東金市/東金市デジタル歴史館

解説

第Ⅱ章 古文書の世界

関寛斎の新史料

関寛斎の主な足跡
西暦年号年齢事歴
1830文政132月18日上総国山辺郡中村(現在東金市東中)において父吉井佐兵衛、母幸子の長男として出生。幼名豊太郎
1832天保32母、幸子病没。(しばらく祖父母に養育される)
1843天保1413前之内村(東金市)の関俊輔(号素壽・儒学者、塾製錦堂を開く)の養子となる。(母幸子の姉年子の嫁ぎ先)
1848嘉永元18佐倉順天堂に佐藤泰然の訳書生として入門。
1850嘉永320「嘉永年間に於ける順天堂実験録」を著す。
1851嘉永421日本最初の膀胱穿刺術に泰然の助手を勤める。
1852嘉永522前之内村で一時医院を仮開業。君塚あいと結婚。
1853嘉永623腹水患者に穿腹手術を行う。外科実験を記録。
1856安政326銚子荒野(現興野)で医院開業。浜口梧陵(ヤマサ醤油社主)の知遇を得て、指導援助を受ける。
1858安政528浜口梧陵の助言で江戸に出てコレラ予防を研究
1860万延元30長崎のポンペ伝習所に入門(浜口梧陵の援助)
1861文久元31幕府軍艦咸臨丸の補欠医官となる(艦長 勝海舟)
七新薬(全3巻)司馬凌海訳・関寛斎の校閲で発刊。
1862文久2324月銚子帰着。徳島藩主蜂須賀斉裕の待医に着任。
1863文久333徳島城出勤。礼服を着用、賀代姫・尋姫を拝診。
1865慶応元35上総養父素寿70歳祝賀行う。養父母徳島移住勧める
1868明治元38戊辰戦争に参加。上野彰義隊の変の時、負傷者の治療に当る。大総督府より奥羽出張病院頭取を命ぜられる。平潟、平と転戦。病院日記を記録。11月帰還。
1869明治239徳島藩医学校創立。藩病院開設、病院長となる。戊辰戦争の功績で百両贈られる。郷里東金市東中の面足神社に10両贈る。
1870明治340病院経営のため、和歌山・大阪・名古屋・静岡の各病院を視察。医学校1等教授となる。名を「寛」に改める。
1871明治441医学校開校式胴上げ事件(医学生待遇問題)で100日間の謹慎。
1872明治5421月海軍省辞職。3月甲府山梨病院長就任。検梅法「新聞雑誌」発表。産婆條制・薬種取締り規制を定める。
1873明治6435月山梨病院長辞任。禄籍奉還、平民なる。徳島住吉島村で開業。
1876明治845「養生心得草」徳島新聞に発表。生三、慶応医入学
1879明治1249「虎列刺(コレラ)病私考」を発表。コレラ全国に流行。
1885明治18554月、浜口梧陵(ニューヨークにて客死)の葬儀に参列。
1888明治2158銚子に保養所(後の暁鶏舘)海水浴場開設を進言。
1892明治2562三男周助米国留学。七男又一札幌農学校入学。
1895明治2865徳島出征家族慰問。広島・松山など傷病兵慰問。
1901明治3471「命の洗濯」著す。明治天皇、皇后に献上。郷里に墓参り。
又一「十勝国牧場設計」卒論発表。
1902明治3572北海道開拓に妻あいと向う。8月、斗満で開拓に着手。
1904明治3774妻あい札幌にて没す。二宮尊親牧場を視察。
地域住民に種痘250人、診療50人を行う。
1908明治4178徳富蘆花を訪問(東京)。佐藤泰然、尚中の像除幕式参列
1910明治4380「めざまし草」発刊。9月、徳富蘆花家族が関牧場訪問。
1912大正元82牧場経営親子対立。10月15日、寛斎自宅にて没す。

(『関寛斎 生誕180周年記念誌』より引用修正)



「寛斎夫婦」


「奥羽出張病院の面々」


「寛斎の生家」