東金市/東金市デジタル歴史館

解説

第Ⅱ章 古文書の世界

江戸時代の史料

「板倉重昌の近親と東金」 飯高和夫 著

 東金(上宿・谷・岩崎・新宿・田間・二又)は、板倉重昌を藩祖とする福島藩(現福島市)の領地として明治まで二百年支配を受けた土地である。
 重昌は慶長十九年甲寅(1614)一月御成街道を経て、徳川家康近習三人の一人として家康と共に来訪。同年「大坂冬の陣」では家康の特命を受け、一人大坂城へ入城。家康没後の寛永十五年戌寅(1638)正月元旦、天草四郎蜂起の「島原の乱」にて幕府方総大将として出兵、討ち死にした武将である。
 重昌の父勝重は慶長六年(1601)~元和六年(1620)まで、また兄重宗はその後を引き継ぎ同年元和六年から承応三年(1654)までの半世紀、父子で京都所司代職を勤めた。
 重昌の妹は川村善治郎重久に嫁ぐが、夫の母は「秀忠の乳母は天下にこの女性しかいない」と家康自ら豊臣秀吉に懇願したと伝える大老局である。妹の息女(姪)の夫能勢頼之の妹は家康・秀忠・家光(大納言)の宿泊所であった「東金御殿」を拝領し、後春日局の没後の大奥第一人者となった近江局である。
 重昌の子重矩は老中職を寛文五年(1665)~寛文八年(1668)・寛文十年(1670)~延宝元年(1673)並びに京都所司代職を寛文八年から寛文十年まで勤め寛文十一年東金を拝領した幕府の重鎮である。
 尚、板倉家の家訓書『板倉政要』はテレビ映画で有名な『名奉行大岡越前』のモデルとされ、「舟は水があるから浮き、進むことが出来る」と藩主と領民を船と水に例え国替えの折は同行する領民の選考基準を地位や縁故、また金銭ではなく唯、親孝行とし、絶えず善政を施した一族であった。
 ・代々の葬地は三河国中嶋万燈山長圓寺  ・家紋 左巴

(『ホワイトレター』第3号より)



略系図