東金市/東金市デジタル歴史館

解説

第Ⅱ章 古文書の世界

江戸時代の史料

新徴組の戊辰戦争

 慶応4年(1868)1月、鳥羽伏見の戦いで幕府側は敗北し、慶喜が軍艦開陽丸で江戸へ逃走、上野寛永寺に謹慎し、幕府権力の崩壊は決定的となった。
 朝敵となった庄内藩は二月に江戸を引揚げ、庄内湯田川の宿屋、民家37軒へ分宿し、新政府軍を迎え撃った。このとき伊東滝三郎も行動を共にし庄内に入ったと思われ、「新徴組明細書麁調」(小川松勝一郎「新徴組」国書刊行会、昭和51年)には次のように記されている。
             小頭 伊東滝太郎(滝三郎)
                 丑三十九歳
 一高金弐拾七両五人御扶持
  生国上総国山邊郡川場村住長百姓又右衛門子にて、文久三亥年二月御上洛御先供被仰付、帰府の上御組入被仰付、九月右同断(浪士組、庄内入り)
 
 なお、「新徴組田川温泉場寄宿帳」(千葉弥一郎「新徴組と庄内藩」より)には伊東滝三郎の名はないが、次のような記載がある。
 
  先代滝三郎養子  伊東民三郎
 
 これから推測すると、伊東滝三郎は家族共々庄内入りしたが、新政府軍との戦いの前に死亡したのであろうか。なお、湯田川地区の人々は新政府との戦いで戦死した新徴組の人々の墓石を建て、供養しているとのことである。この墓石群のなかに伊東滝三郎の墓石はない。新徴組隊士のなかには明治維新後も庄内に残り、松ヶ岡開墾事業に従った者や東京に帰った者など様々であった。

(加藤時男 山武市郷土資料館の古文書講座資料より)


 
 ○新徴組は文久3年(1863)4月21日幕府によって組織され、その指揮を庄内藩主酒井忠篤に委任し、取扱として鵜殿(うどの)鳩(きゅう)翁(おう)・松平上総介・中条金之助の三名を任命した。その仕事は江戸市中の取締と海防であったが、過激な尊攘運動、討幕運動の弾圧をも行い、威張りちらしたので評判はよくなかった。浪人者をもって組織され、当初は229名であった(『東金市史通史編下七巻』358頁より)。
 清河八郎が幕府に働きかけてつくった浪士組は分裂して、新徴組と新選組になった経緯があり、それぞれ京都、江戸、そして庄内へ舞台を移しながら維新を駆け抜けた。
 なお、東金生まれの新撰組隊士 池田七三郎(本名 稗田利八)については、『東金市史通史編下七巻』(355頁~376頁)に詳しく書かれている。