多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第二節 中世中期――鎌倉時代末期・南北朝期――

二、東禅寺と在地武士層

 前節第一項にその名を記した土橋東禅寺長老、本如房湛睿律師(一二七一~一三四六)は奈良の東大寺戒壇院に学び、後に金沢称名寺(横浜市金沢区)の三代長老となった高僧で、『教理鈔』『華厳(けごん)五教章纂(さん)釈』などの著作がある。『鎌倉事典』(東京堂出版)の解説によれば「極楽寺栄真に伝法灌頂(かんぢょう)を受けて後、称名寺に入り、剣阿に師事する。華厳教学に秀でた。他にも真言、律、浄土等の教学に通じて写本は多い。中世鎌倉教学の中心人物」とある。

湛睿筆跡、輪如宛て書状(『金沢文庫名品図録』による)


湛睿和尚像(『金沢文庫名品図録』による)

 次の四カ条の文章は、それぞれ湛睿がその著書の奥書に記したものから東禅寺に関する部分を抜粋したもので、湛睿が東禅寺にいた時期や当時の東禅寺の研究講学の様子をうかがい知ることができる。
 
 嘉暦三年[戊辰]二月廿四日、於下総土橋東禅寺之了。
 元徳三年十二月一日至同廿五日、於下総国千田庄土橋東禅寺、広集文義重加修飾、雖急不急工夫是一形之謬、既難逢希逢、豈踈讃仰之勤、定結一句 宗之縁種、必為三仏円証之大因
 建武三年[丙子]十一月廿五日夜、於下総千田庄土橋東禅寺燈下記之。
 建武四年[戊(丁)丑]於下総国千田庄土橋東禅寺、自二月廿三日開講、至三月四日終談、凡講席一十二座、聴衆十七八人……
 
 湛睿が東禅寺に滞在、または長老として在任していた時期で知られているのは次のとおりである。
 
  嘉暦三年(一三二八)二月二十四日まで
  元徳三年(一三三一)十二月一日~二十五日
  建武二年(一三三五)正月十七日~二月七日、三月十日以後
  建武三年(延元元年)(一三三六)壬十月八日~四月十二日まで
           十一月二十五日
  建武四年(一三三七)二月二十三日~三月四日
 
 湛睿のほか当時東禅寺にいた高僧としては、金沢文庫所蔵の写本『智袋(ちたい)』(如実著)の奥書に次のような僧の名が記されている。
 
 土橋東禅寺睿弁長老之以御本之畢。(中略)永徳四年四月十七日写之。
 土橋東禅寺興賢長老之以御本之。
 
 睿弁はその名から湛睿の高弟と思われる。
 このような高僧たちが盛んに戒律を講じ華厳教学を説いたことによって、当時の東禅寺は大栄町の慈恩寺(現在、大慈恩寺)とともに、奈良仏教復興派の東国における重要な拠点道場となったのであった。上総一宮庄の人々が東禅寺に受戒に来ていたらしい記録もあり、当時は両総地方の文化的な一中心地でもあった。
 湛睿らの本拠である金沢称名寺は金沢実時の創建した真言律宗の寺で、房総の各地、下総では埴生庄や下河辺庄(葛飾郡)などに多くの寺領を持っていた。それらは金沢氏一門が寄進したもので、このため称名寺の学僧らは下総とかかわりを持つようになったのである。
 次の文章は当時、東禅寺にいた僧住印から称名寺の僧へ出した書状の一部である。金沢文庫古文書には、このように東禅寺に関係するものが、断簡を含めると五百点にも達するといわれており、東禅寺と称名寺との関係の密接さを示しているものといえよう。
 
 来廿九日には、理円御房共に、必千田へ可御寄合候。もし加様にそう(僧)なんども れ候はず候はんには、愚身も往復わづらはしく候へば、一度にこれより千田へ可罷越候。千田よりこそ御越候はゞ、御共つかまつり候て、滝川寺へは参候はんと存候。便宜時は阿闍梨御房に、此由を可見参候也。毎事期面拝之時候。恐々謹言。
(金沢文庫古文書一四〇二。以下東禅寺関係の引用文の出典はすべて金沢文庫古文書である)

 東禅寺および称名寺とこの地方の武士階級などとの結び付きも相当深かったようで、前節、千葉氏の項に述べた次浦修理助入道の娘の場合もそれを如実に表わしている。
 東禅寺で営まれた法会について、金沢文庫古文書の中に断片的に残された記録がある。その中には千田庄関係と思われる次のような人物の供養がある。
 
 正慶元年(一三三二)十一月十八日 東禅―鼻和五郎四十九日
 元弘三年(一三三三)八月三十日 土(土橋)―為次浦殿百日
  同      九月五日 土―為井戸山入道百日
  同      九月二十九日 東(東禅寺カ)―鼻和五郎一周忌
 建武三年(一三三六)八月二十三日 土―為原四郎の母儀四十九日
 
 鼻和氏は多古町東松崎字塙に在住した武士と思われる。塙の地は後の検地帳に花和と書かれた例がある。原四郎の名は『千葉大系図』を見ると、千葉介第三代常兼の弟鴨根常房の次子に原四郎常途(つねみち)があり、その子孫かと推測される。鴨根常房は千田とも称しており、また原氏は千田庄原郷にいたと考えられている。千田親政に従った者として常房の孫原十郎・平次・五郎・六郎の名を『源平闘諍録』は伝えているが、この中に四郎の名の見えぬところが注意を引く。
 「次浦殿百日」の八月三十日から百日さかのぼると、五月二十一、二日ごろとなり、北条高時以下一族が鎌倉東勝寺で自殺し滅亡したのが五月二十一日であるから、次浦殿は千葉介貞胤に従って鎌倉を攻め戦死したのであろうか。この日は市民にも殉死した者が多かったといわれるが、次浦殿は金沢氏との縁の深さから考えると、金沢氏に従ってそれに殉じたのではなかろうか。五月二十一日に攻め手の側で討死するとは思えないのである。
 とすれば、千田庄の武士らは、下総武士の棟梁である千葉介に刃向かったことになる。千葉介貞胤は金沢氏とは姻籍にありながら、この時から新田氏に従って金沢貞将を撃ち破っている。東禅寺の僧が次浦氏にのみ「殿」と敬称をつけて呼んでいるのは、次浦氏の地位の高さ、あるいは大旦那としての寺への恩恵の多さによると思われるが、東禅寺を媒介として縁の深かった金沢氏に加担して殉じたことに対する敬意であったとも考えられよう。また井戸山入道百日は次浦殿に五日ほどおくれているが、これも戦傷死ではなかったかと思われる。
 こうした在地武士の千葉介に対するいわば反逆と、彼らに対する東禅寺の態度は、後に貞胤が下総守護となったとき東禅寺の立場を危うくするものとなったと思われる。こうした反逆を可能にした背景には千葉介と千田氏との惣領職をめぐる対立の事情や、あるいは千葉介の支配力の相対的低下が考えられよう。
 次浦氏については前節にも触れたが、金沢文庫古文書の中には「 (つ)ぎうらの八郎殿、出家遁世 (事カ)いかばかり親父入道殿被 (嘆カ)仰候覧」(氏名未詳書状、三九八三)のような記述も見える。
 親父入道とは前出の修理助入道(五郎左衛門)であろう。次浦八郎常盛の系譜については前章で触れたが、その血筋がこの出家した八郎にまでつながるかどうか不明である。この出家遁世にまつわるらしい記述も別の書状に見られる。
 
 又、此騒動剋自大殿法寿殿、自南殿乙御前、二人出家候。皆御存生之時、被仰置候。又、次浦五郎左衛門子息一人罷出候之時、申入候て、仰なしてた(賜)び候へと、ねんごろに申候し、付其候て、自母許(もと)法師に成て送て候。此等之躰可如何候哉、即可啓候之処、内外余取乱候間、 (于カ)今不啓候之条、恐入候。又此外少々出家小法師見候へども、自何方承道候之間、不啓候。為御心得申候。以此旨入見参給候。恐惶謹言。
(輪如書状、二三四四)

 「此騒動」が何をさすか不明である。当時の書状の常として年代の記入がないため時代を特定することはむずかしいが、北条氏・金沢氏の滅亡とかかわることのように思われる。
 次浦氏のその後については次のようなものもある。
 
 如風聞者、恵仁房次浦殿遺跡無人御坐候上、六良殿養子契約候けるとて、被出候之由承及候。可先立幼少両人者、未出候。此(後欠)
(氏名未詳書状、四〇二三)

 また次浦殿に五日おくれて死んだ井戸山入道に関するものもある。
 
 良文房俄逗留申候。愚身承候し趣と、三日御状之趣と、すこし相違之躰候之間、僧中にも難量之由、被申候。今井土(戸)山入道之跡と、知事被申候は、空日房門に松の候所を指被申候。彼所者、余はしぢか(端近)に候上、又小家一ならでは不叶候。僧中よりも如此被申候。重恐惶謹言。
(湛睿書状、一九〇三)

 金沢文庫古文書には他にも、湛睿書状(一八八二)に原四郎、親真書状(七〇五)に原三郎兵衛是永などの名が見られる。
 以上の古文書から土橋東禅寺の盛時をうかがい知ることができるが、元弘三年(一三三三)北条氏が滅び、一族の金沢氏も滅び去って金沢称名寺が衰退に向かうと、同寺につらなる東禅寺も同じ運命をたどることになる。旦那であった千田庄の有力武士層にも、元弘・建武の戦乱の中で討死あるいは殉死するなどの変動があった。さらに追い討ちをかけるように千田庄周辺でも南北朝期に動乱が起き、湛睿はじめ寺僧を驚かせ嘆かせることになるのである。それについては次項に譲るが、引き続くこの戦乱によって東禅寺は大きな影響を受けることになった。
 なお東禅寺の経営については、千葉介や次浦殿のような在地領主の寄進による寺領を相当な広さで持っていたと思わせる次のような書状がある。
 
 (前欠)故心蓮(心ばせカ)寄進候。其後  玉造不動堂免[並阿弥陀堂免]○(は)寺に知行候。其外は無沙汰候き、為御心得申候。此等子細介殿にも可申候歟之由令存候。僧を奉上候へども、介殿下向之由、風聞候之間、以状令啓候。(後略)
(輪如書状、二三四四)

 (前略)又身にこそおも(思)ひがけ候はぬ悦して候へ。りん(輸)如御房のあと、いで山(井戸山)のあみだだう(阿弥陀堂)のだうめん(堂免)、さぶらへ所(侍所)の方より、さこそ候はめとてた(賜)びて候ほどに、此秋はことたへ(絶え)たる事にて候つるに、すこしにて候へども、ちから(力)つ(尽)きたる心ち(地)(後欠)
(氏名未詳書状、三四〇五)

    惣二丁八段六十歩  一丁二段大は当知行候。一丁五段半 (歩カ)未知行候。此間一丁者古大路阿弥陀堂免にて候。五段半はいづくとも在所不分明候。雖相尋候、未知候。又次浦に一段小候。是も在所を知人なく候。此外散在仏神領(後欠)
(輪如書状、二三四七)

 〔注〕侍所は千葉介のそれであろう。「大」は一段の三分の二、「小」は一段の三分の一の意。
 
 二通は輪如の記したもの、他の一通も輪如周辺の僧のものである。輪如には東禅寺宛ての書状もあるが、東禅寺の年貢を収納する納所(なっしょ)の僧であったと思われる。動乱のために寺領が混乱し失われたりしていたことがわかる。
 また東禅寺の文化的側面を伝える次のような書状もある。
 
 御唐絵給候之条、喜入候へども、非  進候。さて自京都下させ給て候。且御状如此進之候。毎事期後信時候。恐々謹言。
(「土橋御寺侍者」宛て、蓮一書状、二三五二)

 唐絵はたぶん宋画であろう。東禅寺から称名寺へ贈ったらしいが、そうした文物も都から入手していたらしい。また湛睿の師である称名寺二世剣阿は関東における声明(しょうみょう)の大成者でもあったので、東禅寺においても偈頌(げじゅ)の声明が日々聞かれたのではなかろうか。金沢文庫古文書の書状には茶に関する文言も少なくない。