東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第二篇 宗教

B 東金市の寺院

(二) 寺院各説

大和地区

 この寺の由緒について、安川柳渓の「上総国誌」(巻之六)の福俵村の項には、左のごとく記されている。
 「仏刹有リ、長栄山本福寺ト号ス。法光寺ニ隷ス。永禄九年丙寅十二月、僧日行開基タリ。是レヨリ先キ真言宗タリ。」(原漢文)
僧日行によって永禄九年(一五六六)一二月に開基されたとあるが、「福俵村明細帳」(参考資料参照)には、「永禄三申(さる)ノカイキ(開基)」とある。これは地元の資料であるから、一そう確かなように思われるし、安川柳渓も福俵村の人だから、いいかげんなことは書かなかったであろう。しかし、永禄三年か、永禄九年か、いずれが正しいかは、きめがたいところである。
 本寺は、もとは真言宗であったという。しからば、その創始はいつだったかというと、これは不明ということになろう。永禄三年ないし九年は酒井定隆が改宗令を出した長享二年(一四八八)から七二ないし七八年後、日泰が死んだ永正三年(一五〇六)から六〇年後にあたる。本寺の開山日行は日泰の高弟といわれる。本寺がはじめ真言宗だったとすると、永禄三年ないし九年に改宗したことになるが、あまりに遅すぎる改宗となる。逆にいえば、酒井氏の制圧下で、改宗令が出てから七〇年以上も真言宗のままでいられたのが不思議になる。
 ところで、日行の伝記はほとんど分からないが、日泰の愛弟子で、法光寺(東金市田中、別項参照)に師と同居し、師の没後は法光寺二代目の住職となったといわれる。前に見たように、この師弟は六〇歳ほどの年のちがいがある。日泰の死去した永正三年に日行が二〇歳ぐらいだったと仮定すると、本福寺を開いたと考えられる二説のうち、永禄三年には七〇歳ぐらい、永禄九年には八〇歳ぐらいの高齢だったことになる。「福俵村明細帳」によると、日行は、「永禄九丙寅センケ(遷化)」とある。遷化は死去したということだから、彼はこの年八〇歳ぐらいで世を去ったらしく思われる。その衰老では一寺の創立はむずかしかろうと考えられるので、永禄三年七〇歳ごろのことと推量したくなる。安川柳渓は日行の死の年を開基の年と誤認したのかもしれない。日行は法光寺に根拠を据えながら福俵方面に布教し、信徒も増加してきたので、本寺が開基されるにいたったものと考えられる。ともかく、本寺は法光寺との関係が深く、法光寺が親寺と考えられている。
 本寺の寺宝として有名なのは釈迦如来の立像である。これについては、参考資料を見てもらいたいが、それによると、この像は「御長(た)け七尺壱寸」の「金色立像」で、正徳元年(一七一一)の建立であるという。本寺では、これを領主の井上筑後守(下総国香取郡高岡藩主、福俵村に飛地があった)から正徳四年(一七一四)一二月に拝領したのであった。拝領の際には、本寺の番僧二人が下総浜野(千葉市浜野)まで出迎えたといわれる。この立像は彫刻の技術もすぐれたものとされる(作者は不明)が、芸術的価値については諸論があるようである。
 参考資料によると、本寺ではこの立像を安置するために別殿の釈迦堂を建てて大切に祀ったのであった。(参考資料の(二)の書状はその釈迦堂を「軽く」造ったため、安永七年(一七七八、建造後六四年)には「大破」してしまったのでこれを修覆してもらいたいという願書である)この像が祀られてから、毎年四月八日の釈迦降誕祭には供養が行なわれ、遠近から信者が多数参集するのである。
 なお、本寺は慶安年間(一六四八-一六五一)幕府から寺領六石六斗の寄進を受けている。また、現在、顕本法華宗の単立寺院である。
 なお、本寺には日什・日泰の曼陀羅が寺宝として所蔵され、また、福俵出身の画家安川柳渓のえがいた釈迦出山の図、および日蓮の画像が保有されている。

明治20年代の本福寺絵図

 参考資料
 
  (一) 「福俵村明細帳」より
        田中村宝珠山法光寺末
        長栄山本福寺
 開山 日什上人
 開基 日行上人
     永禄九丙寅センケ(遷化)
  塔中(たっちゅう)九坊  永禄三申(さる)ノカイキ(開基)
  外一坊ハ蛇島新田ニ之レ有リ候
 本堂(八間四面、高サ二丈)
 庫裏(くり)(横五間、竪九間半、高サ一丈三尺)
 鐘楼堂(九尺四面、高サ一丈)
 釈迦堂(二間四面、高サ八尺)
 番神堂(竪二間半、横九尺、高サ八尺)
 門(高サ一丈三尺、横二間、竪二間四方)
    (「福俵村明細帳」(享和二年)、東金市史・史料篇一・一九一-一九二頁)
 
  (二) 恐れ乍ら書付を以て願ひ上げ奉り候事
一 御当家御先祖様御建立御信仰遊ばされ候金色立像の釈迦仏、但し、御長(た)ケ七尺壱寸、正徳四年(一七一四)午(うま)の十二月、当本福寺へ拝領し奉り候訳(わけ)は、別紙記録の通りニ御座候。依つて、其の後、寺旦評議の上、別殿の釈迦堂軽く建立安置仕り候事ニ御座候。然る処、数年来守護し奉り置き候事故、御台座蓮花等甚だ破廃致し候の間、取償ひの御衣替へ仕り度き儀と存じ奉り候間、御伺ひ上げ奉り候、且つ又、右軽き釈迦堂の儀も大破仕り候の間、修覆建立仕り度く存じ奉り候ニ付き、何卒右両用仕上ゲ御入用下し置かれ度く、願ひ上げ奉り候。御時節柄を顧みず、此の如くニ御願ひ候儀、恐れ入り奉り候へども、且つは、御先祖様よりの御事ニ付き、当御役中首尾能(よ)く御念願御祈祷ニも相成るべき儀と恐れ乍ら存じ奉り候間、御伺願ひ申上げ奉り候。以上。
   安永七年(一七七八)
    戍(いぬ)十一月
                  上総国山辺郡福俵村
                      本福寺
                     割元
                      五郎左衛門
                     寺旦惣代
                      豊七
   (井上筑後守)
   御領主様
       御役所
 
(別紙)
 立像釈迦仏御建立
  正徳元(一七一一)卯年より
  当安永七年戍年迄
    六拾八年ニ成
 同御仏拝領之年
  正徳四年午ノ十二月
  当安永七年迄
    六拾五年ニ成
 鹿渡宮御図(厨)子
  享保十九寅年出来
  安永七年迄
    四拾五年ニ成