東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第三篇 教育

C 学校

(二) 高等学校・中等学校

△明治期
 県立東金高校の前身、東金高等女学校は、県立千葉高等女学校に次ぐ県下二番目の高女として明治四一年(一九〇八)に創設。その後八高女が設立されるがいずれも郡立又は私立である。山武郡には既に成東に県立中学校が設立、誘致争いもあった。
 第一回の選抜試験は本漸寺で行なわれ一〇〇名合格、その内訳は郡内出身者七八名(うち、東金町二三名)県内二一名、栃木県一名であった。その後仮校舎として現大多和医院付近の旧郡立東金染織学校の校舎を使用、二階五十畳敷位の老朽家屋で雨もりがし、校庭は六〇坪位で狭く苦労したようである。
 明治四三年(一九一〇)、家康ゆかりの東金御殿跡に新校舎が落成した。現在の東金高校の中にある茶室、作法室、正門はこの時のものをほぼ原型のまま残してある。
 なお同窓会記念館には、落成を記念して万朝報社から寄贈の孔子像も保管されている。
 明治四四年(一九一一)、二階建の寄宿舎が新築され、それまで遠方からの通学生は親戚知人等の家に下宿するよりほかなかったが、ここに至って非常な便を得るにいたった。最初の寄宿生は一一〇余名であった。
 初代校長小池民次は「従順」をもって教育方針とした。第二代川村良四郎校長は「質素倹約」を唱えた。
 これよりさき、明治四二年(一九〇九)には、三蓋松の校章が制定された。大正二年(一九一三)、袴の色を濃い海老茶色で二条の黒線を附けるようにきめられ、着物は木綿筒袖、頭髪は一、二年生が桃割れ、三、四年生は束髪と定められた。
 
△大正期
 大正期に入り教育も新しい方向へ動いていく。そして、創立以来の温雅な雰囲気が継承されてきた明治期の女らしさ、良妻賢母を唱える教育から大正期全体の「自由を学び個性を重んずる」教育に移っていった。
 大正三年(一九一四)第三代八巻嘉作校長が着任。「正心誠意」「自学自習」を理想とし、第五代森田要作校長も「自学自習」から「女子の自覚」を説く。
 大正四年(一九一五)校歌が制定される。
  八鶴が池辺春くれば
  花ほころびて朝日ににほふ(下略)
 大正一一年(一九二二)から洋服着用が許可され、大正一五年(一九二六)から木更津高女に次いで制服の一斉着用を実施する。
 さて、東金高女は県下の名門であったが、それについて、作家柏原兵三氏が昭和四五年(一九七〇)九月号「文学界」に発表した小説「駅」というのがあるが、これは氏の父君が成東(作中では「鳴戸」となっている)の駅長をしていた頃のことを扱ったもので、その中で「沼沢夫人」なる女性が次のように語っているところがある。
 「当時の県立東金高女はなかなかの難関で、鳴戸(成東)小学校からは毎年一六人以上受けて、現役で合格できるのは一人か二人(あとは高等小学校で一年か二年やった人たち)という具合でした。東金高女卒といえば、従って町では一流ということになります。」
 
 「沼沢夫人」にはモデルがあるようだから、右の話も信じられると思う。こういう状況は明治期からつづいていたことであろう。
 
△昭和前期
 昭和二年(一九二七)洋服が制服化され校章のバッジを胸につけることになる。時代的にも自由主義から全体主義へと教育もその影響を受けていった。
 昭和五年(一九三〇)第八代吉野誠治校長が着任。この年、御真影奉安殿が新築され、教育の様相も忠君愛国の風が濃くなって行き、国旗を玄関前に掲げること、朝礼の時は明治天皇の御製を奉唱することが励行され、礼法の徹底が実施されることになる。そして一月に一〇日間の寒稽古として運動場を無言で数回駈け走る訓練が勇ましく行なわれ、漸次戦時色を強めるようになっていった。
 昭和一二年(一九三七)第一〇代山下重輔校長が着任し「祖国に殉じ、清き真心で家に生くる日本女性、強く淑やかに」という校訓が制定され、一〇月には校旗を制定。また修行七則に東金高女魂・忠孝の道・敬神崇祖・感恩奉仕を説く。この年七月蘆溝橋事件とともに国民精神総動員運動が展開され、それに伴って教育の国家主義化はいよいよ拍車を加えることとなる。たまたま、ドイツ大使代理マイスナー博士夫妻が本校を視察し、薙刀・弓道・華道・茶道を参観したが、各新聞はこれを大きく報道したので、本校の名が世に喧伝された。
 戦争の急迫により物資不足、食糧不足に伴い昭和一六年(一九四一)旧正気村家徳の山林を借り「報国農場」と称し、開墾作業をはじめることとなり、甘藷等を栽培することとなり修学旅行も中止して増産活動にはげむようになった。同年一二月米英両国との戦争状態に突入。昭和一八年(一九四三)に学校長を隊長に「学校報国隊」が全校組織で編成される。昭和一九年(一九四四)八月、「女子挺身隊令」「学徒勤労令」が発せられ、九月四年生六七名は、藤沢の東京螺子製作所へ、また一二三名は横須賀の追浜海軍航空技術廠へ動員される。空いた教室は範部隊の兵舎として使用、かくして同二〇年(一九四五)八月終戦を迎えた。
 
△昭和後期
 平和と民主主義教育の建設を目ざして昭和二二年(一九四七)「教育基本法」の制定。昭和二三年(一九四八)新制高等学校発足、本校は千葉県立東金高等学校として新生することになる。そして、八月に片貝町立片貝女子農学校(昭和一〇年創立)が本校定時制片貝分校として併設、昭和二五年(一九五〇)高校再編成により東金商業高等学校を合併、翌年は定時制白里分校も設置、ここで本校は普通課程・商業課程・定時制課程・夜間課程の四課程が設置され、定員一五〇〇名、県下一の大総合学園となる。昭和二八年(一九五三)東金商業高校の再独立、片貝校舎の分離独立、白里校舎の分離等があり、昭和二四年(一九四九)には男女共学が実施されたが数年にして男子生徒は跡を絶って、再び女子高校となる。昭和四六年(一九七一)由緒ある高雅な木造校舎も腐朽の故をもって改築されることとなり、鉄筋コンクリート校舎が新しい麗容をもって聳立するようになった。
 昭和五八年(一九八三)本校は創立七五周年を迎えることとなり、再び男子生徒を入学せしめ男女共学の新体制を取ることになった。

県立東金高等学校