 この合戦は千葉介の権威が問われるような形で収束し、滝楠は僧籍にもどったのか、とにかく胤平を載せる『神代本系図』でも胤平に子孫は記されていない。胤継の千田氏の惣領職は安泰であった。
 貞胤について『千葉実録』が「武運衰へ、軍事も勝利少しとなり」と非難していることは「千田胤貞と千葉介貞胤」の項で引用したが、この合戦の結果もそうした評価を生む根拠になっているのであろう。その背景には東国が足利方に制覇され、貞胤の属した新田氏も劣勢で、やがて滅びる形勢にあったことも影響しているに違いない。
 多古町喜多字妙見前の妙見社に貞胤の法名である平喜阿(喜阿弥陀仏)の名の刻まれた板碑が立っている。この法名は『松蘿館本千葉系図』の貞胤の注に見えるが、『千葉大系図』では貞胤の法号は善珍常徳法阿弥陀仏とある。また、この碑は貞胤の没した観応二年(一三五一)から二四年を経た永和元年(一三七五)の造立で、「右意趣者為 一結百五十人 逆修  (亡)廿八人菩提也」という碑銘からは、千葉介一族の関係したものとは考えにくいが、全く無関係とも断定はできない。この東台の地は千葉・大嶋合戦の際「竹元も去月廿一日大原へ付候て、国中軍勢を集候」と報じられた大原郷の内であり、東佐野付近の台地には合戦の伝承があるように、このあたりで合戦があったのであろう。その際の千葉方の戦没者との関係を考えさせる碑ではある(地域史編東台参照)。