多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第二章 古代

第三節 奈良時代

 律令政治は中国の制度を移し入れたものであったから、その理念は儒教を根底としていた。しかし仏教も渡来した時から政治と密接に関係を持っており、その国家鎮護の思想は律令制下で一般化した。写経・読経が朝廷で行われ、東大寺や諸国の国分寺の造立が国家的事業として営まれた。また、南都七大寺を中心とする官寺では政府の保護の下に教理の研究が進められた。
 わが国に初めて戒律を伝えるため渡来し、律宗を開いた唐の学僧鑑真(がんじん)が、五度の渡海に失敗してようやく一一年目に失明しながらも日本にたどりつき、奈良に入ったのは天平勝宝五年(七五三)六十七歳であった。東大寺では戒壇を築いて聖武天皇以下に授戒し、伝律を行ったが、老衰のため唐招提寺に引退し、天平宝字七年(七六三)に没している。
 
 〔注〕戒律は仏教修行のよりどころとなる規範で、律は他律的規範であり、戒は自発的精神力であるが、両者は一つであるとされる。
 
 多古町北中の浄妙寺の前身である法性(ほっしょう)山東耀(よう)寺と、寺作(てらざく)の土橋(つちはし)山東漸寺(後に東禅寺)はともにこの鑑真を開基として天平宝字のころ開創したと伝えられている。東漸寺の場合、その由来については元禄期鋳造の梵鐘銘によって知られるにすぎないが、この寺は後に金沢称名寺三世となった高僧湛睿(たんえ)が鎌倉時代末期にしばしば講学・授戒を行って最盛期を迎えており、鑑真の伝えた律宗の系譜が、奈良西大寺、鎌倉極楽寺を経て、この地へと伝えられていることからも、鑑真開基の伝承には何らかの根拠があるのではなかろうか。
 天平宝字二年、下野の薬師寺と筑紫の観世音寺に戒壇が設けられ、東大寺と合わせて三戒壇といわれているが、東耀・東漸二寺もそれにならい東大寺と合わせて三壇三東を称していた。なお、東耀寺は聖武(しょうむ)天皇の祈願所であったともいうが、伝えられる開創年号には天皇はすでに亡くなっている。
 両寺はその後、永仁年中(一二九三~九九)律宗から真言宗に転じている。東耀寺はさらに日蓮宗に転じるのであるが、『大日本寺院総覧』(大正五)は日蓮宗浄妙寺の項で「往昔七堂伽藍(がらん)完備し、総国屈指の大霊場たりしも、南北朝時代に入りて荒廃に傾き、遂に正平元年に至りて本宗に改め、山称寺号を改むと伝ふ」と記している。
 政府保護の官寺の活動は一般人民とは関係が乏しかったが、一方には行基(六六八~七四九)のように民間にあって諸国を布教して回り社会事業を起こした僧もいた。今はない飯笹の東雲山瀧門寺は天平年中(七二九~四九)東国巡錫(しゃく)中の行基が建て、自ら本尊を刻んだと伝えられる。一般には瀧の不動尊の名で呼ばれ、かつてはかなりの伽藍があったらしい。現在は地福寺に合併され、その跡には礎石や古瓦も見当たらないので往時の規模を確認することはむずかしいが、近くの添谷(そいやつ)には行者の行場があり、御行屋敷と呼ばれていたという。なお古瓦が発見されないのは寺作東禅寺の場合も同様であるが、いずれも茅葺か桧皮(ひはだ)葺であったものと思われる。

飯笹滝門寺跡

 ところで関東地方に仏教文化の影響の現われるのは七世紀前半で、この時期に造られた古墳には副葬品に仏教文物が見られ、七世期後半には有力豪族の氏寺の建立が、まだ小規模なものではあったが始まったと考えられている。そして八世紀に入ると間もなく古墳の築造が終わっている。このことは古墳を造営した地方勢力がいちはやく仏教文化を受け入れ、古墳築造のエネルギーを造寺造仏に切り替えたことを示している。
 関東地方で最古の仏像である白鳳(はくほう)時代(奈良時代前期)の薬師如来坐像によって知られる印旛郡栄町の竜角寺は、房総地方で最も古い寺といわれている。『竜角寺大縁起』によれば和銅二年(七〇九)の建立とされるが、天平三年(七三一)の旱魃(かんばつ)の際には勅願によって法会が営まれている。
 国分寺建立の詔が発せられたのは天平(ぴょう)十三年であるが、下総国分寺がそれより後に、すでにその地に建てられていたか、または建造中であった寺院を国分寺に当てて造られたと推定されているように、すでに関東地方ではかなりの寺院が建てられていた。多古町の三寺の開創が天平時代の高僧によるとする伝承は実証しようのないことではあるが、それを伝えて尊崇した民意には考えるべきものが含まれているであろう。このように早い時期にそれらを建てた豪族は誰であったろうか。竜角寺の近辺に竜角寺古墳群が存在するように、この地域一帯に古墳を造営した豪族が氏寺として小規模のものを建てたということは十分考えられるところである。奈良時代の寺院跡の周辺に群集墳の存在する例は関東地方の各地で見られる。国分寺は国家鎮護と疫病退散を祈願して建てられたが、各地の氏寺は私人の死後の魂の救済を目的としたものであった。