多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第二節 中世中期――鎌倉時代末期・南北朝期――

一、千田胤貞と千葉介貞胤

 本項に掲載した日祐への胤貞譲状などに見られる「在家壱宇」という言葉は、中世の千田庄農民の実態を端的に物語っているものである。
 在家という語は、本来は在所の家の意で、出家に対する在俗の人の意味にも使われるが、荘園において在家、または百姓在家というときは荘園領主に隷属した農民のことで、一宇二宇と軒数で数えられるように、農民一家の住家・宅地および園地(畠)を含めたものをいっている。
 それには在家役と呼ばれる年貢・夫役(ぶやく)がかけられ、古代には人頭別であった賦課の単位が家別になったのであった。そうした課役を免除された在家は免家と呼ばれ、地頭に報酬として与えられたり譲渡されたりした。胤貞譲状に見るように、田地同様に領主の財産として、田地と切り離してでも譲渡や売買の対象とされている。在家住人と呼ばれる農民は、田地を現実には耕作していても田地に対する権利を全く認められなかったのであった。
 もっとも十三世紀半ば以降、関東地方では田(た)在家と呼ばれる田地に付属した在家が広く見られるようになり、譲渡売却の際には田地と一体として扱われるようになった。その際の田地の面積は一宇につき一町歩程度であった。
 胤貞の譲状の文面では田地が在家一宇ごとに書かれているので、田在家のように思われる。この譲状の場合、田地は平均五~七段であり、例外的に二町五段というのがあるが、このような広い田を耕す在家は。家族のほかに下人もかかえていたと思われる。
 在家は前述の日高の譲状に見える権守四郎のような名主とともに、中世では農民の一般的なあり方であった。それはやがて田在家のようにしだいに田地との結合の度合いを強めて名主化の道をたどることになるのである。そして近世初頭の検地によって畑地・屋敷地も測量されて土地が反別賦課の対象とされるに至って全く消滅している。
 胤貞譲状に登場する多古町域の田地はみな両総台地に刻み込まれた栗山川の浸食谷を中心に展開しており、この豊かな田地をもつ千田庄一帯が千葉氏にとって重要な拠点となったのも当然であった。