東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第八篇 民俗と風習

A 東金の民俗風習

(八) 生活習慣

 若水汲みは、正月三が日間行なわれ、新しい手桶をおろして使った。お飾りをつけた。
 雑煮は、鰹節のだしで、しょう油味とした。まれに味噌仕立の家もあった。大根と里芋を入れた。餅は焼くよりも、湯に入れて柔かにしたものを使った。
 かける海苔は、浅草海苔でなく、「はば」と称するものを使うのが、当地方のならわしであった。この他に、暮のうちから用意される正月料理の中で、「かいそう」と称する寒天状の食品がある。正月三が日の若水汲みや、雑煮料理は、この時ばかりは男性の手によって行なわれた。(正月女に盆男)
 年頭には、砂糖、烏賊(いか)、半紙、手拭などがきまりの品とされた。
    


 毎月一日、一五日には餅をついた。他には正月と一七日もついた。
 節分には、めかご(籾おとし)を吊し、ごまめ、柊(ひいらぎ)、ぐみを配した。
 古くなった雛人形は、お宮へ餅を供えて納めた。
 女のおこもりといって、幸田区では、正月と九月(現在は一〇月)に紅白のお供えと二重箱に果物、餅菓子を持参して、お宮へ参籠した。
 子安講も「よみや」のおこもりから始まり、女衆は参籠した。
 題目講では、赤子を抱いた像を描いた掛軸を軽く拝んでいた。四、五回で早く止めれば、お産が軽いという言い伝えがあった。
 不成就日(フジョウニチ)という日が、九日目ごとにあって、この日には、物事が成就しないとされた。
 熱病や疫病が流行することがあると、悪魔払いといって、「羯鼓(かっこ)さま」が出てあばれた。
 幸田区では、旧暦九月一日の集会において執行をきめた。一〇月に五晩の稽古をした。
 一八日午後お寺(八幡さま)で準備をし、一九日には、村中を練り歩いた。
 昔は大人が教えて、一二、三歳の子どもがやった。
 八幡さま-熊野神社(囃子、辻切りはやらない)-水神さま(笛に舞う)-広瀬村境-個人宅、下幸田-向かい-お寺(昼食)-あらしき-新田-帰る(お寺)-舞い納め。(一杯やる)。翌日花納め(どぶろく)衣裳は以前染物屋さんであった人の提供による。
 二月、どうろく神さまの祭りよりも早い日に、弁天さまの祭りを行なう。
 道ろく神さまと弁天さまは夫婦だとされたが、弁天さまが、どうろく神さまをびっこの醜男(しこお)として嫌って、田の中(池の中)へ去ってしまった。ところが、どうろく神さまは、弁天さまが今に来るだろうと、道ばたにずっと待っていたという。
    


 農村で成人男子として認められるには、それ相当の労働が可能となった場合である。
 例えば、「かべった」、田の畔塗り作業で、万能一丁で一反歩から一反五畝をこなせることや、米俵(一八貫)を鉄砲型にかつぎ上げ、馬に二俵つけ荷役一駄としたら一人前といわれた。
 炭俵は背負梯子で四俵かつぐ(ふつうは三俵)ことができる。松薪なら四把(三二本で一把)を、片方に天秤棒で担えた。片貝まで持って行って、魚と交換してきた(やっさかご)。
 田植え作業では、ねえかつぎかご(苗)を天秤棒(てんびんぼう)でかつぎ、一二ぼっちを一度に運んだ。
 鎮守の境内には、力石という石があり、これを青年たちは持ち上げて、力自慢をした。
 ときには、隣村の力持ちに持ち出されて、取り返すのに苦労した話が残っている。
 村内の交際も種々あった。水利のための「テビ」ざらいや、道普請には、必ず各戸一名出て行なう。
 不参加の場合は、酒一升届ける習わしもあった。共有地としてのたね池(籾ひやし)。井戸やしき(共有井戸)、つくりば(馬の爪切り)の維持管理などと、年間通しての共同作業であった。
 これ以外にも「ユイ」があったりして仕事はいくらでもあった。
    


 農村、都市部を問わず、今次大戦後まで、各地に種々の職人が存在した。
 村には鍛冶屋があり、農具の製作、修理、販売をしていた。豊富な木材、竹材を駆使して、種々の用具を作り出す桶屋・籠屋・瓦屋・紺屋・表具・提灯・傘・馬具・石工(いしく)・木挽・井戸掘り・鋳掛(いかけ)・目立・箕作(みづく)り等の多くの工人が存在していた。
 また、建築関係に限ってみれば、大工をはじめとして、鳶(とび)・左官・建具・指物(さしもの)・屋根屋・畳屋などの職人集団が一体となって活動した。
 仕立屋が着物を縫いあげる業をするためには、呉服屋の存在があった。
 娘たちが和裁の技術を覚えるのは当然とされた時代には、裁縫所が各地にあった。年頃の娘たちにとっては、厳しい技術修得の中にも、仲間との交流もあって、社会勉強の場として、意義のあるものであった。
    


 民間療法は、古来からの健康保持のための生活の知恵として考えられてきた。
 人間が自療力を失ったときは、薬餌(やくじ)・湯治・鍼灸(しんきゅう)療法などに頼ることになる。
 民間療法のためには、動物の生き血、黒焼き、肝臓から、植物の草根木皮、種子などが使用された。
 薬草となる野草は、適時に採取されて、蔭干しにして保存される。主として煎汁として利用された。
 家庭療法で手に負えない場合は、施療者療法(按摩、鍼(はり)、灸)や医療に頼った。
 この他には、祈祷や、呪占に求めたこともあった。各寺社には絵馬が奉納されている。
 農家にとっては、家畜の傷病も重大事であり、種々の手当法が案出された。