東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第五篇 産業

五 林業

 本市においては旧源村を中心として、山武杉とよばれる良質の杉材が全国的に有名である。これは両総台地といわれる高さ約五〇メートル前後の洪積台地に植林され、大部分は杉であり、その他、桧・松・椚(くぬぎ)・楢(なら)などが植生している。
 古代から中世までの植林の状況について、「民間造林の中より」①には、旧睦岡村(山武町)の埴谷の山王大権現について、大同年間(八〇六-八〇九)頃から言い伝えのある鎮守様であるとした上で、この山王様へ植林することが大切であると昔から伝えられていることが述べられている。また、同村の妙宣寺については、「このうち妙宣寺という寺は、所謂埴谷大掾氏なる埴谷景正が応永年間(一三九四-一四二八)に建立し……」そして「この寺の門前の杉二本が今日では一番古木である(中略)此寺創立の後に植えたのであろう。」と述べられており、この植林が約六〇〇年ぐらい前から行なわれたことが書かれてある。
 次に近世の植林は江戸時代の山武の森林について、「本邦代表的優良林業」②によれば「本地域は徳川初年以来、軍馬育成の為の放牧を為しつつありし佐倉牧場に接し、各部落の附近には古来、地味地形の関係上、杉樹比較的多く……」とあり、また「当地方における林相の変遷を考ふるに、此の地は一般に風衝(あた)り強く、且つ土地乾燥せるを以て、林地の大部分は松、又は天然生の椚(くぬぎ)、楢(なら)その他の雑木繁茂し、杉は僅(わずか)に部落付近の地、若しくは北向又は北東面の山腹又は凹地にのみ植栽せられたるも、その管理甚だ疎放(そほう)的にして、放馬の蹂躙(じゅうりん)に委(い)せしが如し。」というふうであった。こうした自然条件のため、植付けにも工夫をし、乾燥や風害から杉苗を守るため、まず植える前に、松を植えておいて仕立てた後に杉苗を植えるという方法をとっている。また、この苗はさし木による方法がとられ、通称山武杉とは一般的にはこのさし木によるカンノウ杉をさしている。この用途については、当時は特に九十九里浜における地曳網漁業とのかかわりで、漁船や網などを入れる納屋などに使われた③。また、この杉材を地元において加工し、雨戸や障子などの建具を作り江戸へ出荷した。これらは上総戸とよばれたいへん有名であった。また杉の他には、松なども燃料用の薪として利用されたり、椚(くぬぎ)や楢(なら)を冬季の農閑期を利用して製炭し、江戸へ運ばれた。このようにして次第に発展していった。
 近代になると、明治維新の混乱の中で、この林業もまた例外ではなく、所有者が代わったりして、今まで保護されてきた森林が急速に伐採された時期であった。「東金誌」によれば、明治二年に板倉氏より県に引き渡された東金御殿が、明治八年に一般へ払下げとなり、全く変容してしまった様子が次のように書かれている。「東金御殿地ハ慶長年間徳川将軍家御成リノ旧跡ナリ。維新以後、官林払下ゲノ規則ニヨリ右御殿地ハ千葉県士族柳元信ナルモノヘ払下ゲ相成リ、五百年来ノ良木残ラズ伐採ニナル。御成リ御門陣屋跡破却売物ニナル。旧領主板倉侯ヨリ、在来ノ山林凡ソ六拾町歩ノ地所、還禄士族ヘ払下ゲニナル。実ニ世上一変ノ時ナルベシ。」④このようにして今まで大切に保護されていた山林が、無計画にいとも簡単に伐採されてしまっている。これは、ほんの一例にすぎないが、こんな状況は一般的であったのである。しかし、こうした中でも、明治四三年には源村が内務大臣の選奨による模範村となり、「模範村に欠くべからざる御骨折で見事に植ゑつけられてある……。」というふうにたいへん讃えられ、当時の村長であった並木和三郎を中心に造林に尽力した様子がうかがえる。
 「山武郡郷土誌」によれば源村においては、「用材四千四百七十二尺〆、木炭一萬四千貫にして(中略)米麦作と杉桧松の植林とは本村の重要資源にして……」⑤とあり、いかに林業がこの村において重要な位置を占めていたかわかる。また、公平村については、材木二千八百尺〆、薪炭材千六百棚を生産しており、明治から大正において木材の需要が増加するにつれて、この地域の林業も盛んになっていった⑥。
 しかしながら、当時としては豊富であった林産資源も、大正八・九年の木材界の好況及びそれに続く関東大震災の復興による需要の増大にともない、大量に老齢林を中心にして伐採が進んだ。そして当時すでに「現在立木は、二、三〇年生程度のもの最も多し。」とあるように、この時期以後漸減傾向をたどり、さらに戦時中の強制伐採などにより面積は最盛期に比べてだいぶ減少している。
 
 ① 蕨真一郎著「民間造林の中より」(大正九年一月)
 ② 帝国森林会編「本邦代表的優良林業第二輯」(大正一三年)
 ③ 千葉県農林部林務課編「山武林業」(昭和五四年八月)
 ④ 杉谷直道著「東金誌」
 ⑤ 山武郡教育会編「山武郡郷土誌」三一七頁
 ⑥ 同、三〇四頁
 
  参考資料
 
 ○植木産業
  (一) 東金植木の時代
                     鈴木勝
 千葉県の植木は九十九里地帯を中心にして発達してきた。現在、県産額は二八億円、植付面積千五百町歩と公表されている。そのうち、東金地域は七億四千万円、三七〇町歩という。幸田から北幸谷(きたごうや)・上谷(うわや)へかけての植木村の景観は絶対的のものであるし、東金園の盆栽とか植木センターの圃場は誰しも緑を満喫するに充分である。
 東金の植木が槇(まき)を中心として発展してきていることは誰でも知っている。その発祥は遠く慶長時代、徳川家康の鷹狩地として発足している。当時の庭園は武家・富豪などの上層階級のものであったが、明治から昭和へと進むに従って、庶民階級のものとなってきた。特に北之幸谷市東吉松氏によって、新しい槇作りの技術が開発されてからは、立派な造園芸術として今日の全盛の基礎が築かれ、立派な庭師が輩出した。
 まつやという呼称がいつから出来たか私は知らない。まつやという名の下に庭師が総称されたことから想像すると、庭園には挙(こぞ)って松が植えられた。松の手入れは技術的にも労力的にも複雑しているので、当然貴族趣味になっていく。そこへいくと、槇の方は割合に簡単なので、庶民生活に早く採り入れられていった。垣根や防風林の中から適当な原木をとり入れて、早く庭木として育てていった。それが今日の造り槇の起因であろうと思われる。
 槇は全国各地にあるけれども、特に九十九里地帯が全国一の産地となったのは、その気候と風土の賜(たまもの)であろう。温暖さと砂壌土の沃土(よくど)にその見事な造形美を完成させた先人の努力の跡に我々は心から感謝の誠を捧げたい。
 造り槇は、京浜・阪神どこへ行っても、その美観を誇っている。しかし、それらの美しい姿は悉くが県産品と見て間違いない。県植木の移出高の八割は造り槇だという時代もあったが、今日の多種大量生産時代になって、原木の乏しくなった槇専門型は維持できなくなっている。東金の各所の植え溜にある美しい槇の姿も底をついたという感がないでもない。
 歴史ある植木の東金を今後どう指向して行ったらよいか。これは、東金の問題でもあり、また、千葉県農政の問題点でもある。植木の需要は年毎に増加して、生産が間に合わないということも事実である。先般、東京農大の松田教授は、首都圏だけでも、昭和六〇年までに一億五千万本は下るまいと試算した。公園の増設・高速道路の建設・工場住宅団地の緑化等々、作れども作れども間に合わないということは確実である。千葉県の造園業者達は、工事が出ても樹が間に合わないので、危険で引受けられないとこぼしている。
 ただ考えられることは、県下にも新しい産地が続々と誕生して、現在では組合数三〇余を数え、その栽培面積も三千町歩に垂(なんな)んとする状況である。また、今日の緑化全盛時代からみて、松槇などの造形ものから、自然木中心の公共需要本位に移りつつあるようである。何万本という大量需要に応ぜられる生産形態が必要になってきている。古い伝統と洗練された技術を持つ東金植木生産にも新しい脱皮が迫られていたのではなかろうか。独善、独走の時代ではなくなっているということがひしと感ぜられるのである。
   (「東金文化・第二二号」(昭和四八年)所載 原題「植木と東金」)
 
  (二) 東金の植木産業
 
 (1) 東金の植木の歴史          佐藤尚
 東金の植木を代表するものに槇(まき)があります。槇は千葉県の木であると同時に、東金市の木としても、生産者側・消費者の側からも珍重されていることは、すでに周知のところであります。この槇を代表樹木とする東金の植木の歴史は、古く徳川時代から松や槇が九十九里特有の砂壌土と相俟(ま)って、防風林や垣根に使われていたようです。
 大正時代になってから、市内北之幸谷の市東吉松氏が槇の枝曲技術を開発し、その後、現在の「東金市植木村」の幸田・北幸谷・上谷(うわや)の農家により継承され、今日の美麗な造園木を育成する技術が完成したと言われています。その意味では、東金の植木の発祥地は、明治の昔から山林・苗木の生産地であった市内幸田・北幸谷を中心に、生産技術・造形技術に磨きがかけられ、ツゲ・キャラなどを加え拡大されながら、東金市を一円とした、各種の植木が栽培され、販売されるようになって来たと言えるようです。
 今の東金に具備しているものは何か、不足しているものは何かと言うならば、次の五点にしぼられると考えます。第一、適地適産として、植木が土壌条件・気象条件に適応しているか。第二、緑花木の特質上、消費地に近く交通条件が漸次改善の方向にあるか。第三、市内更にその周辺を一単位として、必要とする良質な樹種が多量にあるか。第四、他に例のない伝統と技術と産地名声を堅持しているか。第五、集出荷販売体制が確立し、生産者の組織的な連携で、量・質共に応えられるか。以上の諸条件の中から、まだ充分と言えない第五の条件の条件整備が何にもまして急がれねばならないことが、最大の急務であることに気づかなければならないのです。
 
 (2) 緑花木販売施設の建設
 まず第一に、生産者の側からの要望、消費者の側からの期待、行政の側からも提唱されて、緑花木販売施設の建設となったものであります。市は市議会と相計りながら、市内緑花木生産者の多数が希望し渇望していた販売施設の建設を発意し、昭和四九年(一九七四)春頃より調査とその実施のための基礎固めに着手しました。ここで真剣に討議されたことは、この施設の発展を願って、如何に行政と農協と生産者が渾然(こんぜん)一体となるかと言うことでした。
 そこで、東金市・東金山武両農協に生産者団体代表を加えたセンター建設促進協議会を結成し、必要条件として二ヘクタール以上の面積であること、バイパス道路の接続地であること等の条件を満たした用地確保のための努力が続けられました。実に五か所に及ぶ候補地の五か所目に現在の東金バイパス、県道緑海線の交差位置に、用地面積約二〇、〇〇〇平方メートルを関係地主の協力を得て確保することが出来ました。東金市と両農協を出資団体とし、実施主体を社団法人東金市緑花木センターとして、新法人組織を設立し、更に、国・県の補助を得て花木販売施設設置事業に着手することになりました。
 この施設は言うまでもなく、「生産と消費の直結の場」であり、誰れもがいつでも、一本でも一鉢でもの販売に応じようとするものであり、センターが目ざす運営方針は、私どもの東金市を中心として、広域な生産地をバックに、「良質」「多種目」「安価」にを第一義として、広く内外の方々に愛され親しまれながら、需要に臨もうとするものであります。
 (千葉県園芸協会編「千葉の園芸」(昭和五一年四月一日発行、二七巻・一二号)