多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第二章 古代

第四節 平安時代

五、千田親政とその滅亡

 平安時代末期、千田庄を現地で支配していたのは千田親政であった。『吾妻親』治承四年(一一八〇)の条に、その名は、「下総国千田庄領家判官代親政」と記され、平忠盛の娘聟であるため義兄に当たる清盛に意志を通じていたと記されている。
 清盛の妹には、太田亮編『姓氏家系大辞典』(角川書店)によれば、中納言顕時室、左兵衛佐(すけ)隆教室、河内守源義忠室、下総国千田庄領家千田判官代親政室、紀伊守源雅重室らがある。以上のうち姓のないのは藤原氏で、この順序に従えば親政夫人は忠盛の第四女に当たる。
 千田親政は『源平闘諍(とうじょう)録』には「千田判官代藤原親正」とあり、この藤原親正は『尊卑分脈』の藤原北家の条に「阿波守。皇嘉門院判官代。智田判官代と号す」と載っている藤原親雅ではないかと見る説が有力となっている。
 『尊卑分脈』などによれば、その系譜は次のとおりである。

 

 右のうち親通、親方、親盛は従五位上または下の下総守であり、典型的な中下級貴族の受領(ずりょう)の家柄である。
 このような父祖の経歴から、親雅は下総守ではなかったが、国衙の有力な在庁官人(にん)であった可能性も十分考えられる。祖父親通は、千葉家代々の私領であり千葉常胤の父が伊勢神宮に寄進した相馬御厨(みくりや)および立花郷を、公田官物未進の理由でもって職権で没収し、それを子の親盛に譲渡している。そうした因縁が千葉氏との間にある。相馬御厨は現在の柏市・我孫子市・沼南市、茨城県取手市・北相馬郡一帯であり、立花郷は橘庄に含まれ、現在の東庄町である。
 相馬御厨の領主権をめぐっては、後に源義朝や常胤が争う中で、常陸北部の豪族佐竹(源)義宗が親盛から譲り受けたと主張して、永暦二年(一一六一)に伊勢神宮から荘官に任ぜられている。こうした事情があったため、富士川の戦の直後の治承四年(一一八〇)十一月、源頼朝に従って佐竹氏を討った常胤は相馬御厨を回復している。そして、それ以後は次男師常がこの地を相伝し、その系統が相馬氏を名乗っている。
 なお、親盛が佐竹氏に相馬御厨を譲渡する際、その理由を「匝瑳北條之由緒(ゆいしょ)」によると称している。この「由緒」の内容は明らかでないが、親盛の子親政の拠点が匝瑳北條の内山にあったのはこの由緒によるものと考えられている。
 さて親政と親雅とが同一人物であるとするならば、親政と平氏とは、

 

のような関係となって、両者は二重の姻籍関係で結ばれていることになり、平氏の政権とは深い係わりがあったことが想定される。
 下総東部に分立していた千葉氏の同族である千田・金原(かなばら)・粟飯原(あいばら)・原などの開発領主は、この地に進出した藤原氏を上級領主として仰ぐ形で武士団を形式していたと見られ、後に結城野合戦に親政が出陣したときには、原・金原・粟飯原などの武士団一千余騎が従っている。
 これらの諸氏は『千葉大系図』によれば、千葉常兼(常胤の祖父)の弟常房(鴨根三郎、千田とも称した)を祖とする。『神代(かじろ)本千葉系図』によれば、常房の子常益は千田庄司と注されるとおり千田庄の庄官であって、その子孫は金原氏、粟飯原氏となったようである。これらの諸氏は親政が千葉成(しげ)胤と戦って敗れてからは千葉氏の被官となったと見られる。
 祖父親通以来下総国に築いてきた勢力を受けついだ千田親政は、常陸の佐竹氏や国衙の在庁官人ら平家方の勢力と結び、また平氏との姻籍関係を背景に一段と勢力の拡大に努め、在地の武士団を傘下に収めることに成功し、皇嘉門院判官代の地位にありながら千田庄に土着し、下総東部に一大勢力を形成していたと考えられる。
 皇嘉門院は藤原忠通の娘聖子(しょうし)、崇徳(すとく)天皇の皇后で、天皇の譲位後、久安六年(一一五〇)に院号を宣下し、養和元年(一一八一)に亡くなっている。女院(門院)の待遇は上皇に準じ、院司を任じた。判官代は院庁の事務官で五位六位の蔵人(くろうど)が補せられるものであった。
 皇嘉門院が亡くなる前年の治承四年五月に『皇嘉門院惣処分状』が出されているが(九条家文書『平安遺文』三九一三)、これには下総国では三崎庄(銚子市)が載っているのみで千田庄は載っていない。親政が千田庄の本所として女院に寄進することはなかったようである。三崎庄はこの時、女院の兄である藤原兼実の長子九条良通に伝領され、文治二年当時はいったん殿下御領(摂関家領、当時は近衛基通領)となるが、後に再び九条家領となっている。三崎庄が女院領だったことについては下総東部の有力者であった親政の斡旋によるものではないかということが考えられる。
 殿下領という点について付け加えれば、後年、南北朝時代のことであるが、至徳四年(一三八七)の香取社大禰宜、大中臣(おおなかとみ)長房の譲状に、「てんか(殿下)の御きしん(寄進)ちんたのしゃう(千田庄)のうちたへ(田部)の御きしん」という一項がある。「ちんたの庄」という発音は古くからのものかどうか、この点も興味を引くが、千田庄が元は殿下領であったことが知られる。
 この寄進の時期や範囲はわからないが、前節で触れた『吾妻鏡』の記述を合わせ考えても、千田庄はあるいは平安時代末期から摂関家で所有、伝領されていたのではないかと考えられるのである。とすれば開発領主である鴨根氏は、前の下総守の次男で平清盛の義弟にあたる皇嘉門院判官代藤原親政を通じ摂関家に寄進することによって千田庄を立荘し、自らは千田庄司を名乗り、親政は領家となって智田判官代と号したものと考えられる。
 結城野の戦いに千田親政が一千余騎を動員したのに対して、一方の千葉常胤の軍勢はわずか三百騎であったと伝えられる。当時の千葉宗家は先に記したように、相伝の相馬御厨などを奪われ、下総東部からは平家と結んだ藤原氏に圧迫され、南からは上総介広常に押されて、わずかに千葉庄あたりに押し込められ雌伏していた時代であった。当然、千田親政とは早くから敵対関係にあり、そうした経緯と状況が、後に源頼朝が挙兵した際に全面的にこれに協力し奮闘する動機となったと考えられる。
 最後に、『日本地理志料』が、千田庄は「平清盛の孫下総守秀(季(すえ))衡(ひら)の采邑(さいゆう)に係わり、親政はその目代也」としている点に触れておく。下総守平季衡は清盛より四代前の正衡の弟であり、親政が目代でないことは親政挙兵の経緯によっても明らかである。あるいは季衡が下総守のとき千田庄の領家となり、後に下総守藤原親通がそれを継承したのであろうか。