東金市/東金市デジタル歴史館

解説

第Ⅱ章 古文書の世界

江戸時代の史料

鷹狩りと東金御成街道(概要)

 東金御成街道は、船橋から東金御殿(現県立東金高校)までのコース(約37km)であるが、本市内に入ってからの具体的な道程については微妙な意見の違いをみる。そこで「元禄七年絵図」(1694年、台方区蔵。以下「元禄図a・b」と略す)と「宝永二年絵図」(1705年、石橋家蔵。以下「宝永図」と略す)をもとに、その市内ルートを想定してみよう。
 東金御殿が取り壊しとなった年は寛文十一年(1671)であり、両図ともほぼ20~30年後のものだが、それほど村・道などに大きな変化はないと考える。但し、「宝永図」に付した今の「滝台交差点」付近まで来ていた「御成街道」(「明治地図」の赤線参照)がメイン道路として画かれていない。おそらく、御殿廃絶の寛文十一年から30余年が過ぎ、しかも以前から経済・生活において重要な道であった「佐倉道」(現409国道)及び東金街道につながる(現)県道東金山田台線がメイン道路として画かれたと考える。このことは滝台までの御成道が鷹狩りのため、いかに突貫工事で造成され、生活に即していない道であったこと、その以外の領内道のほとんどが既存の生活道路を整備したこととは対照的な残り方であったといえよう。また「高足道祖神」から「台方交差点」までの道について、ここを通らなければならない歴史的背景とは何か、油井村・大豆谷村・台方村に関与することか、とくに油井村には元東金城主酒井家の家臣たちが居住していたということもその可能性と言えなくもないが、今後史料の検証が必要であろう。
 さて「宝永図」に戻し、御成道を探ってみよう。絵図左上の「滝台交差点」のやや南側に御成街道(「明治地図」参照)があり、これが今の国道409号線につながる。その先、高足(旧昆虫研究所寄り)で二股に分かれるが、よく見ると朱線の太さに違いがある。この両道に関しては、東京の満願寺所蔵の絵図(享保七年)に左側が「御成表道」、右側が「御成裏道」と標記されていることから、本道は左道(太い朱線)と考えられる。本図の緑色に塗られた台地上の主要道は両脇に松が植えられているが、それより降りた道は朱線のみとなっている。なお朱線(道)は、地形及び集落に沿って微妙な曲線で書かれており、明治及び現代の地図と比較するうえで重視せねばならない。
 これから台地上の道から平野部に降りていく「おあし坂」を通ってクランク状の道(現土手状に残る)へ進むと、その先に一里塚であろう「・|・印」が記されている。ここから「御殿」まで一里を測る。更に進み分岐点から「油井村」の村内道へ入り「待橋」に向かう。この橋は「元禄図a」に記載されており、名称については『東金市史総集編五』で確認できる。また「宝永図」の橋部の画き方は道線を「○」でつないでいることが拡大して解った。この画き方を基に「元禄図a」と比較すると、共に「待橋」の先で二股に分かれるが「宝永図」の太い朱線へ進むと直角に近い角には橋の存在を示す「○」が確認できる。この橋に関しては「元禄図a」に描かれた「福俵村地水分ヶ樋」(百樋)にかかる橋が該当すると判断する。なお、この百樋は寛永十八年(1641)に造成されたことから(『同市史』)、慶長19年(1614)の「御成街道」造成時には存しなかった。
 いずれにせよ、現国道を長辺とする三角形のこの箇所は、「宝永図」と「明治地図」で見て取れるように朱線が東金町から「台方交差点」を通って直線に延びていること、この台方交差点から「百樋」に架かる橋までの道は当時、主要道路の一部(田中村・法光寺・大網方面)であった可能性が高いこと、これらを考慮し「明治地図」に画いた赤線が「御成街道」であることを想定したい。なお、東金町内の御成道に関しては大半の見解に沿って、旧道をとおり「表御門」より入るコースと判断する(「元禄図b」)。
 
 本コラムでは東金領内の「御成街道」について、「元禄図」・「宝永図」・「明治地図」を比較し検証した。そのなかで絵図や地図の細部には作成者の意図が隠されているように感じたのであるが、それらを如何に読み解き、理解したのか自信はない。またコースのみの検証であり、「御成街道」の歴史的背景については敢えて触れなかった。多くの見解を待ちたい。
(青木)
 

元禄図a


元禄図b


宝永二年


明治地図(※)

※2つの地図をもとに作成した東金領内の「御成街道」。
東金市と八街市の境にある滝地区から今の千葉県立東金高校(東金御殿)までの「御成街道」を江戸時代絵図も参考に新たに想定した。
なお、この図は『正式二万分の一地形図集成【東日本】東金(p78)』(柏書房)と『明治15年迅速図』(国土地理院)を使用し、作成を行った。