東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(七) 文人

3 詩人

    

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 天彭は今関琴美(別項参照)の孫である。祖孫相承というが、祖父琴美の資質を享け、それを大成したのが天彭であったということができる。琴美は地方に埋もれた形で一生を終ったが、天彭は中央の学界・文界で活動することが出来、広く名を成すことも出来たのである。
 さて、琴美の死後、そのあとをついだのは長男の富徳であった。彼は父と同じく塾の経営にあたっていたが、元来酒好きで、しかもそれに溺れてしまい、門弟たちもあきれて去ってゆく者が多くなり、ために、富徳は多額の借財に苦しみ、とうとう関内を捨てて東京の中野に遷居してしまった。そのため、村人たちからひどく恨まれ、今関家の不動産はすべて村人たちによって処分されてしまったのである。富徳には二男一女があったが、長男の寿麿(ひさまろ)は祖父に似て優秀であった。寿麿は後に天彭(てんぽう)と号し、著名な詩人漢文学者として、祖父の名をつぐにいたった。
 寿麿すなわち天彭は、明治二四年(一八九一)関内の今関家で生まれている。祖父の琴美が七九歳の時であった。そして、琴美が同三三年一〇月八八歳で没した時、天彭は一〇歳であった。琴美は幼い天彭に漢籍を仕込んだことであろう。こうして、漢学の基礎は幼時にたたき込まれた。天彭が祖父から受けた感化は大きかった。天彭は後に(昭和一九年一一月)「天彭山人自伝」という漢文で書いた簡単な自叙伝を残しているが、その中に、
 
 「幼ニシテ読書ヲ好ミ、略(ほぼ)四子六経ニ通ジ、以テ馬公ノ史昭明ノ選ニ及ブ。祖琴美先生ハ備前ノ人、南総ニ流落シ、轗軻(かんか)(不遇なこと)ニ身ヲ終フ。山人(天彭のこと)ヲ愛撫シ、教ヘテ倦(う)マズ。」(原漢文)
 
とのべていることによって、幼少時祖父から愛されかなりの漢籍教授を受けたことがわかる。(「馬公ノ史」は司馬遷の史記のこと。「昭明ノ選」は昭明太子(梁の武帝の長子)の文選(もんぜん)のことである。)祖父琴美にしてみれば、息子の富徳ははずれ者だが、孫は利発なので大いに期待をかけ、田舎学者に終わってしまった自分の希望を天彭に託したい気持だったと思われる。
 琴美の死後、天彭は父富徳にしたがった東京中野に移って少年時代をおくったが、関東学人と称した学者石川鴻斎(こうさい)についてさらに深く漢学を修めた。鴻斎は琴美の墓碑銘を書いた人である。
 鴻斎は当時世に知られた人であった。彼は三河国豊橋の人で、漢学に通じていたが、詩文に長じ名文家としてうたわれ、また、南画をも得意としていた。なお、横浜に来ていた中国の要人らとも交際があり、国際的人物でもあった。その性格もなかなか高潔で世間から尊敬を受けていた。天彭がこういう人を師としたことは、いろいろな意味でプラスになったと思う。さらに、彼は早くから漢詩の勉強もやっていた。明治四〇年(一九〇七)というから、一七歳の時であるが、当代漢詩壇の最右翼といわれた森槐南(かいなん)と国分青厓(こくぶせいがい)について、清(しん)・明(みん)の詩風を中心に漢詩の作法などを学んだ。槐南はその父・春濤(しゅんとう)が著名な漢詩人であったからその感化も受け、詩才においては並びないものをもち、明治二〇年代から三〇年代においては漢詩壇の第一人者と称されていた人である。また、青厓は仙台生まれで、槐南より六歳ほど年長であったが、国士的な風格を有し、「詩は志なり」と主唱し、唐の杜甫や明の李夢陽の詩風に倣(なら)うところがあった。槐南と併称されていた人である。天彭は当代最高の二師についたわけである。
 
    

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 次に、職業面については、明治四三年(一九一〇)二〇歳の時に国民新聞の記者となり、翌四四年、国民雑誌の記者に転じたが、大正五年(一九一六)朝鮮総督府の嘱託となって半島に渡った。若い時から漢文学を学び、石川鴻斎の影響もあって、中国問題に関心の深かった彼は、同七年(一九一八)中国の首都北京に入った。そして、中国の学者や要人と交際し、今関研究室を設けて、中国事情の研究に従事した。
 昭和に入ると、日支関係も険悪となり、昭和六年(一九三一)九月一八日の柳条溝事件で満洲事変が勃発し、ついで、同一二年(一九三七)七月七日の北京南方の盧溝橋でおこった日支両軍の衝突事件いわゆる盧溝橋事件によって、日支事変へ突入することになった。こうなると、天彭の仕事も忙しくなった。彼はどういう手づるがあったか、昭和七年から同九年まで総理大臣をしていて、同一一年(一九三六)の二・二六事件で殺された斎藤実(まこと)の知遇を得てその庇護を受け、また、三井合名会社の支援もあって、北京に今関中国文化研究所を設けて、日中文化の交流に尽力した。彼の弟で一二歳も年下であった和雄も渡支して兄を助けた。その間、天彭は一時帰国したことがあったが、同一七年(一九四二)在支日本大使館の招きで南京に赴いた。そんな状態の中で終戦を迎えたのである。そして、和雄をつれて中国を引揚げ、東京の中野に住んで、漢詩の雑誌「雅友」を発行しながら、好きな漢詩づくりにいそしんでいたが、昭和四五年(一九七〇)逝去した。享年八〇歳であった。
 学者としての天彭の専攻は中国文芸の研究であった。その方面の著述としては、大正八年(一九一九)六月に刊行した「支那人文講話」をはじめ、昭和六年(一九三一)に世に問うた「近代支那の学芸」や「支那演劇」等の著述がある。彼はまた、日本の先哲の事跡などにも深い興味を寄せ、大正二年(一九一三)一二月「東京先儒掃苔(そうたい)録」という好著を残すとともに、書道雑誌「書苑」(三省堂発行)には著名な儒者の伝記を連載して天下好学の徒をよろこばせたこともあった。特に「東京先儒掃苔録」(掃苔とは墓参のこと)は、当時の東京市内に残る一五六人の先学の墓碑をいちいちたずね、墓誌等を書き取って、それぞれの業績や人物を書き伝えたもので、いわば、フィールド・ワークによる先哲列伝であったから、その実証性を高く評価され、世に歓迎されたのであるが、有名な文豪森鴎外はその晩年、史伝文学の執筆に力を入れており、大正五年(一九一六)一月「渋江抽斎」を発表したのをはじめとして、同年六月には「伊沢蘭軒」を、同六年(一九一七)六月には「北条霞亭」を発表しているのであるけれども、それらの労作を書くにあたって、天彭の「掃苔録」をこよなきハンド・ブックとして大いに活用したのであった。その縁によって、天彭は鴎外の知遇を得るにいたったのである。
 しかし、彼の遺業の最大なものは漢詩であろう。八〇年の生涯で作成した漢詩は厖大の量にのぼっている。そして、それらはすべて「天彭詩集」一二巻におさめられている。これは、昭和三九年(一九六四)から同四六年(一九七一)の七年間にわたって刊行されたものである。彼は自分の詩について、
 
 「好ンデ詩ヲ賦シ、長短凡ソ三千余首、拙ナリト雖(いえど)モ、山人(自分のこと)ノ行跡ノ由ル所ヲ見ント欲スレバ、夫レ或ヒハ斯(ここ)ニ在ランカ。」(「天彭山人自伝」原漢文)
 
といっているが、詩作品には彼の人物・性行・経歴のすべてがたたきこまれているといっていいだろう。彼を知ろうとするならば、まずその詩を味わうべきであろう。
 
    

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 なお、附記しておきたいのは、天彭は作家・永井荷風とも交友があったということだ。荷風は大正五年(一九一六)四月、友人の井上唖々(ああ)・籾山梓月(もみやましげつ)らとともに、文芸雑誌「文明」を発行し、その主筆となっているが、荷風の父久一郎は禾原(かげん)と号し、明治期には著名な漢詩人であって、天彭の師事した森槐南その他多くの漢詩人と交遊があり、自宅でしばしば詩会を催していたので、天彭も禾原と知り合うようになっていたかと考えられる。しかし、秋庭太郎氏の「考証・永井荷風」によると、天彭を荷風に紹介したのは籾山梓月であったようだ。秋庭氏は右の書中で、天彭が氏にあてた昭和三六年(一九六一)九月二四日附の手紙を示しているが、その中で天彭は梓月のことを「梓月籾山仁三郎翁は江戸回船問屋の大元締の家柄吉村甚兵衛氏の実弟にて、籾山氏を名乗るも実家に居ると同一。慶応卒業、ここにて荷風翁と意気投合、荷風の遊蕩費はほとんど籾山より出したるものにて候」と紹介している。荷風・梓月らは文明会という会を度々催していたが、天彭もその席へ出ていたということだし、また、「文明」誌上に彼は毎号近作の漢詩を寄稿していたということである。ただ、天彭は大正五年からは朝鮮・中国へ渡っていたから、かの地から送稿するようにしていたのであろうか。なお、「文明」は大正七年(一九一八)九月まで発行されていた。ともかく、天彭が永井荷風や籾山梓月と交友をもっていたことは注目すべきだと思う。
 おわりに、天彭の風貌についてふれておきたい。中西三郎氏は天彭の生前、年代は不明だが、毎年七月三〇日に催される歌人伊藤左千夫の記念歌会の際面晤した印象を「折からの炎暑にも拘らず、天彭氏は絽の羽織に袴を穿(は)き、容儀端正、如何にも儒者らしく温厚恭謙譲、君子人の風格を備えておられた。その印象は未だ忘れ得ざるものがある。」(「金石研究(三)」東金文化第二〇号所載)とのべている。その面影が髣髴(ほうふつ)として浮かぶ思いがする。

今関天彭