多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第二節 中世中期――鎌倉時代末期・南北朝期――

三、千田庄の動乱

 前項で触れた等空という僧から、東禅寺にいた湛睿宛てに合戦について知らせる書状が金沢文庫古文書にある。
 
 (前欠)寄候て、少々人打せ、手おほ(負)はせて、引返候。其日諸方箭合(やあはせ)にて候か、皆千葉方打負候。当庄為躰(ていたらく)、天地動程事候。若(もし)今度寺までも寄付候はゞ、なにも残候はじと覚候。偏(ひとへに)仰仏神力候。尽祈祷精誠候。相待事左右候。可申入候由内談候。今まで不申入候。恐惶敬白。
九月一日                                    沙門等 (空)(花押)  
進上 東禅寺御侍者                                (等空書状、一九九七)

 等空が三倉寺の僧であるにしても、本三倉から寺作へ戦の状況を知らせるような文面ではない。「其日諸方箭合にて候か」とか「当庄為躰……」というのは、直線距離にして四・五キロメートルほどの両寺の間で交わされる内容とは考えにくい。本三倉の寺に軍勢が押し寄せる理由もわからない。
 するとどこか寄留先の寺から出したことになるが、「若今度寺までも……」というような心配のしかたは住僧のものであって、一時的な寄留者のものではないであろう。
 この書状を三倉から出したとする最近の諸書の記述には、以上の点で無理があると思える。文面の合戦は、建武二年(一三三五)九月ごろ、千田胤貞が相馬親胤の支援を得て千葉城を攻めた合戦をさすものとする『房総通史』の記述の方が妥当のように思われる。
 親胤は千葉氏の一族で奥州行方(なめかた)郡小高城主である。手紙冒頭の軍勢の押し寄せた寺は、千葉介の氏寺である千葉寺であり、当庄とは千葉庄をさすと考えられる。この合戦は千葉介貞胤の留守をついて千葉介の地位を奪回しようとして千葉城を攻めたものであったと考えたい。
 この当時、北条時行が鎌倉に入って中(なか)先代の乱を起こしたので、足利尊氏が征東将軍に補されて東国に下り、これを破っている。千葉介貞胤はこの軍に従っているが、鎌倉に入った尊氏が新田義貞を討つと称して朝廷に反旗をひるがえしたので、今度はそれを追討する義貞の軍に加わって再び東に向かっていた。
 尊氏は義貞を迎え撃つため関東の諸将に鎌倉に集まるよう呼びかけたので、胤貞は千葉城攻めで千葉介方を破りはしたものの城を落とすまでには至らなかったが、陣を払って鎌倉に馳(は)せ参じている。箱根竹の下の合戦で義貞を破った尊氏は、それを追って西上し、胤貞もそれに従った。
 一方貞胤も義貞とともに西へ退却したので、下総では残っていた両派の一族や家人が、主将不在のまま戦闘を継続していた。しかし主力が西上し、援軍もいなくなった胤貞方に戦況は不利に展開し、千葉介の侍所は胤貞の本拠である千田庄に侵入したのであった。
 建武三年七月二十七日、千田庄の土橋城は千葉の侍所によって攻撃されて落城した。この日の戦の模様を伝える書状が、当時、土橋東禅寺にいた僧悟円から金沢称名寺へ送られている。その書状は『随自意抄』という書物の裏打ちに使われていて、手紙の冒頭部分を欠いている。
 
 (前欠)並木のふけにて、皆打留候了。不可思議事候之処、千葉侍所、廿七日以大勢、土橋城へ打(討)入候て、朝より及晩影候まで、散々合戦仕候て、土橋城責(攻)候き。城内人々、不力候いて、敵多打候て、十二人打死仕候了。大嶋よりも、岩部よりも、なにと存候けるやらん、しりつめも不仕候て、此城被打落て候。並木の城も、如本千葉方より、たてつき候よし承候。以此旨御披露候。恐惶敬白。
八月二日                                     小比丘悟円(花押)  
進上称名寺御侍者                                  (悟円書状、一三二二)

 千葉侍所は千葉介の侍所の長であり、土橋城は多古町御所台と考えられている。御所台村と寺作村は中世には一郷で、土橋郷と称していたようである。土橋城主は不明であるが、あるいは胤貞に従っていて、この時は留守であったかもしれない。東禅寺の檀越であった旧城主は金沢氏とともに滅び、新たに千田氏の一族が入っていたことも考えられよう。

土橋付近の航空写真
右方の森が土橋城跡、左方の谷が寺作、その奥の森が東禅寺跡

 大嶋は胤貞の築城した多古町島の塙台か、船越丸山にあった大嶋城であろう。岩部は栗源町の岩部城で、城主は岩部中務(なかつかさ)といわれている。千葉常長の五男で岩部五郎常盛という者が『千学集』、『千葉実録』などに載っている。
 ふけは湿地・沼地・深田の意で、「並木のふけ」は多古町南並木の栗山川流域一帯の沼沢地のことであろう。かつて栗山川は蛇行してこのあたりは一面沼や湿地が広がっていたのである。
 書状の前欠部分は想像も困難であるが、並木のふけで追撃を中止し、二十七日に土橋城を落とし、並木城は元のように館築きされたという。並木城は焼け落ちたのか、逃げる城兵を並木のふけまで追い討ちしたものであろう。元のように造ったのは並木城を千葉侍所が拠点にしたためであろうか。並木城は次節の「中世の城砦」に示すように多古町域では最大規模の要害であった。
 下総ではこのように千葉介方が勝利を収めたのに、主将の貞胤の方は苦境に陥っていた。足利尊氏はいったん敗れて九州へ落ちたが、すぐ大軍を率いて東上し、楠正成や新田勢を破った。建武三年十月、貞胤は義貞軍の殿(しんがり)として北国に向かい、越前へ越える木の芽峠で雪道に迷って味方を離れ、足利軍の中へ入りこんでしまった。最期の覚悟を固めているところを斯波(しわ)高経に言葉を尽くして説得され、兵士の命を救うために投降し、それ以後足利方に属すことになったのである。
 このために胤貞と貞胤は当面対立する根拠を失い、同志となった両者は下総の戦乱を鎮め平和を回復するため東に向かった。しかし胤貞は不運にもその途中三河国で病死してしまった。
 その結果、約一年間に及ぶ千葉家の内戦は収束したが、貞胤の投降と胤貞を千田庄やその周辺はどう見ていたであろうか。これは称名寺にいたと思われる僧から東禅寺へ送られた手紙である。
 
 (前略)千葉介殿無子細降人候之由、承及候之間、先悦入候。兼又大隅殿(胤貞)災亡事、荒説に承候。実事候者、浅猿敷(あさましく)存候也。(後略)
〔注〕荒説はとりとめない風説。(一乗書状、八五一)

と貞胤の降参を歓迎し、胤貞の死を悼んでいる。これは、東国の大勢がすでに足利方に傾いていることと関係があり、平和の到来を待ち望んでいたからであろう。同時に、金沢氏や北条氏を滅ぼした新田勢への反感も含まれていたのかもしれない。貞胤が東禅寺に堂免を寄進していることは前項に触れたとおりで恩恵もあるから、貞胤の不名誉を喜んでいるのではあるまい。もっともこの寄進の時期は不明で、この推測は成り立たないかもしれない。