東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第八篇 民俗と風習

A 東金の民俗風習

(一) 年中行事

 全国的にみて千葉県と茨城県に多く残っている行事で、本市全域で行なわれている。例年一月三日より二月一五日までの間に行なわれ、一月二〇日(二〇日正月)が最も多い。稲作を主体としてきたわが国では、豊作を願う行事が多いのは当然だが、予祝行事や豊凶を占う行事などさまざまなものの中で、オビシャ行事も御的行事に代表される神事である。
 オビシャはブシャの転化とされ、「奉射」・「備射」・「毘沙」などの漢字を当て「歩射」とも書く。「うまゆみ・まゆみ」の騎射に対する、足を地に着けて行なう弓射をいう。
 これは古くから農耕民の間に行なわれていた破魔(はま)と年占、予祝の神事で、男子を射手とし、福運を得ようとし、さらに新しい年の稲作の豊凶を占うものとして、農民の五穀豊穣を願う予祝の意味が込められている。
 
 イ、御的、謡曲、酒宴(山口・山田)
 ロ、御的、酒宴(上、下田中・小野・福俵・蛇島)
 ハ、謡曲、酒宴(一之袋・堀上・関内・松之郷・中峠)
 ニ、酒宴だけ、イ、ロ以外の市内全域
 
 現在では謡曲の絶えた所として、砂押・松之郷上場・田間宮下・台方大作・上谷・依古島・北之幸谷・下武射田区がある。
 御的行事は、弓で的を射ることにより、当年の農作物の豊凶を占い、矢の当たり具合により、早生・中生・晩生の作付けまで占ったようである。
 御的神事では、前日当番の人たちが、木や竹で弓矢を作り、的を用意する。
 謡曲は高砂、鶴亀、羽衣などからの抜すいを、三節、五節、七節ぐらいうたうようである。
 この他に夏ビシャ(六月一三日)があり、「ところてんビシャ」といい、吸物の代りにところてんが膳に供される。
 女ビシャ(二月八日)も、女性により入地ごとに当番制で行なわれている。子安大明神の幡(はた)を立てて行なわれる。
 ビシャのためのビシャメンという共同田を有している地区もあり、ここでは下肥も使用せず、女性による田植え作業や水田への立ち入りを禁じていたという。四、五戸が当番で耕作し、古老が管理した。大体三俵の収穫を得て、ビシャの費用とした。当番交替の「当(頭)送り」には、ムコウドンノオオマラダと皆で唱えて歩いた。(田中)
 堀上区では、当送りの途上で、半数の人が「やよやさー」。と唱えるとあとの半数が「あらさのえー」。と唱え返しながら歩いたという。
 幸田区では、宮ごとに全区で行なう。昔はそれぞれ「宮田」を持っていた。水神社には七畝あった。
 オビシャの前日に、宮なぎ(宮掃除)をし、当日は三百円会費で宮へ集まる。当番は宿持ちといって、折詰、刺身、胡麻づけ(樽)精進揚げと大鍋に豆腐汁(葱(ねぎ)を一斗笊(ざる)に八分目ほど入れる)を一人二杯の割で用意する。水神社では葱を入れた豚汁であった。
 座席順は一定していない。神官により、受け渡しが行なわれる。「手打ち」と称する。この時「はいづ」というお札入れを当番は頂く。これは木箱で、神官が新しいお札を上へ入れてくれる。会が進み、一汁三菜のごちそうが残り少なくなる頃、お開きとなる。
 正月と九月(後には一〇月)に「女のお籠(こも)り」があり、紅白のお供えと、二重箱に果物と餅菓子とを入れて会に備える。
 夏ビシャ、ビシャは夏期の六月一三日にも行なわれている地区がある。「ところてんびしゃ」ともいわれ、吸物のかわりにところてんを膳に供し、村中、家順に行なわれた。
 ビシャには初ビシャ・男ビシャ・夏ビシャがあり、女ビシャが二月八日に、入地ごとに当番制で行なわれた。
 次に、本市内で行なわれているビシャの例を一、二示しておこう。
 
 (1) 貴船神社の御的神事(一月四日)
 古代から「水分神」(みくまり)として、奈良の丹生川上社、京都の貴船社は、雨や水に関する祭神を祀っている。また、龍神信仰から海での生業にも信仰が及んで、農水産業に携わる人々の尊崇を受けている。
 この京都市左京区鞍馬貴船町の本社から、西行法師が勧請分霊したとされている。慶安四年(一六五一)に祭礼に関する取り決めが定められた。当時の山田区は戸数四四戸といわれ、一月四日を祭日としてきたが、古くは妙観寺の僧侶により、一月三日に執行されたが、いつの頃からか、紐解っ児が奉仕するようになってから一月四日となった。

貴船神社(山田)

 当日までの準備として、神酒六斗を醸し、五升の鏡餅をついた。
 弓は一張、梓(ウシゴロシといい、臭いの強い木)で七尺五寸三分、弦は麻四八匁。矢は月の数の一二本(閏(うるう)年は一三本)を篠竹三尺三寸、矢羽根は白紙に墨書し、別に三尺五寸の神の矢(白矢)を一本作った。的は青竹を割り、六角目に編み、直径三尺三寸に白紙を貼って作り脚をつけた。的の中心点と、外周円、上下に三本足の烏(ヤタガラス)を墨書する。支柱の青竹二本は高さ八尺とする。当番は上当、下当からなり、祭事費を負担した。(補助もあった)
 大正末年までは、当番区の若衆が酒樽を担いで神社へ参向したといわれ、杜氏(とうじ)も参加していた。
 神酒は当番二軒で造り、一二月九日に上当方で「口あけ」と称して、酒のできばえを祭事関係者で味見(あじみ)した。
 翌一〇日には、下当方で同様のことを行なった。一月二日に上下当双方で餅米をひやし、三日午前中に鏡餅を二升、二升、一升に搗いた。昔は三升、一升に搗いたという。弓、矢、的などを作る時は、下当が酒一升を持参して上当方へ赴いて、共同作業を行なった。隣家の人たちも手伝った。祭事当日まで当番は厳重な物忌みをして奉仕に心がけた。
 当日は午前一〇時、社殿内の定めの席に氏子が着座して、神前祭が執行される。
 神饌は白米、鏡餅、神酒、水と塩、するめとごまめ、人参と蕪(かぶ)、みかんなどで、以前には鴨、鶏、鯉なども献じたといわれている。
 オビシャは修祓(しゅばつ)、献饌(けんせん)、祝詞(のりと)奉上、玉串奉呈、撤饌(てっせん)と行なわれる。
 膳部は若衆によって配られる。串柿と大根なますに酒盃だけで、別に所々に昆布巻、生あげ、切いか、塩ごまめの入った重箱を置く。古来より七献(こん)で結盃(けっぱい)とされ、三献目で御的神事、五献目でオトワタシ、六献目に的子の受渡し、七献目に謡曲を斉唱して終わる。
 御的神事は社前で行なわれる。的は方位あきの方に立てられる。
 弓座は的より六から一〇メートルぐらい離れ、神社を背にした位置に、敷藁と茣蓙(ござ)とで設けられる。的子は氏子中の両親健全な嫡男で、紐解をすました一五歳までの男子。もし二名以上いる場合には、誕生順とし、候補者のいない年は、前年の的子がつとめた。昔は紋服であった。
 区長が一本ずつ矢を渡し、取上爺が介添えし、的子が弓射した。(実際には的子は手を添える程度で取上爺が代行した。)
 一番矢は神の矢で、天に向かって射放し、二本目から的に向かって射た。射られた矢は、氏子や講中(九十九里町真亀納屋の漁師)が争って奪い合い、家へ持ち帰って神棚や漁船に供えた。
 射終ると一同拍手し、弦は四分され、各区に分けられた。残る一本は分割され、総代と講中とで分け、その年の護符とされた。因みに真亀納屋の漁師は(不動堂、四天木の一部を含む)、豊漁、海難、厄除、止風、航海の安全などを祈るため、講を作り、長年信仰してきている。
 的引きといって、明治のはじめ頃までは、ヤスリなどでひそかに弦を切り、奪い合ったそうである。その際の負傷は直ちに治癒したといわれている。
 弓と的は真亀講中がもらい、弓は講世話人宅の高所に保存された。
 オトワタシは、当番四名が神前に対座し、献酬を当番五献、来番七献と繰り返えした。その後に区長が神前に供えられた形式(藁製の四〇センチ位の太目の縄でなった丸い頭部を白紙で巻き、紅白の水引きをかけた。神を象(かたど)ったとされる)を、箸ではさんで来当の襟首に一体ずつさしてやる。サシとかサッシという。
 的子および取上爺が神前に対座し、的子は三献、来年の的子は五献(取上爺が代行)をし、受渡しを行なう。
 来当二名は当送りをして帰宅する。形式を一年間神棚に奉献する。
 かつては三五歳未満の若衆が、区内の当番、的子宅を廻って祝い言を述べ、飲食の饗応を受けるのを「メッタマシ」といったが、これは「目出度申し」の訛言だとされている。
 謡曲は観世流の発声で素謡(すうたい)で行なわれる。「高砂」からの抜すいで三節謡うが、全員端座し、区長が音頭をとり、各節ごとにはじめの一句を独吟し以下一同が斉唱する。
 
〓四海波静かにて 国も治まる時つ風
 枝を鳴らさぬ御代なれや あひに相生(あいおい)の 松こそ めでたかりけれ
 げにや仰ぎても ことのおろかや
 かかる代に 住める民とて ゆたかなる 君の恵みぞありがたき
 君の恵みぞ ありがたき
 
〓ところは高砂の 尾上の松も年ふりて
 老の波も寄り来るや 木の下蔭の落葉
 かくなるまで 命ながらへて
 なほいつまでか生(おい)の松
 それも久しき名所かな
 それも久しき名所かな
 
〓さす腕には悪魔を払ひ おさむる手には 寿福を抱き 千秋楽には民を撫で 万歳楽には命を延ぶ 相生の松風
 颯々(さつさつ)の声ぞたのしむ 颯々の声ぞたのしむ ざざんざ 浜松の音は ざざんざ
 
 参考資料
 
① 「上総国誌」より
 山田村鎮座ノ貴船神社ハ祭神葺不合尊(ふきあえずのみこと)、玉依比売命(たまよりひめのみこと)、豊玉媛命(とよたまひめのみこと)ニシテ祀ル所ノ年紀詳ナラズトイヘドモ、父老伝フ 西行法師京師木船神主ヲ得来ツテ此ノ地ニ祀ルト。又村中ニ墨染桜有リ。此レ亦法師ノ徒(うつし)ス所ト云フ。本社ノ例祭ハ正月祭式ノ礼有リ。村人之ヲ奉射ト謂(い)ヒ弓一張ヲ作リ悉ク村人ヲ会シ之ヲ神殿ニ射ル。射ヲハツテ其ノ弦ヲ投ジ相争ツテ之レヲ寸断シ、以テ一歳護身ノ符ト為スト。或ヒハ誤ツテ其ノ指ヲ傷ツクル者有リ。然レドモ患ヲ為スニ至ラズト云フ。亦一奇事ナリ。(「房総叢書・第四輯」三六四-三六五頁、原漢文)
 
② 天保一四年正月四日の村方文書
  鎮守御当番ノ節入用ノ諸品心得
一、御神酒六斗作
一、金三分口明買物
一、口明ノ節玉子鳥類一切不
一、蕎麦八斗、小麦壱俵
一、杵弐十五本切置
一、柄弐尺五寸位
一、弓七尺五寸(七尺三寸五分)
一、弦苧四十八匁
一、神ノ矢壱本三尺五寸
        十二本三尺三寸
一、的張二人 弐十一文包壱ケ、酒一升寺ヘ持参ノ事(以下略)
 
 (2) 山口区のオビシャ(一月二六日)
 前日当番宅で御的神事の準備をする。
 弓二張は榊と竹製、弦は麻を縄にない、長さ六尺、矢は七本(内一本白矢)、篠竹と半紙製、長さ四尺以内。的は竹を割り、四角に編み、紙張り墨書し、「千鶴、万亀」と外縁に書き、竹の支柱に立てる。
 当日は早朝より全員そろって御嶽神社(養安寺地区)に参拝し、神殿へ昇り、弓・矢・的を神前に供え、神職の修祓、祝詞奏上、続いて神酒を一同頂き、御的神事となる。
 神殿を降りて境内で背に山を負った所(神社の側面)に的を立てる。高さ六尺ぐらい、これを五、六間の所から射る。
 先ず神職が白矢を空に向けて射る。ついで第二矢を的に向けて射る。以下役向順に適宜射る。的にささった矢は、抜いてまた射ることにより全員が射ることになる。的中すれば大豊作だとして、全員が喜び合った。終われば弓矢は希望者が頂いて帰る。軒下に捧げておくか、神棚へ供えておく。当番宅では同時に玉串を頂いて帰る。午前一〇時頃終了。
 午後四時頃、全員和服で当番宅へ集り、謡曲、酒宴となる。当番と来当は紋服である。膳部の献立表を巻紙に記載して、欄間に貼り出し、料理から給仕に至るまで全部男性だけで奉仕し、女性は全く手伝わない。
 ここで、役割り分担をきめる。まず、当番と来当は主役として大関になり、さらに関脇・小結各一名に前頭三名を加えて相撲番付のように当て、当番側と来当側に分けてそれぞれの名前を書き連ねて掲示する。来当側の大関が正座で、関脇・小結・前頭、来当側客の順に列座し、当番側も同様に大関を中央にして、下座に着席する。
 膳部は高足膳に、黒漆塗椀、酒は銚子に整えられ、島台が出されると、客側がこれを賞でて、「庭の真砂」を謡う。
 二回目は五献目に客側の来当が口中肴にと当番側に所望し、当番側で「高砂」を謡う。三、四回目は双方の三段(大関・関脇・小結)の取組み中に謡われる。(鞍馬天狗)五、六回目は、前頭各三名ずつの取組み中に謡われる。七回目は全員七献を飲み終えてから、「千秋楽」を全員で斉唱して終了となる。
 謡曲は音頭が一句謡い始めてから、全員がこれに唱和する。「鶴亀」の時は、来当の大関が音頭となり、三回目、四回目には、それぞれ当番および来当側の大関が音頭で三人ずつ合唱する。五回目、六回目までは一般参会者は謡わない。結盃のときは「高砂」より「千秋楽」を謡うが、この時の音頭は来頭の大関である。(曲目も二回目は「鶴亀」の庭の砂、最後は「天狗」の中から抜すいして、何を謡ってもよい。
 終ると裸になり跣(はだし)で翌年の当番の家へ送って行く。この時は夜中になるので、道中藁を燃やし、(これは松明の代りと思われる)うたいはやしながら送って行く。