東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(一一) 義人

    

1


 東金市字(あざ)黒田の大根畠入口といわれるところに、市東塚または刑部塚といわれるものがある。(現在は、角栄団地・木戸公園内にある。)これは市東刑部左衛門を葬った塚で、別名義人塚とも呼ばれ、昔から住民に敬重されている。この人は、酒井氏に仕えた武士であったが、徳川の世になるとともに帰農して名主を勤めていたが、ある事件のために自刃して果てたといわれる。「ある事件」がどういう事件だったかはっきりしないところがあるが、人民のために犠牲になったらしいので、「義人」の名で呼ばれ、今も慕われているのである。
 この人については、いろいろなことが言われ、真相はなかなかつかみにくい。そこで、彼に関する資料を挙げながら、考察を加えて行くことにしよう。といっても、刑部左衛門在世時の資料は全くなく、みな後世人の記述の類であるが、比較的古いものとして、東金市堀上の篠原家に残されている「篠原氏系書」(明治五年九月、当家一一代葵白(別項参照)の執筆)に刑部左衛門に関する記事が出ている。少し長くなるが、まずこれを引用してみよう。
 
 A「川場村市東佐左衛門先祖は、酒井清伝入道定隆に仕へ、市東筑後と云ふ。台方妙福寺境内西の方に住む。酒井落城後、川場村に帰農之れ在り。一族市東刑部左衛門、東金岩之谷(やつ)居住、出張御代官手代下役勤め之れ有るところ、何等の意(遺)恨之れ有り候や、正月元旦、名主ども年礼御酒下され候節、上座敷に於て、刑部左衛門重役と争論の上、殺害し、名主杉谷弥左衛門、刑部左衛門を抱き留めしところ、刀にて突かれ、其の夜引取り相果つ。刑部左衛門は直ちに菩提寺西福寺本堂に欠(駈)け入り、自害す。字(あざ)黒田大根畠入口市東塚、是れなり。
 右騒動に付き、市東一類御仕置などとの風聞に恐れ、伯父川場村市東孫右門事佐左衛門の先代、家財取り纒(まと)め、田畑入立諸帳面ども、善泰院道修(篠原家三代当主)に頼み置き川場村立退き、下総国印旛郡志村へ迯(に)げ去り、二十一ヶ年相立ち、村方に立戻り、(篠原家の)四代改名与五右衛門法名宗与の代、年来の賄ひ方取り調べ、佐左衛門方へ相渡せし由、天保の度、名主佐左衛門毎度物語之れ在り。」(「東金市史・史料篇一」二九八頁)
 
彼の出自や経歴のことは後まわしにして、事件にしぼると、ここには年代が書かれていないが、後述するように、この事件は慶長一〇年(一六〇五)におこったとされている。右の記述だと、正月元旦、代官が名主たちの年礼を受け祝宴が開かれた席でのことだという。当時の代官は嶋田伊伯(治兵衛)であった(別項参照)。刑部左衛門は代官の手代の下役を勤めていたとあるが、他の文献(杉谷直道「東金町来歴談」)では彼は慶長六年(一六〇一)から同一一年(一六〇六)まで東金の名主を勤めていたとあって(彼が慶長一〇年に死んだとすると、同一一年まで名主をつとめていたというのはおかしいことになるが)、ちょっとちがうが、名主と兼務であったかもしれない。さて、祝宴の席上、彼は「重役と争論の上、殺害し」たというのである。この「重役」は代官その人、すなわち嶋田伊伯でないことは、彼がその後も存命していることで分かる。それなら、代官所の重役ということか、または、江戸から出張してきた重役のことか。判断が出来ない。次に「争論の上」とあるが、どういうことで争論になったかが問題であるけれども、そのことが書いてない。刑部左衛門は重役だけでなく、留めに入った杉谷弥左衛門(新宿の名主)までも殺している。これは狂的である。酒の上の騒動という感じが強い。その後で、刑部左衛門は最福寺(当時は西福寺と称していた)の本堂で自害したという。この事件のため、川場村の市東本家は印旛郡のほうへ逃げて行き、二一年後に郷里へ帰って来たが、その間、篠原家の当主が家産の管理等についていろいろ世話をしたという。
 右の記述は、川場の市東本家と親しい関係にあった堀上の篠原家の伝承によるものだけに、かなりの信憑性があると思われる。しかし重役の武士を殺し、さらに罪もない同僚までも手に掛けたというのは異常である。問題は「争論」の内容であろう。単なる感情のもつれか、それとももっと複雑な事情から発したことなのか。刑部左衛門は酒井氏の遺臣である。新しい支配者徳川氏に対して、何か含むところがなかったとはいえない。また、かつては武士であったが、今は農民であり、代官手代の下役などという低位に甘んじていなければならない身分で、被支配者側の意識に立っている。農民の利害にからまることから激発したのかもしれない。だが、事の真因はつかめない。

市東刑部左衛門の墓
(東金市黒田・角栄団地木戸公団地)

 
    

2


 次の資料を見よう。第二は、明治三八年(一九〇五)一月に書かれた、杉谷直道の「東金見聞誌」の左の記述である。
 
B「此ノ黒田台ニ市東塚アリ。慶長年間、市東刑部左衛門ノ死体ヲ埋葬セシ塚ナリト云フ。此ノ市東氏ハ、東金城主酒井家ノ旧臣ニシテ、東金谷(やつ)町ニ居住シテ、東金ノ里長(名主のこと)セシ事アリシガ、如何ナル訳(わけ)カ、出張官吏ト議論ノ上、安国山(最福寺のこと)上ニ於テ切腹セリトノ申シ伝ヘアリ。其ノ事実ハ不分明ナリ。(中略)一説ニ、此ノ時、出張官吏ノ御止宿ハ東金新宿名主杉谷弥左衛門氏ノ宅ナリト申シ伝ヘアリ。」(「東金市史・史料篇一」四七頁)
 
これは、Aよりずっと短く、「出張官吏」と議論の上切腹したが、「如何ナル訳」か不明であるとする。「出張官吏」はAの「重役」にあたり、江戸から来た役人になると思うが、相手を殺したとはなく、ただ、本人が切腹したとあって、簡単にして不明瞭である。ただ、「出張官吏」が止宿したのは杉谷弥左衛門の家であるとしているのが、Aの記述にないところである。Aでは、杉谷が留め役に入って刑部左衛門に斬られたとあったが、ここにはそんなことは書かれていない。
 なお、同じく杉谷直道の記述した「東金町誌・草稿」には、
 
C「此ノ市東氏ハ、酒井ノ臣下ニテ、東金岩谷ニ居住シテ、里長セシ人ナリキ。其ノ身分ニ付キ、種々ノ伝説アルモ、事実判明セズ。(中略)因ミニ、鶴ヲ捕獲セリ、亦、炮(砲)発セシト云フ。派出官ト争論セリト云ヘリ。」(「東金市史・史料篇一」四八頁)
 
とあって、傍点の部分のごとき別説が書かれているのは注目にあたいする。徳川家康は天正一八年(一五九〇)関東入国以来、東金地方を御鷹場に指定して、鶴などの鳥類捕獲を禁止していたが、刑部左衛門は、その禁を犯して鶴を鉄炮で捕獲したというのである。これは禁令を知っていてやったことと考えられるが、ABに記されていない新説である。「派出官」はBの「出張官吏」と同義であろうか、すると、刑部左衛門は、鶴の捕獲と争論との二つの犯罪をしたという意味にも取れそうである。ともかく、彼が徳川新政権に対して反抗したということになりそうである。
 そこで、さらに第四の資料を見ることにしよう。それは、吉井宗元(別項参照)の「山武沿革考」の記述である。この書の著作年代は不明だが、宗元は明治四二年(一九〇九)に死去しているから、要するに明治末年頃の述作と見られる。記述は次のように、きわめて簡単なものである。
 
D「字(あざ)黒田ニ市藤(東)塚ト云フガ有ル。コレハ、慶長年間ニ減租ノ為メ、領主ト争ツテ自刃シタ市藤(東)刑部左衛門ノ墓ト伝ヘテ居ル。」(「東金市史・史料篇一」一〇頁)
 
簡単ではあるが、重要な部分がある。傍点のところだ。特に「減租ノ為メ」とあるのは、今まで「争論の上」とか「議論の上」とか抽象的にしか示されていなかったのに、ここにはじめて具体的な言葉が示されていることが重要である。つまり、刑部左衛門は年貢減徴のために上役と争ったというのである。これで事情がはっきりするし、彼が単に感情的な暴発をしたのではなく、農民サイドからレジスタンスしたことになるのである。ただ「領主」と争ったとあるが、領主といえば徳川家康になるが、家康と直接争ったということではあるまい。代官もしくは当路の役人と争ったということであろう。ともかく、この資料は「減租ノ為メ」ということを書いているところに、一歩ふみ出したフシが見えるけれども、それが如何なる根拠によっているかが窺われないのが困るところである。
 
    

3


 以上は、明治期の資料によって述べたのであるが、それ以後の資料を取り上げてみよう。大正五年(一九一六)五月、「山武郡郷土誌」が刊行されたが、刑部左衛門については特に触れておらず、彼の子の僧日乗の記事の中で「父刑部左衛門罪ありて自殺す」(二九五頁)と記しているに止まる。ところが、それから三年たった大正八年(一九一九)五月に発刊された「千葉県誌・巻下」によると、左のごとく記述されている。
 
E「東金城主酒井氏の臣なり。酒井氏亡びて後、東金に土着して里正となる。慶長十九年、検田の挙あり。税吏の所置頗る苛酷にして、人民之に困(くるし)み、哀訴すれども、聴かれず。検地倍々(ますます)厳なり。刑部憤慨し、遂に税吏を殺して自殺す。衆之を義として、為に塚を営む。」(六〇六頁)
 
これは、Dよりもう一歩前進した感じである。検田が行なわれて、役人の措置が過酷であったのでもっとゆるやかにしてくれるよう歎願したが聞かれなかったので、役人を殺して自分も自刃を遂げたというのである。ただ、年代が慶長一九年(一六一四)となっているが、この年に検地が行なわれた事実は確認できないので、(慶長一五年には山辺郡大豆谷郷で、同一七年には同郡山口郷で検地が行なわれている)そのままには受け取れない。この記述もどの程度確実性のあるものか分からないが、検地にからんだ事件としているのは注目すべきである。
 さらに、昭和二年(一九二七)四月、志賀吾郷が著わした「東金町誌」では、左のように、かなりくわしい記述になっている。
 
F「酒井氏の臣に市東刑部左衛門胤晃(たねあき)なるものあり。酒井家亡ぶるに及び、東金に土着して里正となる。会(たまたま)、慶長十乙巳年旱害餓饉民に生色なし。此の時に際(あた)り、幕府より検田使来り、其の処置苛酷、刑部は里正として此の惨状見るに忍びず、其の事情を悉(つ)くして哀訴し、向ふ二ヶ年貢米の延納を請ふと同時に御下げ米を乞ふ。吏聴かず、却って貢米の二割を加増して納むべしとて、里正を面罵侮辱打つ蹴る。刑部大いに怒り、一刀の下に吏を斃(たお)し、自ら御米倉に駈け附け、扉を破り其の在米を大衆に与へ、自らは其の菩提寺たる西福寺の門前に於て自刃す。歳三十一。衆之を義とし、後年塚を造る。今尚ほ存す。世に之を義人市東塚と称す。」(七七-七八頁)
 
事件の記述が非常に詳細になっている。まず、年代がEの慶長一九年より九年前の慶長一〇年(一六〇五)のこととし、その年飢饉であったとする。そして、その年検田があり、検田使の処置が過酷であったとしている。これは、Eの記述と同じである。刑部左衛門は検田使に対して寛大な措置を願い、年貢の二か年延期と御下ゲ米を懇願した。ここは、Dの減租を受けていることになる。しかるに、検田使は聞き入れず、かえって年貢の二割増を課して、その上侮辱を加えたので、怒った刑部左衛門は検田使を殺して御米倉を開いて人民に施米をし、自殺してしまったという。これまでの資料ではっきりしなかったことが、ここへ来てはっきりしてきたという感じがある。刑部左衛門の年齢まで示されているのも今までにない具体感をあたえる。
 志賀吾郷は右の記述に関して、資料を示しているわけではない。しかし、これだけ詳しく書いている以上、根拠があってのことと思いたい。といっても、全面的に肯定してかかるのもどうかと考えられる。まず、慶長一〇年に飢饉があったということだが、前年の慶長九年は夏には旱魃(かんばつ)で、関東地方には大風雨があり不作となり、翌一〇年には一月に関東に大地震があり、前年につづいて不作であった。それから、検地がこの年東金地方で行なわれた記録はない。(東金地方の検地は文禄三年(一五九四)に実施されている。)なお、引用文中の「検田使」とは、検注使・実検使などともいわれ、土地の反別を改め石盛をきめ石高を決定する仕事をする者である。年貢の基準を定める役であるから、農民に取っては恐ろしい存在であった。慶長一〇年に東金の検地がなかったとすれば、検田使うんぬんのことはありえないことになる。ただし、不作ないし飢饉状態はあったと思われるから、減租要求を刑部左衛門がしたろうことは想像される。年貢徴収の責任者は代官である。代官は前述のとおり嶋田伊伯であったから、要求の相手は伊伯であったはずだ。しかし、これも前述したとおり、伊伯はその後存命しているので、刑部左衛門が殺した相手は伊伯ではなく他の役人だったことになる。次に、刑部左衛門は御米倉を破って施米をしたとあるが、これはこの資料にはじめてあるいは突然に出て来たことである。この事実は現実にあったことかどうか。あったとしても不思議はないが、ちょっと気になるのは、寛永二〇年(一六四三)大多和四郎右衛門(別項参照)が飢民救済のため御米倉を無断で開いて施米したという話とダブッているので、大多和の話がここへまぎれこんだ感じがしないでもないことである。しかし、歴史の上で同じことがくりかえされたって、別に変なことではない。
 ここで、AからFまでの六つの資料を事件の原因によって整理してみると、ABCとDEFとは異なった系列をなしているように思われる。ABCでは争論とか議論とか抽象的なことが原因となっており、ただ、Cには別説として出ているのに対して、DEFは減租・検地(田)の問題を原因としている。六つの資料はそれが書かれあるいは発表された年代順に並べたものであるが、そうすると、原因観について明治期のABCが大正以後期のDEFとちがったものになっており、ABCにおいては原因をはっきり示していないのに、DEFにおいては減租・検地というはっきりした表示になっていることがわかる。このように原因が明示されているのは、その後の研究が進んだからだといってみたいが、学問的メスが正しく入れられた結果であるとは必ずしも言い切れまい。しかも、今やDEFの説、とくに志賀吾郷のF説が世間の定説となりつつあるのである。
 ところで、DEFは活字となって世に公表されたものであるのに反して、ABCはこれまで世に埋れていて、今度の東金市史編さんの仕事において発見された、いわば新資料であることをいっておきたい。それに、DEFは大正以後の社会主義思想が世に流布し定着しはじめた頃に書かれたもので、これらを書いた人は、おそらくABCの資料を見たことのない人であるということも考慮に入れてみたいのである。こう見てくると、Fを定説としてしまうには、躊躇(ちゅうちょ)せざるをえないのである。もっとも、ABCに争論とか議論とあるのは減租・検地の問題にちがいないと考えればそれで済むではないかという人もあるかもしれないが、そう短絡的に片づけてしまうのもどうかと思われる。
 
    

4


 ここで、刑部左衛門の出自や履歴についてのべてみよう。本漸寺の第七世の住職で、名僧として著名だった日乗は刑部左衛門の子であって、その日乗の伝記を同寺第二六世の住職日珠が書いているが、そのはじめに、
 
 「父ハ酒井左衛門尉(じょう)政辰ノ家臣ナリ。市藤刑部左衛門ト号ス。祖父ハ市藤筑後守、紀州熊野ノ士ナリ。今、南総川場村ノ民市藤佐左衛門ト云フナリ。」(「養徳院乾竜日乗上人年表略記」)
 
とある。これによると、刑部左衛門の祖父は市藤筑後守(「市藤」はあて字であろう)と言い、酒井氏の家臣であったが、もとは紀州熊野の出であるという。なお、東金市川場の市東家にある同家の系図附記によると、祖父は名を胤隆、通称を猪之八郎と言い、下総小弓城にいて小弓御所の名があった足利義明に仕え、上総市東郡に市東城をきずきこれに拠っていた。しかし、足利義明は国府台の戦いで敗北してしまったので、酒井定隆に臣従し、東金酒井氏に所属した。東金酒井氏の家臣録を見ると、「高七百五十石 羽黒 市東筑後守」(「東金史話」三五頁)とあるが、これが祖父胤隆のことであろう。七百五十石というかなり高禄をあたえられ、羽黒衆の部将の地位にあったらしい。なお、前引の資料Aの冒頭に「台方妙福寺境内西の方に住む」とあるので、邸はそこにあったものと考えられる。
 胤隆の子が胤郊で、これが刑部左衛門の父であるが、胤郊は酒井氏の家臣録に市東近江守とあるのにあたるらしく、近江守は高九百石で岩谷(いわのやつ)衆の部将であったようだ。資料Aに刑部左衛門が「東金岩之谷居往」とあるのは肯かれる。また、家臣録の「城下近所」(東金城の近くに住む家臣の意)の条に市東刑部左衛門の名が見える。彼も小姓か何かで父とともに出仕していたものと見える。酒井氏が天正一八年(一五九〇)に滅亡すると、市東父子も当然浪人となったが、一家は川場村で帰農することになった。しかし、刑部左衛門は慶長六年(一六〇一)から東金の名主となっているので、岩谷に住んでいたと考えられる。そして、例の自刃事件が勃発することになる。
 そこで、市東家の系図を検すると、
 
G「胤晁 形(ママ)部左衛門
   慶長十乙巳年三月十九日、有リ故叔父為メニ胤英ノ於テ西福寺ニ自殺ス。于(ときに)時三十二才也。」
 
とある。胤晁は刑部左衛門の名である。形部は書きちがいであろうか。その次に死亡の年月日、その事由、年齢が示されている。事由の吟味は後まわしにして、死亡年は資料Fと一致する。Fには死亡月日は記されていないが、ここには「三月十九日」とある。また、資料Aには事件の日を「一月元旦」とあったが、くいちがっている。次に、年齢は「三十二才」とあって、Fの「歳三十一」と一年のちがいがある。系図の記載を信じて、慶長一〇年、三二歳で死んだとすると、彼の出生は天正二年(一五七四)となる。生まれたところは東の岩谷と考えてよいだろう。ついでにいえば、酒井氏の亡びた時には一七歳、名主になった時は二八歳ということになる。
 さて、問題は自殺の理由である。「故有リ、叔父胤英ノ為メニ西福寺ニ於テ自殺ス。」叔父胤英とは父胤郊の弟であろうが、どういう人物かは分からない。その叔父のために刑部左衛門が自殺したとは、異常であり、前引の六つの資料にも全く出ていなかったことだ。「故有り」とだけで、何の故だか、さっぱり分からない。それも、刑部左衛門自身のことではなく、叔父の事件でその身がわりをしたとなれば、えらいことである。もちろん、秘密にしなければならないことであったにちがいない。ともかく、深い謎を投げかける感じだ。
 ところが、次に刑部左衛門が叔父のためではなく、市東一族のために犠牲になったという資料があるのである。それは、杉谷直道が記録した「上総国山辺郡東金町明細記」(「福島市史資料叢書・第一七輯」所収)に出ている左の記述である。
 
H「市東刑部左衛門
    慶長六辛丑年より同十一丙午年迄相勤「六ケ年」
 
   刑部左衛門義は、同姓の市東、川場村堀上村ニ有リ之候処、
   夫等の為に切腹致し断絶也。」(八〇頁)
 
 
「夫等の為」とは、いったいどういうことなのか、全く説明がないので判断のしようがない。何か市東一族の間に、彼を切腹に追いこむ事件がおこったのであろう。Gの叔父胤英のためということと関連があるのかないのか、そのへんのところも分からない。「断絶」というのは、刑部左衛門家の断絶ということなのか、それとも他の市東一族まで波及したのか、これも不明である。すべては謎という感じである。
 謎といえば、ここに、一段と深い謎を示す異説を伝える資料がある。それは、安川柳渓の「上総国誌」(巻之六・村部下)に出ている左のごとき記述である。
 
I「慶長十九年甲寅正月九日、徳川府家康公、始メテ東金及ビ近地ニ巡狩(じゅんしゅ)スルヤ、主トシテ乱世ノ後、人民疲弊田野荒廃ノ実境ヲ視ルニ在ルカ。(中略)初メ徳川公東金ニ到ル途中、故酒井家士ニ市東刑部トイフ者有リ、暗ニ鉄槌ヲ飛シテ公の乗轎(じょうきょ)ヲ狙撃シ、直ニ西福寺ノ堂中ニ走リ入リテ屠腹(とふく)セリ。男児有リ、年甫(はじ)メテ十一、匿(かく)シテ本漸寺ニ在リ。寺僧哀告スルニ、嘗ツテ弟子タルノ事ヲ以テス。吏信ゼズ。試ミニ一部ノ経ヲ誦セシム。朗々トシテ碍語(がいご)無シ。是ニ於テ免ルルヲ得タリ。蓋(けだ)シ、期ニ先(さきだ)ツテ之ニ教フルコト一昼夜ニシテ識(し)ル所ト云フ。此ノ児十八歳ニシテ僧正ニ任ジ、日乗ト号ス。或ヒハ曰ク、市東刑部ハ、其ノ実ハ酒井ノ家士ニ非ズ。小西摂津守行長ノ遺臣ニシテ、関ケ原敗戦ノ後、逃レテ此ノ地ニ来リ、密(ひそか)ニ故主ノ孤ヲ育シ、謀(はか)ル所有ツテ、終ニ是ニ及ベルカ、ト。」(「改訂房総叢書・第七巻」三六八頁。原漢文)
 
徳川家康が慶長一九年一月東金へ来た時、彼の乗っていた轎(こし)に鉄槌を投げつけて殺そうとしたが、失敗して、最福寺の本堂で切腹したというのである。これは酒井の旧臣たる刑部左衛門が仇敵たる家康に復讐しようとしたというのである。これは、今までのどの資料にも出ていないショッキングなことである。これは、上役を殺したとか、鶴を捕獲したとかという犯罪より、さらに大罪を犯したことになる。もちろん、家康は無事であったから未遂に終わったのであるが、容易ならぬ犯罪行為である。しかも、「或ヒハ曰ク」以下の、小西行長の遺臣説もあるにいたっては、まさに異常である。そうすると、日乗は「故主の孤(わすれかたみ)」ということになるだろう。だが、刑部左衛門が酒井の遺臣だったのは確かだし、小西の遺臣などというのは信じがたいことである。ただ、彼が酒井を亡ぼした徳川家康に対して(厳密にいえば、酒井を亡ぼしたのは豊臣秀吉であるが、酒井の所領を収奪したのは家康である。)遺恨をもっていたろうことは察せられる。そこで、この家康狙撃事件が現実にあったものと信じている人も少なくないようである。たとえば、斎藤東湾(東金市幸田の人、別項参照)は、「義人塚」と題して、次のような漢詩を作っている。
 
  碑頭高ク表ス市東ノ名
  憶(おも)ヒ起ス当年狙撃ノ情
  壮士猶(な)ホ余血ヲ留メテ在リ
  満山ノ風雨、杜鵑(ほととぎす)鳴ク
 
東湾の胸中には、秦の始皇帝を殺そうとして失敗した易水の壮士荊軻のイメージがあったのかもしれない。つまり、刑部左衛門を旧主の恩顧を忘れぬ忠義の士と考えるのであり、昔はそういう意味で彼を義人として敬慕する人は、東湾のほかにも大勢いたのである。しかし、そのように断定してしまっていいものかどうか、やはり疑問が残るのである。もちろん、これを傍証する資料は存しない。「徳川実紀」にも記載はない。
 
    

5


 ところで、今まであげた資料AからIまでのうち、Cを除き、すべて自害切腹自刃等と刑部左衛門が自殺したことを書いている。(Cは刑部の死についてふれていない。)しかるに、ここに自殺とはちがう死にかたをしたと書いている資料がある。その筆者はBCの筆者たる杉谷直道である。彼はBで切腹したとしているのであるが、どういうわけか、別の著述では次のように述べているのである。
 
J(1)日乗ト申ス御方ハ有名ノ僧ニシテ、実父市東氏ナルモノ罪状ノ事アリテ、死刑ニ処セラレマシタ。」(「東金町来歴談」)
 (2)「一説ニ、(日乗ノ)実父市東刑部左衛門氏ハ……国事犯ノ嫌疑ヨリ処分ニナリ(黒田台ニ埋葬塚存在セリ)」(「鳳凰山本漸寺縁起」)
 
(1)(2)の傍点のところを合わせると、刑部左衛門は「国事犯の嫌疑」で「死刑」になったことになる。これは、「一説ニ」とあるとおり、別説としてこういう説もあるとして紹介したもので、必ずしも切腹説を否定したものとはいえないだろう。(「東金町来歴談」「凰鳳山本漸寺縁起」の執筆年時は不明である。)自殺説がすでに定説となっているのに、死刑説もあるというのは、意外な感がある。国事犯とは国禁を犯した罪人ということだが、刑部左衛門のばあい、幕府役人を殺害したこと、御米倉を破ったこと、あるいは鶴を捕獲したことさらに大きいのは家康を狙撃した説など、それぞれ国禁を犯した罪になるであろう。
 なお、GHIの三資料は、ABCと同様、未公表のものであって、DEFとJの公表説が別々の定説を作りつつあるのと、あるいは対立し、あるいは否定する内容をもっている。しからば、これらをどのように整理し、結論づけたらよいか、はなはだむずかしいことになると思う。
 刑部左衛門の人となりを伝える記録はないが、以上列挙した資料によって推察すると、彼は相当の激情家であり、正義感の強い人であり、直情径行の男だったと見て、まず間ちがいはあるまい。それに、彼の立場は酒井家の上級武士の家に生まれながら、時勢の変転に会って、浪人して農民になり下り、徳川新体制への服従を強制される被支配階級に落ちた存在である。名主となったから人望はあったろうが、もと武士のプライドは高かったであろうから、ほかの農民のように従順にはなれない。政治についても、若いながらある程度の見識は持っていたであろう。酒井氏がよい政治をしたわけでもなく、徳川氏が悪政をやったわけではなくても、新体制にあきたらない気持は抱きがちである。いわんや、天候不順のため不作つづきとなれば、新政府に対して反感が湧き不満がつのるのも当然のことである。世の中が旧体制から新体制に移行する時には、いろいろな矛盾がおこり、不当な抑圧があり、新しい支配者が横暴な振舞いをする等、やりきれないことは多いものである。刑部左衛門のごとき人物は、なかなか従いきれず、あきらめきれないものである。彼の反抗行動は以上のような事情から発したものであろう。資料Aにあるように、代官手代の下役に彼がなったとすれば、新政府に仕えたい意志があったことになるが、今まで上級武士だったものが、小者に成り下がって、へいへいばかりしていられるものでもなかろう。上役と論争することだってあり得るはずだ。ただ、それが単なる感情の衝突であって、その結果刃傷沙汰に及んだとしたら、要するに彼は一個の激情家にすぎなくなるであろう。資料Aにあるように、重役を殺し留めに入った同僚の名主まで殺害したことが事実としたら、彼は酒乱的な暴漢と見るほかなくなるであろう。
 刑部左衛門は義人だといわれている。義人の名にもっとも価するのは、彼が人民のために起ち上がって、その憂苦を除くべく、身を挺して政府に抗議し、進んで犠牲となる行動者であることだろう。それは、資料Fのごとき人物であろう。どうかそういう人物であってほしいと、切に希望したいところでもある。しかし、正確な裏書き資料もないのに、断定してしまうのは、つつしまなければなるまい。慶長一〇年に検田使が来たという保証はないが、不作つづきで農民が窮地に追い込まれていたことは事実である。それに、慶長六年(一六〇一)には九十九里地方は大地震におそわれ洪水の大被害を受けている。慶長五年の関ケ原戦争の後遺症もあったろう。さらに、慶長九年(一六〇四)には代官嶋田伊伯を責任者とする雄蛇ケ池造営の工事もはじまっている。それらが農民の上に相当の重圧を加えていたことはたしかである。したがって、ムシロ旗を押し立てて当局に抵抗する義人があらわれても、不思議ではない時期だったとはいえる。しかし、だからといって、資料DEFの記述を直ちに肯定するわけには行くまい。それよりも古い資料であるABCGHIのどれからも、減租運動をしたという事実をつかみ出すことが出来ないのが残念である。
 
    

6


 ところで、意外に見逃がされているのは、資料Cに出ている鶴を捕獲したためではないかということだ。将軍の御鷹場となっていた東金地方で鶴を殺したり捕えたりすることは重大な犯罪であった。刑部左衛門はその罪を犯したのではないかというのである。御鷹場では所属農民にある程度の保護が加えられたこともあるが、農事の妨げになることも多く、それに精神的負担は容易なものではなかった。鶴はおろかその他の鳥類もその餌となる川魚の類も捕えてはならないという、きびしい規制があったのである。この非人間的な規制がどんなに迷惑なものであったことか。ひどい悪法であったことは明らかだ。刑部左衛門がこの悪法に批判的だったことは考えられる。彼が鶴を捕獲したとして、それが悪法に対するレジスタンスから故意にやったことか、それとも、誤まってやったことか、どちらであったか。誤まってやって罪されたとしたら、ただ気の毒と思われたにすぎないだろうが、故意にやったとすれば、農民たちはよくやってくれたと、ひそかに喜んだことであろう。しかし、国禁を犯した重罪人であるから、彼の名を口にすることははばかられたであろう。
 ここで取り上げたいのは、資料Gである。これは市東家に伝えられた資料であるから、重んずる必要がある。それは、刑部左衛門が叔父胤英のために身代わりになって自殺したというのであるが、「故有り」の「故」が何であったか。それは、あるいは鶴の捕獲事件だったのではないか。つまり、叔父の胤英が鶴を鉄砲で撃って処刑されたのを、刑部左衛門が身代わりとなり、罪を背負い込んで自殺したのではないかとも、考えられるのである。もちろん、これは想像説にすぎないが、ありえないことではないような気がする。もっとも、身代わりになったからといって、それを鶴事件にばかり結びつけるのは、早計ではないかと反駁されよう。しかし、争論事件や減租事件ならば、身代わり自殺というわけには行くまい。鶴事件ならば、目撃者がない限り、身代わりは可能であろうからだ。
 さて、身代わりになったとして、しからば、何故に身代わりにならなければならなかったのか。叔父胤英が死んでは困る事情があったのか。あるいは、胤英が逃亡してしまったので、身代わりになったのか。後者であったのかもしれない。しかし、身代わりでは、単なる犠牲に過ぎない。刑部左衛門自身の鶴事件に対する意志はつかめない。ただ、事情を知っている者たちの同情を買うことはできる。義人として尊ばれる可能性はあろう。しかし、そのばあいのイメージは弱い。
 次は狙撃説である。これは忠義のための死だ。忠義好きの日本人にはいちばん人気のある死に方である。酒井氏がどういう政治をしたかよく分からないところがあるけれども、慶長期は徳川の新体制になっても、民政が行き届かなかったから、酒井時代をなつかしみこれを追慕する気持は必ず人民間にあったものと思われる。そういう気持を刑部左衛門が代表して事をおこしたとも考えられる。少なくとも、酒井の恩顧を蒙った人たちは共感するところがあったにちがいない。だが、それは大きな反逆行為であり、口にすべきことではないので、秘密にし通して来たが、明治のはじめになって、はじめて安川柳渓があからさまに書いたとも想像できるところがある。といっても、有力な傍証もないのに、この説に加担するわけにもゆくまい。
 こうなると、義人と称される刑部左衛門の実体は、ますますつかみにくくなる。あるいは永久につかめないかもしれないのである。
 資料Jは、刑部左衛門が自殺したのではなく、死刑に処されたのではないかと伝える。刑部左衛門は武士であった。武士ならば、切腹または自刃すべきものだ。切腹・自刃は武士の抗議行為でもある。プライドでもある。しかし、死刑は武士にとっては屈辱以外の何物でもない。しかし、そういう事情がなかったとはいえない。重罪を犯して捕えられれば、死刑となるのは当然である。刑部左衛門のばあい、われわれは彼の名誉のためにも、切腹ないし自刃であったと信じたい。だが、死刑ということも、ありえないとはいえない。
 刑部左衛門は幕府に反抗した重罪人として、長い間、墓をつくることを許されなかった。杉谷直道の「東金開拓年表」(稿本、明治四五年六月執筆)には、慶長一九年(一六一四)の項に、
 
 「市東刑部左衛門屍体ヲ黒田台ニ埋葬ス。里俗之ヲ市東塚ト云フ。」
 
とある。慶長一〇年に死んだ彼は、九年後になって、ようやく埋葬することを認められたのである。墓は彼を慕う人たちによって、大切に保存されている。
 以上、長い叙述を試みたが、結局、市東刑部左衛門は疑問の人物、謎の人物といわざるをえない。しかし、東金市民は今も彼を義人として敬慕している。どうか、彼の義人たる真実が客観的に明証される日が来ることを待望してやまない。