東金市/東金市デジタル歴史館

解説

第Ⅱ章 古文書の世界

江戸時代の史料

 本稿の「近世」の時間的範囲については、江戸時代から明治時代の始まりまでとする。
 さて、この時代の東金は下記に示したように天領時代(幕府領)と藩領時代を繰り返しており、当然東金には領地を直接支配した藩がない。当時の東金歴史を語る上で、幕府・徳川家が強く関与していたことは周知の通りであり、その代表的なものが「東金御成街道・鷹狩り」といえよう。
 これは、慶長18年(1613)12月に徳川家康が佐倉城主 土井利勝へ東金辺鷹狩りを命じたことから始まる。そして利勝は東金御殿と御成街道の建設を当時の東金代官 嶋田治兵衛伊栢(いはく)に指示しており、この嶋田は下記の表で示すように、尤長い23年間の代官を務め、その間に八鶴湖や雄蛇ヶ池などを造った名代官である。
 徳川家による東金の鷹狩りは、慶長十九年(1614)の家康から寛永七年(1630)の秀忠まで実施され、鷹狩りそのものは五代将軍の綱吉によって廃止された。その後、八代将軍の吉宗により復活するが、東金への将軍来訪はなく、鷹匠が将軍の名代として来訪するようになった。
時代区分期間代官または領主名年数
天領時代(慶長七年までは徳川領)天正十八年(1590)~天正十九年(1591)清 彦三郎2年間
文禄元年(1592)~慶長十九年(1614)嶋田 治兵衛23年間
元和元年(1615)~元和九年(1623)高室 金兵衛9年間
寛永元年(1624)~寛永十八年(1641)野村 彦太夫(為勝・為重)18年間
藩領時代(佐倉藩)寛永十九年(1642)~万治三年(1660)堀田加賀守
堀田上野介
19年間
天領時代寛文元年(1661)~寛文七年(1667)細田 小兵衛7年間
寛文八年(1668)~寛文十年(1670)野村 彦太夫(為利)3年間
藩領時代(福島藩)寛文十一年(1671)~明治二年(1869)板倉氏代々(代官※を置く)199年間

※福島藩領時代の東金代官については『東金市史 通史篇上六巻』(1,474頁)に記載されている。
 最近の研究において、二代将軍秀忠以降、東金に大きな影響を及ぼした人物としては大奥の近江局(おうみのつぼね)が注目されている。近江は五代将軍綱吉の乳母として大奥に上がり、春日局の死後、家光・家綱・綱吉に仕え、大奥を仕切ったのである。この人物は、家光より東金御殿を拝領され、後に代官となる板倉家との関連を強め、御殿の取り崩しと一部小西の正法寺移築を板倉重矩(しげのり)に託して、寛文十年(1670)に没した。(生涯学習情報誌『ときめき』第75・76号の「歴史ばなし」参照)
 江戸時代、東金は福島藩板倉家(代官)の支配や旗本の知行地などになり、また幕府鷹場にも指定され、村々の負担は相当なものであった。さらにこの地域は厳しい干害・水害が起こるため、農作物および生活に大きな支障を来たしていた。それを物語る史料は、次章(Ⅲ)『「絵」・地図の世界』に掲載した「裁許図」(裁判の判決文)にみられる。しかしながら、この水問題の抜本的な解決は太平洋戦争後の両総用水事業まで俟たなければならないのである。
 
「豪商・唐金茂右衛門と『里美』の周辺」 飯高和夫 著
 『山武町史』に、「本円寺は東金市谷地区にある京都妙満寺派法華宗・鳳凰山本漸寺末寺であり・・・その小高い狭い境内右側には同型の高さ約三・五メートルの五輪塔八基が並び・・・右端の寛文三年(1663)十月四日が最も古く、順次年号は延宝(1673~1681)、元禄(1688~1704)、享保(1716~1736)、元文(1736~1741)、延享(1744~1748)と刻まれ・・・斯かる僻地にこのような五輪塔が存在することは驚異に値する。」とい記述があるが、去る一日、私は山武市森字府中にあるこの(現・日蓮宗)正覚山本円寺を再訪した。
 再訪の理由は、天保五年(1834)発行『日本持丸長者集』、同七年(1836)『日本長者分限帖』、弘化三年(1846)、嘉永二年(1849)、同四年(1851)『大日本持丸長者鑑』、文久四年(1864)『大日本諸商売分限者繁栄鑑』、明治十二年(1879)『大日本持丸長者鑑』』、そして同十五年(1882)『皇国持丸長者鑑』まで豪商・唐金茂右衛門として名前の残る唐金茂右衛門三代目を継承した水野栄陳の妻となった『里美』の生家・石橋家の菩提寺であるからである。
 高台にある本円寺の急坂を上がり本堂右側を見ると、空に突き刺すように列立する装飾宝篋印塔群は、東京都池上本門寺内、狩野深幽墓石近くに発見した能勢家(大奥・近江局)石塔群に劣らぬ程の大きさであり、中央後部の長足五輪塔は本円寺の歴史を遡るには充分である。
 石橋家系図(家紋・鳥居)によれば先祖は、『太平記』巻第一六、延元元年(1336)「赤松円心白旗城を構える事」の条・備前には田井・飽浦・内藤・頓宮・松田・福林寺の者ども、石橋左衛門佐(すけ)を大将として・・・とある足利家氏の曽孫・石橋和義を祖とする子孫であるという。となれば石塔群の刻字年号と、菩提寺宗派の関係から、恐らく石橋家は上総土気酒井清伝により領内悉く法華宗に改宗した長享二年(1488)【七里法華】と称された時期に京都妙満寺派法華宗信徒となり、戦国争乱時代後半にはこの地に土着、館を構え、勢力を蓄えたのであろう。しかし江戸時代に入ると森地区は大名旗本の知行地となり数度も領主が入れ替わり、そのため、その折々の石橋家一族は先祖から伝え聞く名家の誇りと土地を守るため力を注ぎ、ある時は無体な命令を強いられ苦悩した時期も多くあったのではと想像する。
 特に、信仰する法華宗に於いて、「寛文法難」と称される寛文五年(1665)京都妙満寺三八世・精進院日英上人(本漸寺九世・宮谷檀林十一世)が幕府布施帰伏の手形を拒否(勝劣・一致派同一)したため、罪科に処され遠国日向へ流され、十一年後の延宝四年(1676)同配所において入滅されたという訃報は、上人(東金新宿・北村家・産)を慕う石橋家や多くの信徒には大きな衝撃と悲しみを与える事件であった。
 法華宗・宗祖日蓮上人・聖誕五一〇年・祖滅四五〇年となる享保一六年(1731)には、本円寺十一世・信解院日達上人御題目奏上の中、同境内に報恩塔建立。延享二年(1745)閏十二月朔日、同三年正月十八日、大坂の浄瑠璃作家 桜井頼母・並木和助により創作『唐金茂衛門東鬘』が発表される(この創作の外観は唐金茂右衛門ではなく唐金茂衛門となっている)。そして、二年後の延享五年(1748)石橋家に里美が誕生する。
 石橋家の屋敷は、本円寺とは狭い谷津田を挟んだ位置にあるため、幼い里美は朝夕本堂で団扇太鼓を打ち鳴らし、声高らかに唱える南無妙法蓮華経の御題目を郷唄のように諳(そらん)じ、又、東金酒造地区の、(妙満寺三一世・本漸寺七世)養徳院日乗上人(市東刑部左衛門・一子)ゆかりの布留川家と円蔵寺は屋敷反対側の小高い丘を少し上がり、下れば目の前である。成長した里美は年に数度かあったであろう本漸寺や他の末寺の慶事、法事等の折などに、父や母と共にこの山路を行き来したに違いない。
 東金・上宿(かみじゅく)の水野家は、本円寺の本寺・鳳凰山本漸寺の熱誠な檀家であり、里美の夫となる栄陳は水野家二代当主・父栄震三二歳の折、四人兄弟の三男として延享三年(1746)に誕生する。しかし、同家は初代・祖父栄篤の死をはさみ、栄陳の兄である長男と次男が延享元年(1744)六月二九日・同二年七月二七日続いて他界。そのため、栄陳の誕生は、後継者を待ち望む同家にとって希望の光であり、三代目当主を産まれながらに約束された男子であった。
 身分制度のある時代、栄陳(二一歳)と里美(十八歳)が、いつ何処で出会ったかは不明であるが、画家が互いに認める熱誠な京都妙満寺派法華宗檀家であったという法縁が二人を結びつけたと想像する。
 里美は、東金市上宿に屋敷を構えていた水野家菩提寺・本漸寺に安置されている「天保三年(1832)壬辰七月・本漸寺二四世・歓持院日輝・花押」、とある位牌によれば、栄陳との間に長男栄智・次男栄敦・三男栄因の男子を授かるが、安永六年(1777)彼岸の九月二五日・二九歳の若さで他界。戒名は「九遠院妙秀」と称した。
 そこで本漸寺坪井御住職に御了解をいただき同寺の過去帖を調査してみたが、残念ながら里美の戒名を発見する事は出来なかった。
 その理由は何であろうか。想像するに、体調をくずした里美は静養のため久しぶりに生家に戻り、穏やかな日々を過ごしていたが容態が急変し、他界する。そのため本寺・末寺の関係から水野家理解のもと、石橋家菩提寺である本円寺側で里美を手厚く弔ったためであろうと考えられる。
 華やかな婚礼衣装に身を包み、栄陳に嫁いでから十一年、幼いわが子三人と睦まじく語りあっていた幸せの絶頂期の事であった。
 過去帖を細見すると里美は結婚後、すぐ身ごもり長男栄智を出産。その栄智は寛政五年(1793)里美と同じ命日である九月二五日・ニ七歳で他界。夫・栄陳は文化元年(1804)三月二三日、里美没後三〇年後の五九歳。栄篤の弟・三男栄因は父の後を追うように同二年他界している。
 水野家四代目当主は里美の遺児・次男栄敦が父の残した材木商を継承。商才を発揮した栄篤は、各地を巡り歩き、特に、良質な桐材を取り扱った事により業績を上げ、桐材木商人として世に知れわたったのである。
 そんな多忙な栄敦であったが、天保三年(1832)七月、幼い頃、優しく微笑みかけてくれた思い出だけの母・里美五五回忌菩提のため里美の名を残す「水野家位牌」を作成し、菩提寺・本漸寺で一族の供養を行うが、長年の想いを遂げた安堵のためもあったのであろうか、この年の暮十二月六日俄かに他界する。
 しかし、栄敦の後、五代目を継承した当主名は不明だが、天保七年(1836)【日本長者分限帖】「此度御改・板元江戸日本はし・栄安堂」に「上総唐金茂右エ門・高壱万五千石・桐林弐里四方有・此度御改なし」とある唐金茂右エ門は栄敦が残した業績の証であった。

(ホワイトレター第7号 平成21年)


 
 東金の近世史に関する史料は、数多く存在する。それを全て本デジタル歴史館に掲載することはできないが、郷土史を丹念に研究している飯高和夫氏の論考は東金の近世地域史をより豊かなものにするうえで重要な研究成果といえよう。飯高氏の論考は、ここだけではなく本デジタル歴史館内の関連項目において随時掲載しており、歴史の妙を充分に味わってもらいたい。