東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(七) 文人

1 俳人

    

1


 百明は東金市新宿の人で、名を志蔵と言った。百明は俳人としての号であるが、別に土龍(どりょう)庵・鴫立(しぎたつ)庵という庵号を持っていた。彼の伝記はほとんど不明だが、天明四年(一七八四)七月二二日に没したといわれる。しかし、享年が不明で、したがって、生年も分からない。新宿生まれという以外には、どのような出自であったか皆目分からない。ただ、その住居が城山の近く八鶴湖の附近にあったという言い伝えがある。その後、江戸へ出て主として江戸住いをしていたらしいが、どの辺に居住して何をしていたかも不明である。彼は晩年、多分明和六年(一七六八)から翌七年にかけて、相模国の鴫立(しぎたつ)沢(神奈川県大磯町)のほとりの鴫立庵に住んでいたことがあるが、江戸で死んだという話である。

鴫立庵(神奈川県大磯)

 百明は東金の生んだ俳人の中でも、もっとも著名な人であるが、経歴がはっきりしないのは、まことに残念である。彼も東金ゆかりの俳人、松露庵左明・四時亭(飯田)雨林・作田東睡・関原巨梅らとともに、上総国地引村(長生郡長南町)出身の伊勢派の俳諧師として名高い白井鳥酔に師事し、同門では重きをなした人であった。鳥酔門では三明と称された一人で、他の二人は前記の左明と東海坊烏明(うめい)(松露庵とも称した)の二人だった。百明は烏明(江戸の人)とは親しかった模様である。師の鳥酔ははじめ百明房と号していたが、鳥酔と改号して、百明の号を百明にあたえたのである。師の信頼があつかったことが分かる。
 百明が何時鳥酔に入門したかは不明であるが、明和二年(一七六五)には前記の烏明が鳥酔の指導を受けて、句文集「をしへ鳥」を編集し、刊行した。百明はその書に序文を寄せ、また、いくつかの句を載せている。烏明との深い友情を偲(しの)ばせる。烏明は商人だったが、温厚実直な人柄だったから、突き合いやすかったのであろう。この年、烏明は四〇歳だったと思われるが、百明が何歳だったかは分からないけれども、おそらく烏明のほうが年輩も上で、俳諧経歴も古かったものと思われる。二人の交友は永くつづいたようである。なお、「をしへ鳥」には、鳥酔の鎌倉入湯記たる「薬水由来記」や烏明とその門下であった加舎昨烏(かやさくう)(後の「白雄」。信州の人)の江の島観月の文も掲載されている。
 この明和二年の春、鳥酔は六五歳になっていたが、常陸笠間から水戸への旅行をくわだて、二人の門人をつれて江戸を立ち、その途次、東金へ立ち寄ったことが、その時の鳥酔の紀行「乙酉〓(いつゆうきん)行甲乙記」(「乙酉」は明和二年)によって知られる。すなわち、
 
 「百明房(鳥酔のこと)は南総の藻友に招かれて、東金古城下へ徐歩す。文通、
   菊の香や段々細き水のおく            百明
   いなづまや舟呼ぶ声の行違ひ           雨林」
 
   (天野雨山「俳豪鳥酔」一八九-一九〇頁)
 
とある。「文通」とあるから、この時は百明も雨林も江戸にいて、手紙で送別の句を贈ったものであろう。
 ついで、鳥酔は三年後の明和五年(一七六八)六月、母の五十四回忌を営むため、故郷の上総地引村(長南)に帰り、かねてその地に構えていた露柱庵にしばらく滞在していたが、そこへ、東金へ帰っていた百明と江戸の烏明がおとずれた。七月末になって、鳥酔は百明と烏明の二人をつれ銚子へ旅行した。(その途中、おそらく東金へ立ち寄ったと思われる。)鳥酔が銚子へ行ったのは、これがはじめてではない。三三年も前の寛保三年(一七四三)四三歳の時に、筑波山へ旅した帰りに鹿島・香取を経て銚子に遊んだことがあった。また、ごく近くこれより二年前の明和三年の秋にも彼は帰郷しているが、その際、烏明の門人で前述の加舎昨烏(かやさくう)(すなわち後の「白雄」)をつれて、北総地方へ出かけ、銚子にも滞留したことがある。だから、鳥酔の今度の銚子行きは三度目ということになる。ところで、烏明はその前年すなわち明和二年にも銚子へ来たことがあり、さらに、昨烏すなわち白雄はそれ以前に銚子へ流寓していたことが、烏明が鳥酔二十七回忌追善集「在し世話」(寛政七年刊)に寄せた一文の中で、
 
 「渠(かれ)(昨烏すなわち白雄のこと)が銚子に漂泊せる昔、銚子社中存命の人は能(よく)しれる所也。明和二酉(とり)の年我南総行脚のかへり、銚子へ立ちよりし折から、烏朝俗名鹿島屋善太良方に食客となつて居れり。」(加藤郁乎「俳諧志」三二五頁による)
 
と記していることによって知れるのである。すると、銚子との関係では白雄がもっとも古く、次に烏明が古い「三度目」ということになりそうである。
 さて、鳥酔は烏明・百明の二人をつれて銚子をおとずれたのであるが、銚子では市石庵美船(この人の伝記は「銚子市史」にも「不明」とある)の許に滞在して、土地の俳人たちと交遊し、三度の来遊で、以後、鳥酔の俳風がこの地方に盛んになって行ったのである。いま、銚子市の圓福寺境内に鳥酔・百明・烏明の句碑(天保二年再建)があり、刻まれた句は左のごとくである。
 
 「 酔ことば天下晴れたり花盛り
             松露庵鳥酔
   花盛り海は静に暮れもやらず
             二世烏明
   曇れども桜のもとに倚(よ)りやすき
            土龍庵百明」
 
                   (「銚子市史」四一三頁)
 
この三句は、右の銚子行きの際、詠まれたものと思われる。
 
    

2


 鳥酔がその晩年に心魂をかたむけた仕事の一つに、鴫立庵の再興ということがあった。これは、歌人西行が詠んだ「心なき身にもあはれ知られけり鴫立つ沢の秋の夕ぐれ」の名歌で知られる歌枕鴫立沢(神奈川県大磯)に、仙台の俳人大淀三千風(みちかぜ)(生まれは伊勢)が、西行敬慕の思いをあらわすため、元禄八年(一六九五)五月一二日に建立し庵主となっていた鴫立庵が、三千風の没(宝永四)一七〇七))後、二世朱人(僧侶・三千風門人)が次ぎ、朱人が享保一八年(一七三三)七月死去してからは、荒廃してしまっていたので、西行に傾倒していた鳥酔が、俳道振興のため復興したのである。それは、明和三年(一七六六)鳥酔六六歳の時のことであった。三千風が建てた鴫立庵は往時のおもかげなく、その名も秋暮亭となってわずかに遺構をとどめるのみであったのを、鳥酔は私財を投じて修復し、鴫立庵の名称を復活して、みずからそこに住みついたのである。三千風から数えれば、鳥酔は三世庵主となるわけである。ところが、そこに現存している鳥酔の墓碑には、「鴫立沢一世鳥酔翁と誌されている。これは、高弟たる烏明(うめい)・百明らによって建立されたものであって、少なくとも門人たちは鳥酔をもって鴫立庵一世と考えていたのである。その理由は、天野雨山氏によれば、「鳥酔以前には、等しく西行の歌から発(おこ)る秋暮亭の名にのみ呼ばれ、鴫立庵といふ名称及びそれを俳号に名乗ったのは、鳥酔にはじまると見るのが至当であろうと考へる。」(「俳豪鳥酔」二九二頁)ということになる。
 鳥酔は鴫立沢の地が気に入って、晩年の四年ほどをここに住み、もっとも時々は旅に出たりなどしていたが、前述のように、明和五年銚子の旅に出た頃から体調をくずしていた。銚子から江戸に帰りそれから鴫立庵に移ったのであるが、翌明和六年(一七六九)の二月になって、病状が思わしくなくなり、江戸品川の松原庵に移ったが、さらに日本橋の松露庵に転じ、四月四日ここで永眠した。
 鳥酔の没後、百明は鴫立庵の庵主となった。鳥酔から数えれば二世、三千風からすれば四世となる。しかし、このことについて、百明は鴫立庵主をつがなかったという説がある。現に田波啓氏も鳥酔の次の庵主は加舎白雄であったとされているが、(「東金文学散歩」)これは誤りのようである。関水華氏の「大磯鴫立庵の俳跡」という研究によると、
 
 「(百明の)鴫立入庵年月は不詳であるが、師鳥酔に従って鴫立庵に来たものと考えられることは、白雄がまだ昨烏と号していた頃、鳥酔を鴫立庵に訪ねて、其の門下に入ることを許されたとき、兄弟子(あにでし)として昨烏に対したと思われることが、後の白雄の事跡の中に考えられるからである。それ故、師鳥酔没後、直ちに四世を継いだものであろう。師の松露庵二世を左明が、三世を烏明が継いでいることから見ても、鴫立庵は鳥酔没後、百明が継いだのは当然と思われる。」(二〇頁)
 
とある。天野雨山氏も「尠(すくな)くとも百明はその(鴫立庵の)二世として襲号したことは瞭(あきら)か」(「俳豪鳥酔」三一六頁)であるといっている。百明が二世であり、白雄は三世となったものとするのが正しいというのである。それは、百明が白雄の兄弟子であったからというわけである。
 鳥酔没後の百明の仕事として、特筆すべきは、松露庵烏明との共編に成る「露柱庵鳥酔居士遺語俳諧提要録」(上下二巻)がある。これは、鳥酔が生前弟子たちに蕉風の奥義を説いたのを烏明や百明が筆記しておいたのを整理編集したもので、鳥酔の五回忌を迎えた安永二年(一七七三)三月上梓されている。烏明が「叙」を書き、百明が「後序」をしるしている。烏明の「叙」には本書の成った事情を次のように説いている。
 
 「師、無垢(く)の室に入り(死ぬこと)給ひて後、算へるに既に五つの指を納む。月毎(ごと)四日なる日は自画寿像附属の辞を草堂の壁に垂れつつ、俳言長短のこと葉を次いで奠祭(てんさい)す。座右に土龍庵主人(百明のこと)あつていへらく、それ道は八達九緯(い)(さまざまにわかれている)なりといへども、流祖はせを(芭蕉)の翁正風の魂を元禄に遺(のこ)されたり。我が祖そこに眼をとどめて我が党に悟して睫(まつげ)をあはされぬ(亡くなった)。師の恵みいま猶(なお)ふかき事量りがたし。師、草庵に憩(いこ)はるる時は、ことさらに逆旅(げきりょ)(旅館)に従陪(ばい)したる折々時々耳食(じしょく)(人の話をわきで聞くこと)せしものに、私(ひそ)かに筆加えなどしつつ、是をもて我が弟子たるものにあたえまほしう記したるありとて僕に見せしめ、且つ、同遊衆議して毫(わずか)の誤字をただせよと乞ふ。閲(けみ)するに功績頒(しょう)すべきものなり。僕も〓(そ)念はしらず、師の遺語にまかせ、年頃著(しる)し置けるあり。守文(伝統の文化を守り伝える人)はまづその如し。然るを、遺燭(いしょく)(期待)に背(そむ)き、わたくしの物数奇(ものずき)にまかすなど流言す。人に対し口を開くに似たりと捨て置きたれど、鳴乎(ああ)、時なる哉(かな)、合して全くせむには、四卉(しき)庵(孚石(ふせき))やしら尾坊(加舎白雄)が眼力を頼む。両子習々然(手早く)と竄定(さんてい)(文章をなおすこと)して後、影前に訟(うった)ふが為めに備へ、おのおのかはるかはる稽首(けいしゅ)(ていねいに敬礼すること)し終んぬ。」(後略)
 
烏明と百明の二人が各自のノートを整理し、なお、四卉(ぎ)庵孚(ふ)石と加舎白雄にも見せて校訂し、一冊にまとめて、鳥酔の霊前に捧げたというのである。烏明と百明は別に出版するつもりはなかったが、孚石・白雄らがしきりにすすめるので、ついに上梓することになったのである。
 次に、百明の「後序」を抄出しよう。彼の俳諧観をうかがうことができるだろう。
 
 「道は猶ほ路のごとし。往来するの所以なり。諸道ともに道によらざれば往きがたし。其の道は師友を得て往きし自然をしるべし。自然に悖(もと)るをまさなき(正しくない)路といふ。大道はさらなり。風雅の可否も其の代其の時の区別あれど、まことを得ざる故なり。自然の実はあめつちの自然なり。是れを得ては、あらたむる事なし。あやしき僻言(ひがごと)(まちがったこと)にすかされて、流行流行といへるこそこころづきなけれ。工其(たくみ)の事を能(よく)せんには、必ず先づ其の器を利すと。師友を択ぶべし。(中略)中興芭蕉の翁、滑稽の自然を得たり。ここに帰しぬ。外に何をか求むべきや。おもひとぢめて私を納(い)るる事なかれ。(中略)
 ことし心期の友のあながちにすすむるにまかせて、提要録(正しくは「俳諧提要録」)といふを遺(のこ)す。これまたく新たにねんじたるものにはあらず。師席席の俳談也。いささかくはへたるも、うち聞えやすからしめんが為めか。手爾波(てには)は真宰(しんさい)の自然を言にあらはす助辞也。しかはあれども、私心あつて造物に逆ふ言の時は、手爾遠(を)波を入れず、自然をなす時も手爾葉(は)なり。天然なるものから、咎(とが)むる事なし。造物と同体なる故ぞ。かならずしも智を元にしおもひはかりて造物にたがふ事なかれ。(中略)ただありのままにうち聞ゆる発句を熟し味ふべし。玩味すれば、百世の慈翁に対し値(あ)はるるぞかし。今世はさらなり、其の世に正しく謁したりとも、対さぬに同じき人もあるべし。いかんとなれば、私意分別のみして、をのれに克(か)たざる故也。きのふの□(不明)をあらため、けふの正道を得て往くべし。よこさまに踏みよぎりて、荊蕀(けいきょく)(いばら)に縛(ばく)せらるる事なかるべし、と。斯(かく)うけばり(我がまま勝手に)ついふも、私にいふにはあらず、ありのままを又、百明がいひしなり。」(以上引用は天野雨山「俳豪鳥酔」による)
 
    

3


 百明の俳書編集の仕事としては、「そのきさらぎ」という俳諧撰集の編さん事業がある。これは、鳥酔が明和五年(一七六八)二月に、その第一集を出したのを皮切りとして、鳥酔の死後、百明が受けついで数冊発行しているのである。この題名は西行の有名な歌「願はくは花のもとにて春死なむそのきさらぎの望月のころ」にもとづいてつけられたもので、西行の忌日二月一五日を期して発行しようという方針であった。いわば、鴫立庵主としての責任事業みたいなものであった。この集について、百明は
 
 「年々、諸邦の詞友心を近うして手向(たむ)くる句々をあつめ、きさらぎ集と号(なづ)け、歳々と精神を慰むるものなり。(中略)はた、其の句々の来たれる日を引く始めとして、序すれば前後の次第なし。年々の趣き是れに做(なら)ふもの有り。」(「東金市史・史料篇四」一〇四二頁)
 
と書いているが、これによると、毎年発行することになっており、題名も「きさらぎ集」と改めたのである。右の文中に「諸邦の詞友心を近うして手向くる句々をあつめ」とあるとおり、柳居・鳥酔派に属する諸国の俳人たちの年刊句集という体裁のものであったようだ。ところで、実際には何集くらい発刊されたかというと、安永三年(一七七四)刊の同集中の加舎白雄の句の詞書(ことばがき)に「百明老人の編(あ)めるきさらぎ集、鳥師(鳥酔のこと)滅後いつつ六(むつ)の冊におよべり」とあるのによると、安永三年までに五、六冊は刊行されたことがわかる。専門家の調査によると、鳥酔時代の明和五年版と、百明時代になって、明和六年・同八年・安永二年・同三年の各版が出ているので、計五回発刊されたことになっている。ところが、東金市新宿、故関岡帝一氏所蔵の明和七年版の「幾佐良幾(きさらぎ)集」(三二枚つづりのもの、天保三年の印版)が発見されたところから考えて、前記の五回発行が六回発行であったことが判明した。(「東金市史・史料篇四」一〇四〇頁参照)
 このように、俳壇での活動が活発になると、百明の名声もだんだん高まって行ったようだ。これは、彼の死後三年のことであるが、天明七年(一七八七)刊の「古人五題発句集」には、百明の句が一六〇句も載せられているということである。もっとも、この句集は鳥酔系俳人の作を主体としたものだから、それだけで彼の句風を高く評価することはできないであろうが、同門中での彼の地位は相当のものであったことが分かる。
 ここで、百明と信州俳壇との関係、また、加舎白雄(昨烏)との関係について書いておきたい。白井鳥酔の俳風は信州にも波及し、その中から白雄のごとき傑出した俳人が生まれたと見ることができるのであるが、鳥酔が信州に入ったのは白雄が生まれてまだ四歳の延享三年(一七四六)五月のことであった。鳥酔はその翌年にもふたたび入信して、北信・東信の地域を行脚し、蕉風復興の運動をした。これによって、多くの門人を獲得し鳥酔の俳風が信州に植えつけられたのである。江戸に生まれた白雄は一三歳の頃家出をして、二八歳の明和二年(一七六五)銚子へ流寓していて、たまたまそこで松露庵烏明にあい入門したのであるが、その後烏明の師たる鳥酔に親しむとともに、鳥酔から才幹を認められ、特に愛重されるにいたった。白雄は先輩たる百明にも兄事し、百明も好意を寄せ交友も深まった。明和四年(一七六七)一月、白雄は父祖の地たる信州上田をはじめて訪れたが、それを追うようにして、同年五月百明も上田へ旅している。(上田市立博物館編「上田の俳諧」による)上田へ行った百明がどういう活動をしたかは不明であるが、わざわざ白雄の故地をたずねたのだから、通り一ぺんの交際でなかったことが察せられる。その後、百明が前述のように安永二年(一七七三)烏明とともに「俳諧提要録」を編集した時に白雄が力を貸したのも、親しみが深ければこそであった。
 しかるに、烏明・百明と白雄との関係は安永四年(一七七五)ごろから、冷たくなっていった。特に師たる烏明は白雄が自分をないがしろにして鳥酔に直接師事し、しかも高い評価を受けていることは面白くなかったのである。しかし、白雄からすれば「烏明が因循姑息、保守的で、師鳥酔の革新的な高い識見を継承していないことに対して、かねがね感じていた不満」(「上田の俳諧]一九頁)があったためであろう。白雄は才気にすぐれていたが、狷介(けんかい)で孤高な性格で非妥協的であり、独断的な振舞があったことは事実だった。それに、名声においては烏明・百明を凌ぐものがあったから嫉みの感情が働いたことも疑えない。烏明・百明は次第に白雄を嫌い憎むようになっていった。そして、安永五年(一七七六)九月、烏明はついに白雄を破門してしまった。百明も烏明に同調し、白雄と絶交するにいたったのである。
 
    

4


 百明の俳句はまとまった集としては伝えられていないが、東金市堀上の篠原家に伝えられている「春発句合(はるのほっくあわせ)」という小冊子があり、その中に百明の句が一六一句収められている。この中九四句を「東金市史・史料篇四」(一〇三二-一〇三五頁)に抄出しておいたから参照してほしい。また、前記の烏明・百明共編の「俳諧提要録」の下の巻に、同門の俳諧や発句が掲載されているが、その中から百明の俳句を取り出してみると、
 
   朝日影さすや野寺の梅わかな
   卯の花にしいて雨降る朝気かな
   初雁やおもへば宵の大あらし
   冬こもりこらへ兼ねてや呵(しか)る声
     酔中風流に夸(ほこ)る
   月ひとりかかる夜半には雲もがな
 
のごときものがある。
 だいたい、百明の句は平明で常識的で、分かりやすいが、これという個性的な特色が見出せないものが多い。自然さを尊ぶ心はいいとしても、平俗に流れてしまう習性がある。「俳諧提要録」の後序などを見ると、文章のほうが達者であったのではないかという感じがする。なお、同書には、彼が鳥酔・烏明その他の同門と詠んだ俳諧歌仙や、烏明と二人の両吟俳諧も載っている。歌仙は烏明の立句である。第三までは左のごとくである。
 
 「 人や来し折戸の蝶のはなれぬる          烏明
    頭あぐれば匂ふ春風              百明
   鑪(やすり)ふむ者ども桃に木(こ)隠れて            鳥酔
             (後略)              」
 
両吟のはじめの部分は左のごとくである。
 
 「 光り添ふ在明月(ありあけづき)の牡丹かな            百明
    おもひもうけずほととぎす聞く         烏明
   旅なれや樋守(ひもり)にちかふ膝くみて          烏明
    作りもはてぬ蓑(みの)はさけたり           百明」
 
 ところで、百明には、ぜひ果たしたい一つの悲願があった。それは、師の鳥酔が早くから念願していながらついに達しえなかった、芭蕉の奥の細道を行脚する計画を、自分が師にかわってやり遂げようということであった。それを彼は鳥酔の死後やりおおせたのである。彼は師鳥酔の遺骨を首にかけて、芭蕉の足跡を追いつづけ、「奥往来」の一巻を綴ったというのであるが、それが何年のことだったか分からないのである。また、「奥往来」そのものも伝えられていないのである。残念のきわみである。
 
    

5


 さて、百明の生活状況はどうだったか、これもまるで分かっていない。ただ、彼が妻帯していたことはたしかで、彼の夫人は江戸の人で、木の女という俳号をもつ女性であったが、本名も出自も不明である。彼女はわりに教養があって、俳句のほかに和歌もつくり、書も人に教えるほどの腕はあったという。俳句の作としては、「俳諧提要録」の中に、
 
    混雑
  雉の声おもはず着きし入江かな
 
という句が載っているが、右の「要録」が出た安永二年より九年前の宝暦一四年(一七六四)に鳥酔の編集した同門の句集「わか松原」の中に
 
  鶯やここに岩戸の放し鳥
 
の一句が出ている。同集には東金関係では、関原巨梅・飯田雨林・同林鳥・内田梅香の句も一句ずつ出ているのに、百明の句は見えない。すると、木の女のほうが百明より早く鳥酔に入門していたのかもしれない感じがしてくる。前述のように、百明は少なくとも明和二年(一七六五)、すなわち宝暦一四年の翌年までには入門していたはずだし、「わか松原」に彼の句が入っていないからといって、木の女より入門がおそかったとは即断できないことにはちがいない。木の女には、以上のほかに、田波啓氏が「東金文学散歩」で紹介している
 
  見せばやななづな花咲く庵の春
 
というのがある。女性らしい気のきいた作といえよう。また、関岡一葉氏が「東金文化協会報・第八号・第九号」に発表した「東金俳人について」で紹介した、「きさらぎ集」(何年版か不明)中の句として
 
  入る月の木の間も深し時鳥(ほととぎす)
 
というのがあるが、これなど相当いい句といえよう。
 百明と木の女が何時ごろ結ばれたかは、むろん分かっていない。俳句の取り持つ縁であったらしいことは想像できる。また、二人が江戸で知り合ったこともたしかであろうが、木の女は東金へ来ていたことがあるかどうか。そのことについて、田波氏はこう書いている。
 
 「『懐玉抄』にある鳥酔の文によると、東金の木の女と江戸の師(烏酔)とが句の贈答をしており、百明の死は師におくれること一五年であるから、彼女の東金来住は、むろん夫の生前であるとわかる。しかし、梅香女の死後であったという。また、この文によると、師(鳥酔)は百明のことを「叟(そう)」といっているので、百明の年齢がほぼ推定されるであろう。」(「東金文学散歩」)
 
念のため注を加えると、鳥酔の死は明和六年(一七六九)、百明の死は天明四年(一七八四)、梅香の死は宝暦一一年(一七六一)である。「懐玉抄」の烏酔の文なるものが、何時頃書かれたかは不明であるが、おおざっぱに考えて、梅香の死んだ宝暦一一年以後、烏酔の死んだ明和六年までの間(一七六一から一七六九の間)、八年の間に木の女は東金に住んでいたことが判明するわけである。もちろん、八年間ずっといたわけではないが、その期間に何年か何か月かは在住していたことになる。
 百明は鳥酔の死後は鴫立庵主となっていたから、住居もそこに移したことであろう。彼は天明四年(一七八四)七月二二日、江戸で死んだといわれているが、その間、木の女は百明と居をともにしていたか、それとも江戸にいたのかどうかも不明である。前引の田波氏の文章中に、木の女が東金に来住していた頃、百明は「叟」(老人のこと)といわれる年齢になっていたとすれば、その没年は六十歳頃にはなっていたであろう。すると、木の女も五〇歳を越えていたような気がする。百明に死に別れた木の女は、どうしていたかというと、雉子島雨城氏の「千葉県故俳人名鑑」によれば、
 
 「夫の没後、剃髪して書道指南を業とし、和歌俳句を能くせり。」(五一頁)
 
とあって、尼姿となり書道を教えていたということである。ところが、その後、彼女は夫の郷里たる東金へ来り住んだという。すなわち、同書はつづいて、
 
 「晩年、東金市前之内君塚喜右衛門号天年の宅に寄寓し、寛政三年(一七九一)六月二十四日没す。」(同)
 
としるしている。このことについては、関岡一葉氏も調査されて、前引の「東金俳人について」でふれている。氏は、「妻女木の女は夫百明死去後、晩年同社中であった前之内村の君塚天年の家に寄食して、手習い師匠をしていたという」と言い、天年の名を「君塚勇右衛門、苗字帯刀を許され名主役」とのべている。天年の名が喜右衛門か勇右衛門か、いずれが正しいか分からぬが、同人が「同社中」つまり鳥酔門下であったことから、以前からも交渉があり、木の女はそういう縁故を頼って、前之内の君塚家に寄食し手習師匠をすることになったのであろう。
 関岡氏は前之内へ行き、君塚家とその菩提寺の常覚寺を調査した結果、左のごとくその消息を書き伝えている。
 
 「同人(君塚天年)の後妻が江戸から来て、御針の師匠をしたという。行儀作法の正しく晩年は白髪を撫ぜつけていて、江戸から持参せし諸道具等立派なものであったと。先妻の子の豊三郎なる者は、江戸旗本へ婿養子したと云う。因みに、百五六十年前農村として、女手習師匠とは少しく疑問の点があるように思う。御針師匠とすれば、この人がいわゆる木の女の後身かとも思われる。俗名おわか、同家の墓地は同村常覚寺境内にある由なれども、同人の石碑など無いとの事。没年月戒名及び年齢等不明、寺保存の過去帳は、同寺が現在無住同様のため、残念ながら借覧することを得ず。君塚勇右衛門の俳句関係は現主人には少しもわからなかった。」
 
これによると、木の女は、はじめは君塚家に寄食していたけれども、後に、後妻に直ったらしいことがわかる。(木の女が君塚家へ来たのが、先妻の在世時か死去後かは不明である)それから、彼女が手習師匠をしていたのはおかしいというが、農村にも御針師匠が兼ねて手習いを教える例はたくさんあったので、この点はさほどこだわる必要はなかろう。なお、木の女が行儀作法が正しく、立派な道具を持っていたというのは、武家身分か御殿女中でもやった女かを思わせる。そういうこともあり得ない話ではない。また、彼女が「おわか」という名であったらしいことは一つの発見であるけれども、没年や年齢が分からないのは残念である。「千葉県故俳人名鑑」に没年を寛政三年(一七九一)としているのは、何に拠ったか、雉子島氏もすでに故人なので確かめようがない。寛政三年といえば、百明の死後七年目である。木の女が前之内へ来たのは何年のことかはっきりしないが、ともかく彼女は夫百明の死後、数年はその故地で過ごし、そこに身を埋めたのである。百明とは正に逆になったわけである。運命とは不思議なものである。
 東金に生まれた百明が、生活的にどういう関係を持っていたか、これもほとんどつかみようがない。ただ、俳譜関係では何人かの知友門弟があったことは文献が伝えている。それについては、「東金市史・史料篇四」の「百明門弟句集」(一〇三六-一〇三九頁)を参照してほしいが、そこには、如水・鶴州(本名篠原惟秀、別項参照)・葱舟・求魚(本名広瀬伝三郎)・雪光(本名水野松之助)・井蛙(せいあ)・延陵(本名飯田惣右衛門)・林鳥(飯田雨林の子・本名飯田弥五兵衛)・玉字らの名が見える。これらが全部門人とはいえないが、百明の指導を受けたか俳交のあった人たちであることはたしかである。また、成東町久原の山田化昔・同芝原の高橋梧風、長生郡睦沢村の斎藤梅柯、同郡一宮の奇風(姓不明)などは百明の俳友として親しかったといわれる。

杉坂百明の句碑(一宮町妙観寺)