多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第二章 古代

第四節 平安時代

四、千田庄・玉造庄その他

 先に引用したように『下総荘園考』は「拾芥抄に下総国千田郡と標し、伊呂波字類抄にも載せたり、今は千田庄といひ」として、千田庄域がかつて千田郡ともいわれていたことに言及している。
 『拾芥抄』の国郡部には、『和名抄』のそれと同様に下総国は一一郡としてあって、それぞれの郡名を掲げた後に、付録の形で「千田 延喜式に入らず」と追記しているのである。
 また『伊呂波字類抄』の国郡の項には「下総国 管十二」として郡の一二番目に「千田」が記されている。この書は初め『色葉(いろは)字類抄』として二巻本が十二世紀中期に編まれ、次いで治承(一一七七~八一)年間までに補訂した三巻本ができ、さらに大幅に増補改編した十巻本が『伊呂波字類抄』と字を変えて鎌倉時代初期までに成立している(国語学会編『国語学大辞典』による)。二巻本はすでに失われ、現存する二種のうち三巻本には千田郡はまだ載っていない。次の十巻本が完成するまでの期間に千田郡が成立したのか、十巻という大幅増補の編集方針によって綿密に拾い上げられたのかどうかは知る由もないが、とにかく鎌倉時代初期には、下総国の管下には千田郡を加えた一二郡があったと見てよいのではなかろうか。
 『香取郡誌』は「中世匝瑳郡の北部と本郡の南部を割(さ)き別に一郡を置き千田郡と称す」として以下次のように説明している。
 
 「按ずるに千田郡の称は今の郡制の如き確乎たるものに非ずして一時の私称に過ぎざりしならむ。唯拾芥抄及び香取神宮応保中古文書千田郡を載す。村岡良弼曰く、拾芥抄は洞院(とういん)左大臣実凞(さねひろ)の著すところ、当時豪族相呑噬(どんぜい)し荘を呼んで郡となすもの往々これあり、実凞察せず、其私称に従ひしなりと。或は曰く古記に匝瑳郡長尾以北、玉作以南の地を割(さ)き千田郡を置くと為すは即ち荘の誤りなりと。故に中村浄妙寺並に日本寺天正十九年の朱印状及び飯高村飯高寺寛永十六年鋳造の鐘銘等に匝瑳郡と記するもの多し。千田郡の称は確乎ならざるも録して一変説となす」
 
 当時の豪族がこの地域を開墾するのに、自ら郡司を称して人民を動員するため千田郡と呼ばせたことも考えられるが、関東地方の荘園は郡単位の大規模のものが多いので、村岡良弼の『日本地理志料』も下総の千田の項でいっている。
 
 「今尚ほ地方八十余村を呼びて、千田ノ荘と曰ふ。其(それ)私に郡と称せしも亦(また)宜(むべ)なり」
 
 荘園制が全く崩壊した後も、たとえば「下総国香取郡千田庄寺作村」というように江戸時代には書かれていた。香取郡に編入されても一つの地域的まとまりの意識は長く残ったのである。ちなみに上野国新田郡のように、新田庄が立荘すると郡名が廃された例もある。「千田郡」が先にでき、千田庄が立荘すると郡が廃止されたということもあったのかもしれない。
 ただ先の引用のように「千田庄内福田郷田壱町」、「限南千田郡堺……」といっているところを見ると、私的な領域である荘園の田の範囲を公的領域であるべき郡境でもって示しているのは、千田郡の観念が基礎にあったように感じられる。この例だけで判断はできないが、千田庄立荘以前に、行政区画としての千田郡がすでに施行されていたのではなかろうか。