多古(たこ)町/多古町デジタルアーカイブ

多古町史

通史編

第二章 古代

第一節 古墳時代

 古墳は三世紀末か四世紀の初めごろ大和地方に出現したが、大和朝廷の力と富とを象徴するのが巨大な前方後円墳であった。
 大量の封土を積み上げる巨大な高塚式墳墓の出現の背後には、土木技術の飛躍的な進歩とともに、奴隷制の上に立つ族長の権力が一段と巨大化したことが考えられる。
 古墳には円墳、方墳、前方後方墳、前方後円墳、上円下方墳などがある。古墳時代はまた三、四世紀を前期、応神・仁(にん)徳陵を中心とする五世紀を中期、五、六世紀から八世紀前半までを後期として三期に区分される。前期は大和政権の発展期に当たり、中期はその最盛期、後期はその衰退期にほぼ相当する。
 前方後円墳は大和政権特有の墓制で、四世紀に急激に発展し、五世紀ごろにはほとんど本州全土に分布を広げた。このことは国土統一の進行とそれに伴う大和政権の成長を示しているものと思われる。大阪府堺市の仁徳天皇陵は、周囲に三重の濠をめぐらし、墳丘の全長四八六メートル、後円部の高さ三五メートルの壮大なもので、墓陵としては世界最大である。また天皇陵としての前方後円墳は、五八五年に崩御とされる敏達(びだつ)天皇陵をもって最後としている。
 古墳の内部構造は棺と槨(かく)または室とに分けられる。
 初期の古墳においては、粘土を細長い船形の棺形に作った粘土槨、小石を敷いた上に遺体を安置した礫槨、木材で細長い船形棺を作った木棺などが作られ、この上に直接封土が盛り上げられる場合が多かった。このほかにも長方形の竪穴の周囲を平らな割石で、煉瓦を積むように積み上げ、その天井は板状の石を並べてふさぐ竪穴式石室が構築され、その中に遺体を安置して封土を盛ることも行われた。
 古墳の最盛期に入ると封土は壮大に築かれるようになり、墳丘の形式が優美になり、埴輪(はにわ)の発達が見られた。埴輪は封土の土止め用の円筒埴輪が多く作られた。また副葬品として、鏡・剣・玉などの呪術的意味をもった非実用品が多く作られた。内部構造としては、竪穴式石室内に石棺が設けられるようになった。

林遺跡出土、古墳時代中期の土器(壺・高杯)

 後期に入って大陸から伝来した横穴式石室が設けられるようになると、あまり高い墳丘を築く必要がなくなり、古墳の規模は次第に縮小され、墳丘の小さい割合に内部構造が整備されるようになった。
 横穴式の石室である玄室に安置される石棺は、以前の簡単な長持形式から進んで、蓋(ふた)石を屋根型にした家形石棺や、陶棺などまで現われた。埴輪も人物・動物・家屋などの形象埴輪が発達し、副葬品も精巧な装身具が多くなっている。
 そして六世紀中ごろの仏教伝来以後、国家権力によって仏教寺院の建設が始まると、古墳造営に向けられたエネルギーがその方に転換されるようになり、仏教思想によって火葬の風習が一般化するに伴って、古墳はだいたい八世紀前半までにほとんど消滅することになった。仏教では、肉体は穢(けが)れたものであるから焼却すべきで、霊魂のみ地上の仏土である寺院に集まるのだと説かれたのである。