東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(一一) 義人

    

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 東金市谷(やつ)の嶺根(れいこん)寺の境内に、殉難者峯与左衛門の墓がある。墓碑には碑文が刻まされている。(今は碑面の文字は磨滅していて判読不可能である。)碑文は次のごときものである。
 
 「勇侠与左衛門、知県事附属ノ命ヲ奉ジ、賊徒ヲ追捕ス。賊徒怒リテ其ノ妻ヲ縛(ばく)シ、駆迫(くはく)シテ去ル。与左衛門之レヲ意ト為サズ、命ヲ守リ益々、確乎トシテ縦横ニ賊ノ潜窟(せんくつ)ヲ捜索シ、大網村ヲ過(よぎ)リ、遂ニ賊ノ暗殺スル所トナル。嗚呼(ああ)、亦勇ナルカナ。知県事之レヲ聞キ、愍然(びんぜん)トシテ墓碑ヲ建テ、躬(みずか)ラ其ノ背面ヲ誌(しる)シ、以テ永ク其ノ勇ヲ表ハス。知県事トハ誰ゾ。房総ヲ管轄スル柴山文平ナリ。
    慶応四年(一八六八)戊辰秋八月  」(原漢文)
 
すなわち、これは当時の房総知県事柴山文平が、みずから記したものなのである。与左衛門は身分からいえば、目明し、岡引(おかっぴき)であるから、きわめて軽い者であったけれども、その勇侠の行動に知事も心打たれて、この碑を建てるにいたったものであろう。当時としては異例に属することだったかもしれない。右の文中の「賊徒」とは維新の戦いで官軍に敗れた幕府の脱走兵のことであって、与左衛門は新政府の捕亡方の命令で脱走兵の追捕にあたっていたが、逆襲されて妻が捕えられたにもかかわらず、屈せず探索にあたり、不幸にして敵のために斬殺されるにいたったのである。その死を知事が痛んで悼み悲しんでこの文を書いたのである。
 与左衛門は姓を峯といい、東金上宿町の人で、屋号を翁屋(おきなや)といった。現在、岩崎でお茶と釣道具を売っている同名の翁屋(当主・良一氏)はその子孫である。大正四年(一九一五)峯家から当局に提出した「履歴書」(参考資料参照)によると、彼の死んだ慶応四年(明治元年)には六〇歳であったと記されているので、逆算してみると、彼の生まれは文化三年(一九〇九)ということになる。
 与左衛門は旧幕時代には、東金組合村の大惣代の下で、いわゆる目明しをつとめていた。それについて、杉谷直道は
 
 「(与左衛門は)徳川時代関東御取締出役房総御掛り安原〓(とら)作・渡辺慎次郎・駒崎清五郎・木村信一郎・中川孫市諸氏の附属大惣代杉谷弥左衛門組(道案内役、里俗岡引役)を勤務す。生質実直にして、平素職務を勉強せり。」(「勇侠与左衛門の伝」)
 
当時は幕府の関東取締出役が地方の警察権を握っていて、各町村をいくつかにまとめて組合村を作らせ、町村の名主のうち実力のあるものを大惣代・小惣代に任じ、取締りにあたらせていた。東金地方のばあいは、東金町を中心として三三か村で組合を作っていたが、その大惣代が杉谷弥左衛門(直道の父直敬)で、その下で与左衛門は岡引をつとめていたのである。岡引を道案内というのは、関東取締出役が取締りに来た際、その道案内をするという意味であるが、仕事は犯人の探索と捕縛ということであり、治安の乱れた当時にあっては、権力につながる役だから、憎まれ役であったが、また人民から恐れられていた。だいたい、この役は博徒あがりとか前科のある者とかが勤めることが多かった。与左衛門は「生質実直」にしてとあるように、いわば、堅気であったと思われるので、真面目に「勉強」したから弥左衛門に気に入られたのであろうが、忠実なるが故に、かえって憎まれるところがあったようにも思われる。それが、結局彼を不幸ならしめたのであろう。
 文久四年(元治元年、一八六四)におこった有名な真忠組騒動の時も、彼は真忠組の動勢を探ったり、隊員の捕縛には相当働いたらしい。たとえば、同組の重要人物たる山内額太郎を捕えた時などかなり積極的に働いたことが伝えられているが、そういうことがおのずから敵を作ることにもなったようだ。
 維新になると、彼は知県事の配下たる捕亡組に所属し活動したのであるが、前は幕府方であったのが、今度は官軍方になったというので、恨みを買うことにもなったのである。慶応四年(一八六八)四月、幕府軍は官軍と戦って敗れ、脱走兵が房総へ流れて来て、船橋で官軍に討たれ、その一部たる幕臣富田右近のひきいる一隊が東金地方へ逃げこんできたのである。そこへ官軍の大将柳原侍従の部隊が追っかけて来て、脱走兵の探索と討滅にあたり、与左衛門らもこれに協力することになった。そのため、与左衛門は脱走兵から目の敵(かたき)にされ、ついに命を奪われるにいたるのである。
 
 「今年(慶応四年)片貝村ヨリ脱走十三人各々抜刀ヲ携ヘ、官軍ヲ打殺スト声高ニ呼バハリマシテ、東金町井上甚吉・峯与左衛門宅ヘ踏込ミ、女房ヲ捕ヘ台方村郷蔵(ごうぐら)ニテ斬首ニスルトテ引立テ行キマシタ。当町役人ヨリモ嘆願ヲナシマシタガ聞キ入レマセン。然ルニ、隊長ノ情ヲ以テ助命サレマシタ。」(杉谷直道「東金町来歴談」)
 
片貝に逃げていた脱走兵一三名が逆襲してきたのである。井上甚吉とは与左衛門と同じく東金町の目明しであったが、脱走兵がこの二人の家を襲ったのは、味方の兵がこの二人に捕えられたか殺されたかして、その復讐にきたのであろう。しかし、本人たちは家にいなかったので、代りに女房たち(二人の女房か、一人の女房か、はっきりしないが、与左衛門の女房とよが捕えられたことはたしかである)を捕えて台方村の郷蔵(村で建てた米の貯蔵庫)で首を斬ろうとしたが、町役人が懇願し、また、隊長が情をかけてくれて助命されたのである。
 
    

2


 さて、この後どうなったか。前引の「勇侠与左衛門の伝」には、こうある。
 
 「(与左衛門が)明治元年八月(慶応四年が明治元年と改元されたのは九月八日からであるから、ここは「慶応四年」とするのが正しい。)某日、降雨を冒(おか)して長南宿房総知県事役所へ参向の途中、大網村新堀青柳亭の前を通行するとき、此の家の雇人が、東金の親方(与左衛門のこと)何れへ御出で、と言語(コトバ)を掛けたり。此の時、奥の間に宿泊せし旅人は賊徒にして、此の声を聞きつけ、直ちに一刀を携へ、裏口より忍んで跡を追ひ掛け、田圃道にて後ろより雨除(よ)け傘の上より切り付けたるにより、与左衛門は其の不意を討たれ、遂に賊の為めに殺害せられ、賊は直ちに逃走せり。
 此の凶変の知らせあるや、東金町の人々大いに驚き、即時に多人数現場へ出張して、屍体の小屋掛けをなす。一方には、長南宿房総知県事役所へ届け出る。其の混雑一ト方ならず。知県事附属官辻勇枝派出せられ、御検視済みの上、屍体は家族へ引渡しになる。親戚一同悲歎愁傷して、菩提所東金町内大谷(やつ)の嶺根寺へ埋葬せり。」
 
女房拉致(らち)事件は七月のことだったが、その後も与左衛門は相手方からねらわれていたと思うが、八月のある日、長南(長生郡長南町)にあった知県事役所へ出向する途中、大網村新堀(大網白里町新堀)で「賊徒」に後をつけられ、雨の中で切り殺されてしまったのである。与左衛門もすでに六〇歳の老齢である。気力は壮(さか)んだとは言いながら、肉体の衰えはどうしようもなかったであろう。あわれである。この「賊徒」は前からのつながりから考えれば、脱走兵の一人だったと想像される。しかし、必ずしもそうとばかりは考えられないのではないか。与左衛門は旧幕時代から仕事の性質上恨みを受ける相手はいろいろあったようであるから、一概に脱走兵の仕業(しわざ)とのみは言えないように思う。
 それについて、前にも書いた真忠組騒動などの際に、与左衛門は幕府の手先として、その党類の探索・捕縛に大いに働いていた事実を考えてみる必要がある。大槻一郎氏は「真忠組や筑波天狗党の残党追及のため、与左衛門は寝食を忘れて岡引の使命に従事していた」(「山武郡郷土観光誌」)と言い、特に真忠組の大立物の一人山内額太郎の捕縛、それは、文久四年(一八六四)一月一八日のことだったが、「この時の殊勲者は岡引の与左衛門であった」(同)と大槻氏がのべているけれども、ともかく与左衛門は大いに活躍したのである。(くわしくは柴田武雄著「幕末維新世直し騒動の一性格」四六九-四七二頁を参照されたい)山内額太郎は東金薄島の男でやくざの親分であり、子分も多かった。親分を殺された子分たちに取って、幕府の犬与左衛門は、憎むべき敵だったにちがいない。だから、仕返しのチャンスをねらっていたことは十分考えられる。真忠組騒動の時から明治元年(一八六八)の脱走兵事件まで四年の歳月がたっているとはいえ、やくざの岡引に対する怨恨は消え去っていたとは思われない。しかし、もちろん必ず山内額太郎の残党の仕業だというわけではない。そういうケースもあり得るということである。何にせよ、与左衛門を殺したのが何者であるかが分からない以上、結論は出ないであろう。
 与左衛門の死は社会不安の時だったので、人心に少なからぬショックをおよぼしたようである。その時分、柴山文平知県事は下総・上総地方の田作状況視察に出かけ、常陸国まで巡行する予定だったが、与左衛門のことを旅先で聞き、東金の町役人を横芝町まで呼んで事情を聞くことにした。東金からは組頭の稗田勘左衛門と杉谷直道の二人が横芝へ出向したところ、知事から追悼文(碑文)と墓石建立料として金五両と今後毎年遺族扶助料として一人扶持を下賜する旨の証書(参考資料参照)を渡された。その時知事は、自分が常陸から帰ったら東金へ墓参に行くから、それまでに墓碑を建立しておけと命令したが、結局知事は政務多忙のため墓参には来られなかった。

勇侠峯与左衛門の墓(嶺根寺)

 柴山知事がこれだけ心にかけたのは、明治新政がなかなか成果をあらわしえない時のことであり、治安維持がもっとも望まれた事情もあるので、与左衛門のような職務に忠実な警官は特に必要とされていたからであろうと思われる。その後、県庁が千葉に移されてから、明治六年(一八七三)九月、千葉県庁から一時手当として金百五十円の下賜を受けているが、これも同様の事由によることであろう。
 ところで、与左衛門夫妻には子供が出来なかったらしい。そのため、明治七年(一八七四)三月、西川弥平次の二男が養子として入籍し与左衛門を襲名し、早野荘左衛門の二女千代と結婚している。与左衛門の妻とよがいつ亡くなったかは分からない。
 与左衛門は旧幕時代に東金大惣代の下で道案内人つまり岡引をつとめていた。大惣代は関東取締役の支配下にある。したがって、与左衛門は幕府の走狗であった。反幕の罪人を捕えるのが彼の仕事であった。ところが、世が一変して反幕側が明治新政府を立てると、手の裏をかえして、彼は新政府の走狗となった。これは操守のないことであり、裏切り行為ではないか、という批判は当然出てくるであろう。いわば、彼は変節漢であるというのである。だから、殺されても仕方がないという見かたもあろう。けれども、幕臣であった者が新政府に仕えた例はたくさんある。与左衛門が仕えた東金町の大惣代その他の役人たちも、幕府時代と変わらず新政府に奉仕しているのである。与左衛門といえども生きないわけには行かない。生活がかかっているのである。だから、変節漢として彼を責めるのは酷であろう。仕事をチャランポランにやっておけば、恨みを買うこともなかったであろう。正直一図な人間は不幸を背負うものかもしれない。ともかく、彼が勇侠者としてその名を残したのは、その人徳が然らしめたといってよかろうと思う。
 
  参考資料
 (一) 峯与左衛門履歴書
     千葉県山武郡東金町東金
                    故 峯与左衛門
                    明治元年旧六十歳
一旧幕時代関東御取締御出役之道案内役ヲ勤務ス。
一明治元年房総知県事柴山文平捕亡組之部下トナリ、御用向ヲ勤務ス。
一明治元年八月某日、長南宿知県事役所ヘ参向之途中、大網村地内ニ於テ、賊之為ニ殺害セラル。
一明治元年八月晦日、知県事役所ヨリ、遺妻ヘ一人扶持石碑料トシテ金五両ヲ下サル。
一明治六年九月二十三日、千葉県庁ヨリ一時手当トシテ、金百五十円下賜セラル。
 右之通ニ候也
   大正四年四月十八日
                    山武郡東金町東金
                         峯
 
(二) 扶持下賜状
       東金町
                        与左衛門
                          後家
 右のもの聟与左衛門、御用出役先におゐて、賊の為め殺害せらる。依つて、御不便に思召され、石碑代金五両、生活のため毎歳一人扶持下し置かれ候もの也
  房総
   知県事
辰八月 役所
               (以上、峯良一家所蔵)