東金市/東金市デジタル歴史館

解説

第Ⅱ章 古文書の世界

江戸時代の史料

 この配置図をみると、各部屋には名称が記されているが、大御所の主殿間が明記されていない。恐らく場所を特定することは襲撃等の“ことの大事”を考えたことかと思われる。だが、明記されていない中央の部屋2ヶ所が該当すること一目瞭然である。玄関に近い方はいわゆる「接見之間」で、より北側の部屋が主殿間と考えられる。
 ここで注目したいのが、南端の「表御門」から御殿に入るまでの通路である。「大御番所」が「山」を挟んで内と外に設置され、「山」と「山」間の通路の画き方が不自然なクランク状に書かれている。恐らく山を穿って造った隧道(トンネル)ではないかと推測される。それを裏付ける史料として下記の写真を掲載した。これは明治時代に今の県立東金高校の前身である東金高等女学校を建設するにあたり、今の(旧)NTT東金社屋の裏山を削っているものだが、その右下部には逆U字型の大きな開口部が確認できる(学校側から望む)。これが位置的にみて、「表御門」に通じる隧道と思われる。明治時代の写真であるため、防空壕ではない。貴重な写真である。
 また御殿の西側(左)の山添に「御樹木畠」が画かれている。これについては想像を膨らませると、家康の来訪時に「三州白輪村」(三河地方)から取り寄せた「お手植の蜜柑」の可能性が考えられようか。
 ところで、この図の右上にある「御賄所」はかなり面積をとっているが、この箇所には寛文11年(1671)御殿の取り払い以後に、代官所が置かれた。この配置図は、元禄四年(1691)に作成されたものである。取り払い後20年が経ち、すでに代官所が建てられていたことを考えると、板倉甲斐守様御内 高藤十太夫に差出したこの「御殿配置図」は原本をもとに画いたか(原本があれば画く必要はないはずだが)、それとも記憶をもとに画いたか、いずれにしても推測の域を出ないが史料の重要性は高い。

東金御殿の「御表門」が隧道(トンネル)であったことがわかる貴重な写真。