多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第三章 中世

第一節 中世前期――鎌倉時代初中期――

 前項で金沢称名寺の僧の書状に見たように、奈良仏教復興派の活動は、古代の貴族仏教の殻を破って東国の農村地方にまで進出しており、そこでは武士を初め一般民衆に戒を授けるまでに変貌を遂げたのであった。これは鎌倉時代の新仏教が、古代末期からの動乱の中で生命財産の保償もなく、世の無常を目のあたりにしてきた人々に強い精神的よりどころを与えようとした動きであったのに対応して現われた戒律の復興であった。この派の僧は民衆への授戒とともに、慈善救済事業も行っている。
 旧仏教への批判と反省の上に生まれた新仏教には、法然の始めた浄土宗、その専修念仏・他力本願の思想をさらに推し進めた親鸞(らん)の浄土真宗(一向宗)のほか、一遍の時宗、道元の曹洞宗、栄西の臨済宗などがある。
 また浄土信仰と並んで古くから伝統を持つ法華信仰では、平安時代末期以降、聖(ひじり)と呼ばれる人々が一般民衆の中へ入って教化に努めていたが、日蓮(一二二二~八二)はこの教説を発展させ、新たに日蓮宗を樹立した。
 安房国東条郷(小湊)に生まれた日蓮は幼少から清澄山に登って仏教を学んだが、釈迦の教えがなぜさまざまの経典・教理・宗派に分かれるのかに疑問をいだいた。長じて鎌倉・比叡・高野などに遊学、研究するうち、一切経の中で『法華経』が最高の真理であることを確信するに至り、建長五年(一二五三)故郷に帰って『法華経』信仰中心の一派を創唱したのであった。
 日蓮の説は、「南無妙法蓮華経」と題目を唱えれば『法華経』の功徳によって救われるという簡明な信仰形式であった。彼は念仏を初めとする他宗派を激しく非難し、『立正安国論』を著わして幕府を批判したので、たび重なる迫害を受けた。日蓮はそれにも屈せず布教を続け、晩年は甲斐国の身延山にこもって多くの著述を残している。
 日蓮の教えは関東から北陸方面の武士階級(地頭・御家人・名主など)の支持を受け、下総では富木(とき)常忍、曽谷教信、太田乗明などの武士が信徒の中核となって活動した。中世の宗教活動にとって在地の政治権力とどのように結びつき外護(げご)を得るかが、その教団の消長を決める重大事であった。一方、武士の側にとっても、その一族を惣領制の下に結合させる精神的なきずなとして宗教が必要であり、氏寺はそうした結合の中心であった。日蓮宗は千葉氏の一族、ことに千田庄領主の千田胤貞一門とその被官の間に受け入れられ、その領域で信徒組織が形成されていった。
 富木常忍は葛飾郡八幡庄谷中郷の領主であり、千葉介頼胤の有力な被官であった。彼は直接教えを受けた日蓮の死後、後に中山法華経寺となる法華寺を建立し、日常と名乗ってその住職となった。後年彼は千田庄の中村に隠居して草庵を結ぶが、これは後の中村檀林(日本寺)のもととなっている。(補注参照)
 
〔補注〕
 中山法華経寺は天文十四年(一五四五)までは本妙寺・法華寺の二寺で一主制をとっており、天文以後は法華経寺と称しているが、本書では便宜上初めから法華経寺と呼ぶことにした。
 
 八幡庄・千田庄・臼井庄(印旛郡)は鎌倉時代末期には千田胤貞の領地で、下総の日蓮宗はそれ以後この地域で盛んに信仰されるのであるが、千田庄ではすでに日蓮在世中にもその布教は行われていたようである。多古町東松崎の顕実寺は寺伝によれば、文永年中(一二六四~七四)にそれまでの真言宗を日蓮宗に改めている。寺僧円巍(ぎ)は日蓮の教化によって弟子となり、日巍と改めたとされ、それ以後、近傍の僧俗でその教えに帰依するものが増加したといわれている。
 このように既存の寺院を積極的な説法によって改宗させることから初期の日蓮宗の活動は始まった。多古町南玉造の蓮華寺は、元は観音院という真言宗の道場であったが、弘安七年(一二八四)日蓮の直弟子日位(~一三一八)の説法によって住僧実源が改宗して日実と名を改め、弘安十年に今の寺号に改称したと伝えられる。日位は日蓮門下の十八中老僧に数えられ、駿河の本覚寺を開創した高僧である。
 以上のような改宗は、その寺の住持だけを対象に説法するだけではなく、寺の旦那である領主層をも同時に教化した上で行われたことはいうまでもないであろうが、日蓮がこの地で説法したことを示す文献は残っていない。
 多古町南中の峯の妙興寺は、寺伝によれば正安二年(一三〇〇)日蓮の直弟子日弁(一二三九~一三一一)が大嶋城(多古町島の塙台とも船越の丸山ともいわれる)内に堂を建て、当時は正円山を号したが、後にその実弟であり法弟でもある日忍が継いで、これを現在地に移し、正峯山と改めたといわれる。大嶋城は千田胤貞(一二八八~一三三六)が築いたものと伝えられるから、この寺は当然、胤貞を旦那としたものと考えられる。妙興寺は、後に胤貞が俗別当であった中山法華経寺のいわゆる中山門流に属している。
 日弁は初め駿河国の真言宗滝泉寺の学頭の一人であったが、日蓮の教化により身延山で弟子入りし、後に常諦寺(駿河)・鷲巣(わしのす)鷲山寺(上総藻原)・妙興寺・遠照寺(甲斐)・願成寺(常陸)などを開いている。日蓮没後その直弟子たちは、六老僧を中心に各地に教線を拡大していったが、日弁は六老僧の系統を脱し、日蓮の直系を任じて日弁門流を立て、その拠点としてこれらの寺を開いたのである。日弁の高弟には前記日忍と鷲山寺を継いだ日源とがある。
 日弁の弟子に和泉公(いずみのきみ)(和泉阿闍梨(あじゃり))日法という僧がいた。千田庄原郷多古村にあった和泉公堂と呼ばれる堂の跡が、後に胤貞の子胤継から中山に寄進され、法華経寺三世日祐の弟子の日胤・日貞が継承しているのであるが、これには堂免田五反、畠一反、在家一宇が含まれている。日法は日蓮に心酔していたらしく、中山法華経寺文書『日忍伝授状』によれば日蓮が入寂して池上で荼毘(だび)に付されたとき「悲嘆恋慕のあまり」その舎利を火中から盗み出して鷲巣に納めたという。舎利はその後、妙興寺に伝えられ、日忍のとき中山へ分骨伝授されている。