東金市/東金市デジタル歴史館

解説

第Ⅱ章 古文書の世界

江戸時代の史料

鷹狩りと東金御成街道(概要)

(1)鷹狩りの概要
 鷹狩りは、徳川家の初代将軍家康から三代将軍家光の寛永年間中ごろまで遠方&長期滞在であったが、財政的事情等からこれ以降、江戸周辺・日帰りコースとなり、それに伴ない御殿や御茶屋の必要性がなくなった。鷹場は五代将軍綱吉時代の生類憐みの令の影響で元禄期までに姿を消すが、八代将軍吉宗の時に(将軍在職1716年~1745年)復活した。また吉宗は鹿・猪狩りにも熱心であった。
 
 <鷹役人の職制>
 鷹狩りに関わる幕府役人は、鷹を飼い馴らす鷹匠(たかじょう)(頭は旗本の身分)、鷹の餌を集める餌差(えさし)、猟犬を飼育する犬牽(いぬひき)、鷹場を管理する鳥見(とりみ)、獲物となる鳥類を餌付けする綱差(つなさし)、鷹狩り関係の通達を村々に触れた鷹野方(たかのかた)、鷹狩り全体を総括するために若年寄(当初は老中)が務めた御場御用掛(おんばごようがかり)などがあり、約600人(五代綱吉期まで)が関わっていた。
 <鷹狩りの獲物>
 将軍が捕らえた鶴は御拳之鶴(おこぶしのつる)、白鳥であれば御拳之白鳥と呼ばれ、その獲物を総称して御鷹之鳥(おたかのとり)と呼んだ。将軍は毎年天皇にこの鶴を献上し、天皇はこれを鶴包丁(つるのほうちょう)という儀式で料理し、公家らに振る舞う。また将軍及び大名も家臣に御鷹之鳥の料理を振る舞った。
 
(2)鷹場と村々のくらし
 江戸時代の鷹場は、幕府鷹場(将軍が鷹狩りを行う場所と大名に鷹狩りのために貸した場所)と藩鷹場(大名が領内に設置している場所)に大別。これらは一旦廃止されたが、八代吉宗によって復活。幕府鷹場は御拳場(おこぶしば)、御鷹捉飼場(おたかとりかいば)、恩賜鷹場(おんしたかば)、御借場(おかしば)と区分された。
 ○御拳場―将軍が鷹狩りをする場所。江戸周辺五里四方に位置。幕府役人の鳥見の支配。
 ○御鷹捉飼場―鷹匠が鷹の訓練をする場所。幕府役人の鷹匠頭の支配に属すが、実際は各地域の有力農民から選ばれた「野廻(のまわ)り」が取り締まる。
 ○恩賜鷹場―将軍が御三家・大名に与えた鷹場。鷹場役人が支配。
 ○御借場―将軍が御三卿(田安・一橋・清水の三家)に与えた鷹場。御拳場内にあり、幕府の鳥見が支配。
 
 <村々のくらし―東金>
 東金は、家康の時代から幕府鷹場に指定され、鳥見の支配を受ける。元禄期に一旦鷹狩りは禁止されるが、吉宗の時代に御鷹捉飼場として再指定され、野廻りによって支配。野廻りは苗字帯刀が許され、数10ヶ村~100ヶ村の鷹場村々を支配。ちなみにこの時代は将軍が訪れることはなく、鷹匠頭が将軍の代参として訪れた。
 村々は鷹匠が宿泊する宿、荷物を運ぶ人足、獲物(上げ鳥)を運ぶのに必要な物資の提供、上げ鳥を村人が江戸城まで運ぶ(幕末時は約5千羽余り必要)など大きな負担であった。
 さらに鷹場村々の厳守事項として、鷹場法度が触れられ、道・橋の普請、稲刈り後の田の水落とし、鷹狩り時の案山子の取り払い、鉄砲打ち・殺生人の監視と報告、鳥の飼育と殺生の禁止、9月~3月までの川魚の殺生禁止、鷹匠の旅宿・人足・塩等の提供が命じられた。
 

享保六年(1721)の「発砲禁止」の高札(台方 橋本家所蔵)

  定
 在々にて若鉄砲
 打候もの有之候ハゝ
 申出遍し并御留場
 之内にて鳥を取申
 もの捕候歟見出し
 候ハゝ早々申出し
 急度御褒美可
 被下置者也
   享保六年二月日
※東金御成街道が一部描かれている絵図として、当「東金市デジタル歴史館」に掲載している『宝永二年裁許図』(石橋家蔵)と『享保七年小間子牧実測図』(世田谷区 満願寺蔵)がある。いずれも「(Ⅲ)「絵」・地図の世界」に掲載しており、ぜひ“見学”願いたい。

御成街道―関東と房総の御殿及び御茶屋―(梁瀬裕一「千葉におけるもう一つの御殿跡―千葉御殿と千葉御茶屋御殿―」『千葉いまむかしNo18』(2005年)より)

●史料から見た徳川家と東金の関連(主要)
○天正18年(1590)8月
   「鷹場」の指定~東金・九十九里地方(134ヶ村)。因みに御巣鷹山を全国に70ヶ所設置。
○慶長18年(1613)12月6日
   家康、中原御殿(平塚市)に到着。「明年正月上総東金辺、狩したまふべきよし」(史料『徳川実紀』)
○慶長18年(1613)12月12日
   佐倉城主 土井利勝が中原御殿へ。家康より、東金辺鷹狩りを内示。
   利勝、御成街道(船橋―東金)・御成新道(田間―成東小松)の造成と御殿(千葉と東金)の造成を当時の東金代官 島田伊栢に指示。(道普請村数97ヶ村、距離約37km)
    ※嶋田治兵衛伊栢
       三河国矢矧生まれ(1545年~1637年93歳)。家康の御使番。1591年(天正19)~1614年(慶長19)東金代官期間23年。その間に八鶴湖・雄蛇ヶ池を造成。晩年は坂戸へ(現埼玉県)へ移る。 菩提寺 永源寺
○慶長19年(1614)1月7日 (主に史料『徳川実記』より)
    7日 大御所下総国の「とけとうがね」へ御出(土気経由か)
    9日 東金へ渡る
    10日 東金にて狩りを行う
    13日 吉田佐倉邊へ狩りに行く(今の八街及び酒々井方面)
    16日 東金を出発。千葉に至る(土気経由か東金街道を使用か)
    17日 千葉より葛西に至り、狩りを行う
    18日 江戸へ御帰(大久保相模守を処罰、里見氏を伯耆の国へ藩替えを裁断)
     ※この来訪時は、未だ東金御成街道が完成されていなかった可能性があろう。
 
★慶長19年11月 大坂の陣(冬の陣)
★元和元年4月 大坂の陣(夏の陣)
 
○元和元年(1615)11月16日~11月25日
    (15日―越谷を御出、葛西経由)
    16日 大御所下総国千葉着、将軍秀忠舟橋へ
    17日 大御所東金着、将軍秀忠佐倉へ
    23日 将軍、江戸へ還る
    25日 大御所東金御出、舟橋着(千葉を経由せず。御成街道を使用か)
    27日 大御所江戸に還る
 
将軍・大御所の東金鷹狩り 一覧表
年号西暦将軍or大御所徳川実記當代記駿府記鷹狩り御成り期間
慶長151610秀忠将軍上総10月23日
 同191614家康大御所○1/8~17
元和 元1615○11/16~25
 同 31617秀忠将軍11/
 同 4161810/29~11/12
 同 5161911/21~25
 同 61620家光大納言9月16日
秀忠将軍12/1~11
 同 71621大御所11/28~12/3
 同 9162310月13日
寛永 2162512月6日
 同 4162711/22~12/3
 同 7163011/18~12/3

※家康 天文11年(1542)~元和2年(1616) 享年75歳
 秀忠 天正7年(1579)~寛永9年(1632) 享年54歳
 家光 慶長9年(1604)~慶安4年(1651) 享年48歳
 
○「東金御成」の以後
 
・寛永13年(1636)~東金御殿改修・家光の東金鷹狩り中止
・ 同19年(1642)~11月、鷹匠頭 戸田久助が家光の名代として東金を訪れる
・正保 2年(1645)~佐倉藩主 堀田正盛により東金御殿修理
・寛文11年(1671)~東金御殿取り払い(一部、現大網白里市小西の正法寺へ移築)
    板倉重矩(しげのり):京都所司代、老中職を務める。福島藩主。
               大奥の近江局他界1年後、寛文11年(1671)東金を賜る(福島藩主板倉家の所領)。これ以後、板倉家が東金代官。同年、東金・田間・二俣(又)の3000石は明治まで板倉家の知行地。
 
<参考>
 幕府の直轄地(東金)
   ①1590年(天正18)~1641年(寛永18) 52年間
                            →62年間(5人の代官)
   ②1661年(寛文元)~1670年(寛文10年) 10年間
     ※①と②間、1642年~1660年(万治3)の19年期間だけ、佐倉藩領(堀田家)
 
【家康公来訪の謎】
 家康公の来訪について、興味ある“謎”を著した飯高和夫氏の論考を下記に掲載したいと思う。なお、この文章は『文芸誌ホワイトレター 第6号』(2008年)に執筆されている。
 
「お鷹狩りの謎解きと日経・日善上人」 飯高和夫 著
 徳川家康公に関する史料を紐解くと「放(ほう)鷹(よう)」の二文字が散見する。家康公は殊の外鷹狩りを好んだというが、このことからもそれは伺われる。
 同じく家康公にまつわる史料『駿府記』にも、慶長十八年(1613)十二月十三日の条には次の様な一文がある。
 「蒼鷹数多在之故 来正月上総国土気・東金可有御鷹野之内・・・・・」
事実、慶長一九年(1614)一月九日に家康公は東金に来訪している。
 しかし、ここに興味がそそられることが一つある。それは、家康公の鷹狩りを記す多くの書物は「放鷹」と記しているにもかかわらず、東金でのそれは何故「蒼鷹」と記したのかということである。しかも「蒼鷹数多在之故」とはどんな意味なのだろうか。そのまま受け取れば、蒼、つまり青い鷹がたくさん存在するので、といった意味合いとなる。獲物である朱鷺が多く居ると言うのであれば合点が行くが、鷹が多いとはいかなる意味であろう。どうも納得しがたい。ふと「蒼鷹」という語には、何か秘められた意味があるのではないかと思い至った。そこで文献を開き、調べてみることにした。
 その結果思わぬ事を知ることとなった。実は「蒼鷹」とは隠語で僧侶の意味があるという。では前述の文中の「蒼鷹」に「僧侶」の語を当てはめてみよう。
 「僧侶数多在之故 来正月上総国土気・東金可有御鷹野之内・・・・・」ということになる。僧侶ならば数多存しても可笑しくはない。実際当時の東金周辺には数多くの寺があり、中には家康公を敵視する僧侶もあったりした。そんなことから家康公が、あるいは家康の家臣団が寺社の情勢を探る目的で東金に来訪したと考えれば、隠語を使って記した理由も納得できる。
 では東金には、一体どんな宗教事情があったのだろう。隠語を使ってまで探らねばならなかったその事情を今少し見てみよう。
 家康公の御代から遡ること約百年。戦国の世の幕開けの頃、上総の国東金や土気付近は、酒井清伝こと酒井定隆が、京都妙満寺心了院日泰との約定により、支配下の地の寺を法華宗に改宗したといういきさつがある。その結果、同じ宗派の寺に大きな影響力を持つ法華集団が成立した。この集団が『七里法華』である。
 さて慶長の御代、この派の代表格に常楽院日経(1560年~1620年)がいた。日経は中野本城寺や土気善正寺(後、善勝寺と改める)の住職を歴任し、大網白里町に方墳寺を建立し、京都本山妙満寺の二七世であった。
 日経は豊臣秀頼に頼まれ、家康を調伏するとし本尊を駿河に送り(『近世日什門流概説―信行論と殉教史を中心に―』)家康を日本無双の大強盗、国主大理不尽の闇君と罵る(『日什と弟子達―顕本法華殉教史―』)そのため同書によれば家康公が信仰する浄土宗と法輪を戦わせることとなった。
 宗論の場となった江戸新城に臨席したのは徳川家康公を始めとして秀忠、忠輝、浅野長政、上杉景勝、蒲生秀行等の老中、また浄土宗の江戸増上寺を長として新知恩寺幡随意、鎌倉光明寺及悒、鵠巣勝願寺不残の賜紫長老等であった。日経の宗論相手として出席したのは浄土宗の英長寺廓山で、廓山は小田原大蓮寺了的を伴って臨んだ。しかし前日日経は暴漢に襲われるという事件(慶長法難)に会い、重傷を押しての参加であった。そのため宗論では一言も発言できず、家康からは厳しい怒りを受けることとなり、京へ護送された。やがて日経は慶長一四年(1609)、京都六条河原で弟子五人と共に耳鼻削ぎの刑に処せられ妙満寺から追放された。
 日経の後、本山二八世に就任したのが東金西福寺(後、最福寺と改められる)七世の蓮成院日善(?~1617)であった。
 蓮成院日善は慶長一九年(1614)一月九日、突如東金に来訪した家康公に拝謁を許された。現在東金八鶴湖畔にある古刹最福寺の境内には、家康公と日善上人が共に座して八鶴湖を眺望する構図のブロンズ像が建立されているが、これは現最福寺住職がこの歴史的事実を記念し、千葉大教育学部教授の上野氏に依頼して制作したものである。
 同一九年九月二〇日、日善上人は家康公より駿府城に召された。文献によるとそれは雨が強く降り続く中での登城であった。日善上人が家康公に拝謁した日は、大坂冬の陣の前夜で、想像するに、京都・大坂方面や上総七里法華の関係寺院、及びその檀家等の動向について問うたのではあるまいか。これに対し上人がどう答えたのであろうか。
 翌日は小春日和。駿府城を辞して日善が何処に向かったかは記されていない。ことによると京都妙満寺ではなかったろうか。
 
 以上が、飯高氏の「謎解き」の見解である。実際、大御所が最初に東金に来訪した年が天下分け目の戦である大坂の陣の前であり、この重要な戦いを控えて実施する東金の「鷹狩り」の意図は何か。しかも、上記の「慶長宗論」(慶長十三年)と慶長十八年(1613)十二月十三日の条(『駿府記』)を考慮すると、単純な「鷹狩り」でないことは容易に推測できよう。元和元年の来訪は、大坂の陣の報告等が主な目的であったのではなかろうか。
 大御所は1週間ほどの滞在ではあったが、久々にゆっくりした時間を過ごしたことであろう。

東金市の最福寺にある「家康公と日善上人」のモニュメント