東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(七) 文人

1 俳人

    

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 左明は白井鳥酔の高足として知られた俳人で、東金には縁があったので市内道庭石切の墓地内の高所に句碑が建てられていた。しかし、それが土崩れのために崖下に転落してしまい、そのまま永年放置されていた。それを残念に思った有志がその再建をはかり、昭和五八年(一九八三)四月、これを完成した。旧句碑は崖下から引き上げたが、碑面の文字はすっかり磨滅してしまって、全く判読が不可能なので、新たに碑をしつらえ、これに新しい撰文を刻し、旧碑と並べて、石切墓地の入口、義人大多和四郎右衛門(人物篇別項参照)の碑と相対する場所に建立したのである。その新碑文は左のごとくである。
 
 「 植ゑ植ゑてただ一枚の青田かな
             昨非窓左明
 
 左明は江戸中期の俳豪白井鳥酔の高弟で、松露庵と号し、一時南総九十九里浜に住み、この地を訪れ、青田の句を残したと伝えられている。この句碑は、もとこの墓地内の高所にあったが、後年崖下に転落したまま歳久しく、今日に至った。たまたま本年二月、この墓地の防災工事施工を機に、碑を調べたところ、碑文は全く磨滅していた。しかし、多くの人士はこの句をたたえ、その顕彰を望む声が強かったので、ここに有志と計り、道庭区当局の協力を得てこの地を選び、旧碑を移し、改めて一基の碑を建てて、その顛末を刻した次第である。」
 
これによって、句碑復建のいきさつはよくわかるが、左明その人についての記述はきわめて簡単である。それは、彼の伝記が非常に不明であることによるのであろうが、さりとて、昔時の東金人がわざわざ句碑を建てたくらいであるから、左明が単に行きずりの俳人であったとは考えられない。少なくとも、道庭の俳句愛好者たちとの間には、相当深い親しみがあったにちがいないと推察されるのである。

松露庵左明句碑(道庭)

 さて、左明はどういう人であったろうか。彼のことは、「俳諧大辞典」(明治書院刊。文部大臣賞を受賞したこの方面の権威書である)に、つぎのように記されている。
 
 「俳人。柳居門のころは南菊、ついで軽鴎と号した。夏冬庵・松露庵二世。宝暦十年 一七六〇八月十三日没、年五十、高家(こうけ)に仕官する家に生まれたが、致仕して南総黒戸の浜に住んだ。のち再び出府して、鳥酔の執筆をつとめた。『歌仙貝』の著がある。」(二五八頁)
 
きわめて簡略な記述であるが、とにかくこういう権威書に書き留められていることは、左明がそれほど軽い地位の人でなかったことを示すものであろう。なお、松尾靖秋編の「俳句辞典・近世」(角川書店刊)を検すると、やはり左明の項があるが、前引の記事とちがうところを指摘すると、「昨非窓(さくひそう)」という別号があったこと、「江戸の人」で「武家の出であるが致仕」したとあり、「高家」うんぬんのことが書かれていない。しかし、もっとも重要な点は、没年について「宝暦六年(一七五六)八月十三日没。五十歳(一説に宝暦十年没)。」と、「俳諧大辞典」の「宝暦十年」説より「宝暦六年」説をとっていることである。これはいずれが正しいか、にわかに断定は出来ないけれども、白井鳥酔研究の第一人者たる天野雨山氏の著「俳豪鳥酔」(昭和八年刊)に附載してある鳥酔年表の宝暦十年の項には(鳥酔はその年六十歳)「秋、安房上総に遊び、八月左明歿するや、出府して又松露庵に在りしが、烏明(うめい)を推してその三世とす。」(三二五頁)とある。宝暦六年説が何にもとづいているか分からないが、ここでは宝暦十年説をとっておきたいと思う。なお、烏明(うめい)は江戸日本橋の商家に生まれたが、家業を弟にゆずって俳道に入り、鳥酔に師事し、左明とは親交のあった人である。
 ところで、左明が宝暦一〇年(一七六〇)五〇歳で死去したとすれば、その生年は正徳元年(一七一一)となる。(元禄一四年(一七〇一)生まれの鳥酔より一〇年若く、享保一一年(一七二六)生まれの烏明より一五歳年長である。)身分は高家(こうけ)に仕えた武士であったとすれば、江戸で生まれたものと考えられる。高家とは、いうまでもなく、徳川幕府に仕えて儀式典礼をつかさどり、家禄は四千石から千石程度であったが、官位は高く大名に準ぜられた。これに属するのはいずれも名門で二六家あったが、左明がどの高家に仕えたかは分からない。彼が宝暦二年(一七五二)に編んだ「歌仙貝(かせんがい)」に「夏冬庵主人(左明のこと)は代々高家に仕官し、弓を握り馬に跨(またが)る」とあるから、幾代かにわたる高家侍であったようであるが、ここにも高家の名は示されていない。のみならず、彼自身の姓も名も伝えられていないのは困ったものである。
 
    

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 ところで、いま紹介した「歌仙貝」の記事であるが、この書自体はまだ見る機会が得られないけれども、前記の「俳豪鳥酔」の中にその文章(全部ではないが)が引用されているので、それを孫引きさせてもらうことにしよう。(はじめの部分は重複する)
 
 「夏冬庵主人は代々高家に仕官し、弓を握り馬に跨る修行の労して功なく、やまひに負けていまだ鬢(びん)二筋の白きをさへ生ぜざる齢(よわい)ながら、乞骸(きつがい)(辞職を願い出ること)して(中略)柳先師(佐久間柳居のこと)の門に入る。はじめは南菊といひ後ち軽鴎と呼びかへて、やや十とせあまり(中略)、かたちを変じて松露庵の文台に胡座し、筆とる事を勤め、左明の二字に書きかへ(下略)」(二七五頁)
 
この前半部には、彼が高家を致仕して俳人となった経緯(けいい)が抽象的に書かれている。致仕の理由としては二つのことがあげられている。一つは「弓を握り馬に跨る修行」つまり武士としての仕事が「労して功な」いことを知るにいたったためである。もう一つは、「やまひに負け」たこと、つまり性来病身であったか、あるいは後年何かの病気にかかって、宮仕えの労苦にたえられなくなったためである。おそらく彼は性格的にまた肉体的に武家奉公に堪えられないところがあって退任したものであろう。退任の時期は、「いまだ鬢二筋の白きさへ生ぜざる齢ながら」とあるから、四〇歳以前だったであろうか。武士が浪人するにはよほどの覚悟のいることである。ともかく彼は思い切って浪人し、同じ武士出身(幕臣)の俳人佐久間柳居の門に入った。柳居が死んだのは延享五年(一七四八)五月三〇日であるから、左明の入門はそれ以前ということになろう。その年左明は三八歳だったはずだから、入門は三八歳以前だったことになる。
 ところがそれがもっと早かったのではないかと思わせる手がかりがあるのだ。それは、宝暦一四年(一七六四)白井鳥酔とその門下の句文を集めて「わか松はら」(「俳豪鳥酔」所収)という書が刊行されているが、その中に「同庵古人部」という一章があり、鳥酔の古い俳友八人すなわち、左明・星飯・戸凉・白亭・野笛・鳶(えん)風・東睡・雪点の代表句一句ずつを示し、その後に、鳥酔は
 
 「右八士は、余、師命をうけて、かつしか(葛飾)に三斛(こく)庵を建立せしより食客にして、行脚(あんぎゃ)に雁行(がんこう)し、余と共に道を弘むるには、甚だ役したる信友也。(下略)」
 
という文を書き添えている。文中の「三斛庵」は、元文五年(一七四〇)三月、鳥酔の師たる柳居の肝煎りで開かれたもので、柳居は鳥酔を庵主に推したのである。鳥酔はこれによって宗匠の資格を附与されたわけで、これを機に彼はそれまでの号西奴を改めて、師の旧号長水の音を取って鳥酔と定めたのである。鳥酔はその時四〇歳であった。さて、右の八士の中に左明の名があるが、元文五年は彼の三〇歳の時である。すると、その頃彼は鳥酔の友人であり、したがって、柳居とも親しい関係にあったことは推量できる。だからといって、高家を致仕し柳居に入門していたとは断定できないかもしれないが、その可能性はあると見られよう。彼の致仕入門は早ければ三〇歳前後ということになりそうである。
 
    

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 左明は柳居に入門してから俳句をはじめたのか、それとももっと前からこれをたしなんでいたのか、それは分からない。しかし、前々から多少は関心があり、これに親しんでいたのではないかと思われる。ところで、彼は「南菊」という号を用い、また、「昨非窓(さくひそう)」という庵号を使ったということだが、「南菊」は柳居入門時の号だとしても、「昨非窓」はいつ頃から用いたものか判明しないが、この庵号は入俳後の彼の心境を語っている感じがするのである。まことに風変わりな号であるが、この「昨非」とは、有名な陶淵明の「帰去来辞」の中にある「覚今是而昨非」(今は是(ぜ)にして昨は非(ひ)なりしを覚(さと)る)という語にもとづいたものであることは明瞭である。「昨は非」であったというのは、おそらく高家の武士として窮屈な宮仕えをしていたことを後悔しているのであろう。それに比して、今の自由な境遇をよろこんでいることがこの号の裏面から察知することができよう。結局、彼は浪人してよかった、俳人となってよかったという満足感をいだいていたようである。なお、「昨非窓」の「窓」とは庵とか室とかと同義語と考えていいだろう。柳居も「蕗霞窓」とか「繊月窓」とかいう号をつけたことがある。
 
    

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 さて、前引のように、「俳譜大辞典」には「致仕して南総黒土(くろど)の浜に住んだ」とある。いったい、これはどこであろうか。
 黒土の浜(「黒戸」とも書く)は、古くは「更科日記」に出てくることはよく知られているが、その位置については、千葉市の黒砂の海岸とされているが、別説としては木更津市の盤州鼻(ばんずはな)であるとか、富津の海岸であるとかいわれ、それがさらに飛躍して九十九里浜のことであるという説が生まれるようになった。それは松尾芭蕉の「ほととぎす鳴くや黒戸の浜びさし」という句にからんで、俳人たちの間でいわれはじめたらしい。もっとも、茂原市に黒戸というところがあるが、特にそこを指すのではなく、漠然と九十九里浜を指すものと考えられていたようである。幕末の真忠組騒動(今の九十九里町地方を中心としておこる)のことを書いた本(筆名不明)に「黒戸の夢」というのがあるが、これもその一例である。ところが、その場合、九十九里の沿海地帯ばかりを指さず、もう少し広い地域を指す考えかたがあったようだ。
 左明が師事した佐久間柳居は両総地方を旅行したことがあって、その途次、東金へも立ち寄ったことがあった。(「両総紀行」)その時彼はこういう句を詠んでいる。
 
  「   黒戸の浜雨林亭にて
   木隠(こがく)れて見残しがたき紅葉かな 」
 
この雨林亭とは、東金の俳人飯田雨林の住居をさすことは明らかで、雨林は鳥酔門下で、東金の岩崎に住んでいた。柳居はそこをたずねてこの句をよんだのである。しかるに、柳居はその場所を「黒戸の浜」としている。これは、われわれ東金人から見ればおかしいけれども、江戸人柳居は東金をも九十九里浜に含めてしまっているのであって、これは、いわば当時の常識であったと考えられる。水口(みなくち)豊次郎氏は「当時は東金の今の公園から九十九里海岸を遠望するを、黒戸の浜と云ったらしい。(中略)又、東上総本納駅の西南二宮本郷村黒戸の高丘を黒戸の浜と呼ぶ。昔、公家が来て、まどろまじの歌(まどろまじ今宵ならではいつか見ん黒戸の浜の秋の夜の月(更科日記))かかれば、東金でも昔誰かが似寄った風光の故に詩化しての気分である。」(「上総東金蕉風復興の魁」ひむろ・昭和一四・七号)といっているが、つまり、一つの詩的イメージの所産と見られよう。であるから左明が「黒土の浜に住んだ」といっても、直ちに九十九里町に住んだというふうに考える必要はないと思う。おそらく彼は道庭に住んだのであろう。道庭を「黒土の浜」に含めてしまうのも不自然とはいえまい。句碑が建てられたのは、彼がその土地の人たちに相当親しまれていたからにちがいない。はじめに紹介した新碑文の中に「一時南総九十九里浜に住み、この地を訪れ、青田の句を残した」とあるのは、「黒土の浜」の場所を少し正直に考えすぎた結果のように思われるのである。だから、左明が黒土の浜に住んだというのは、道庭に住んだものと考えても、あながちまちがいではないと考える。
 柳居が東金へ足をはこんだのは、この地に彼の門人が多かったことによると思われる。本篇の別項に書いた作田東睡・勝田乙驢・内田梅香のほかに、杉谷鳥雨(東金新宿の人)・鶴岡鳥波(東金福俵の人)も柳居門であった。とくに勝田乙驢は飯田雨林の伯父であったから、柳居が雨林亭に草鞋(わらじ)をぬいだのも、乙驢の関係からであったにちがいない。さらに注意すべきは、乙驢は勝田姓を名のっているが、その生まれは道庭村の石井家で、もとは石井清兵衛と称していたのである。そこで、考えられるのは左明が道庭に住んだのには、必ずや乙驢の手びきがあったであろうということだ。この推察はかなり確実性があると思う。乙驢の世話で左明が道庭に住むようになり、自然に俳諧的雰囲気が醸成され、左明句碑の建立となったものであろう。左明がどのくらいの期間道庭にいたか、それは分からない。しかし、左明はやがて江戸へ帰ったのである。
 左明が江戸へ帰ったのはいつのことか、これもはっきりしない。「俳諧大辞典」には、「のち再び出府して、鳥酔の執筆(しっぴつ)をつとめた」とあるが、鳥酔の執筆となったというのは鳥酔の弟子となってその執筆をつとめたと見られ、それは柳居の死後であることも明らかである。すると、左明の道庭住は柳居の生前であり、また、その帰府は柳居の死と関係があったかと考えられる。柳居の死は前述のとおり、延享五年(一七四八)左明三八歳の時であった。柳居の後継者となったのは鳥酔であり、柳居の門人の多くが鳥酔に再入門することとなり、左明もその一人であった。鳥酔と左明とはもともと同門のよしみをもっていたから、師弟とはいっても、親友同志という関係にあったのである。そして、前述したように八士の筆頭にあげられていただけに、鳥酔門中の地位も高かったことと考えれらる。彼が執筆(しゅひつ)に推されたのも当然だったろう。執筆とは俳諧の会合の際に文台を前にして会員の句を懐紙(かいし)にしるしたり司会の役をつとめたりするものであって、おのずから宗匠の代理のごとき立場にあった。
 
    

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 さて、ここで前引の「歌仙貝」の記事をもう一度見よう。そのおわりのところに「かたちを変じて松露庵の文台に胡座し、筆とる事を勤め、左明の二字に書きかへ」とあるが、まず、「松露庵」とは鳥酔が寛延二年(一七四九)(柳居死去の翌年)江戸日本橋の鉄砲町に結んだもので、その年鳥酔は四九歳、左明は三九歳であった。左明が執筆となったのはこの年と考えられる。ところで、「かたちを変じて」とあるのは、どういうことであろうか。由来、俳人は僧体となる(特に壮年以後)風習がある。つまり、頭を圓め僧服をまとうのである。これは世外人として俳諧に専心することを世に示しみずからに誓うのである。左明も執筆となったのを機に僧体となり、いわば背水の陣をしいたわけである。
 次に、「左明の二字に書きかへ」とあるが、これは号を左明と改めたということだ。左明ははじめ南菊と号したが、その後、軽鴎(けいおう)と改号し、前引の記事に「やや十とせあまり」とあるから一〇年余この号を用いていたのを、左明とさらにかえたのである。これについて、「俳豪鳥酔」所収の鳥酔年表の宝暦二年(一七五二)の項に「春、門下の軽鴎に左明の号を与へて改号せしむ」とあるから、鳥酔の命令によったもののようである。この改号を記念して、同年、俳諧撰集「歌仙貝(かせんがい)」が上梓された。これは同門の発句・連句・諸家の四季吟、三六種の貝を詠んだ上総連の発句合(あわせ)を収めたものである。左明の個人句集ではないにしろ、彼の俳壇における地位を保証する撰集であるといえよう。この年、彼は四二歳であった。
 それから、四年後の宝暦六年(一七五六)左明四六歳の時に、もう一つよいことがあった。その年二月、鳥酔はかねてからの念願であった関西地方に蕉風を振興しようという計画を実現するため、一大決意をもって京大坂に旅立ったのである。五六歳の鳥酔としては、生還を期しない冒険でもあった。そこで、松露庵を左明にゆずり、後顧の憂えをなくして西行したのである。左明としては、ここにはじめて庵主の地位を得、宗匠たることを許され、いわば鳥酔門の後継者を約束されたわけである。
 こうして、師は旅立ち、弟子は留まることになったのであるが、離別の際、両者はたがいに別辞を取りかわしている。それは、宝暦六年刊行の「風字吟行」(「俳豪鳥酔」所収)に出ているが、鳥酔の「留別辞」は左のごとくである。
 
 「やや二十年来道の為めに箕濮(きぼく)の志①を曲げて、ひたすら折腰(せつよう)の人②にも似たりけり。かつ、常に他流を譏(そし)つて口に毒ある人となれるも、盗路(とうせき)③が犬の堯舜を吼ゆるにひとしく、我は唯、蕉門を知つて主一無適④なれば罪なかるべし。同門左明を松露庵に置きかえて、けふからは、先師(柳居)の遺骨一課并びに譲り給ひし点式一筒を長物とし、頭陀(ずだ)⑤の所帯に世の中よかれと、六気⑥に御(ぎょ)して遊ぶにかならず方なし。」(三七頁)
 
 注 ①世の中から隠退する考え。箕は山の名で中国の許由の隠れた所。濮は川の名で荘子が釣りを楽しんだ所。
  ②腰を折って人に従う人。
  ③中国古代の大泥棒。
  ④心に敬の誠を持ち、他に心を移さないこと。
  ⑤仏教的無常感の上に立つ生活。
  ⑥陰陽風雨晦(きり)明の六つの天気のこと。
 
これに対して、左明は次のような句に、長い詞書を添えて贈り、前途を祝福している。
 
 「  霞(かすみ)とともに都を立ちて、奥の秋風を聞きしむかしはしらず、我が師百明叟(そう)(鳥酔のこと、「百明」は鳥酔の古い号)は此のきさらぎや吾妻(あずま)を出でて、やうやう白河橋の麦秋(ばくしゅう)に至るなるべしと、おもひやりて、
  行きわたる白河遠し華(はな)の雲
                      左明  」 (同)
 
 関西に旅した鳥酔は、それから宝暦九年(一七五九)まで、あしかけ四年、種々の労苦を捧げたが、結果的には所期の達成にはいたらず、その年五九歳の老躯に哀愁の思いをつめて帰来し、やがて故郷の南郷地引村に露柱庵を営んで隠棲することにしたのである。その翌年五月末、旧師柳居の十三回忌のため出府したが、その後、また帰郷し、八月になって安房から木更津へ歴遊の杖をひいたのであるが、突然江戸から左明卒去の急報に接したのである。左明は八月一三日五〇歳の命を終わったのである。鳥酔は直ちに江戸に出て、左明の葬送をすませ、しばらく松露庵に滞在したが、間もなく烏明(うめい)を松露庵三世と定めた。その後鳥酔はなお元気で十年近く生きつづけたが、明和六年(一七六九)四月四日江戸の松露庵で六九歳の長寿をもって世を終えたのである。
 鳥酔より十年ほども前に、五〇歳の働き盛りで長逝した左明は、必ずしも幸福ではなかったであろう。ようやく庵主となり宗匠の地位を得て、これからという時であったから、心残りはあったにちがいない。それも彼が病身であったことに起因があったと考えられる。これまでの叙述でわかるとおり、彼の生涯は不明のことだらけである。姓名さえも分からないし、人物も見当がつかない。もちろん誠実で尊敬された人ではあろうが、具体的にはほとんど不明である。境遇についても、武家出身という以外、何も知られていない。病身だったとされるが、致仕後の生活などはどうしていたのだろうか。たとえば、彼は妻帯していたかどうか。鳥酔も烏明(うめい)も生涯独身だったが、左明のばあいはどうだったか。これは筆者の勘にすぎないが、どうも彼は独身ですごした人のような気がするのである。
 おわりに、左明の作句として伝えられるものはきわめて少ない。すでに紹介した「植ゑ植ゑて」「行きわたる」のほか、鳥酔関係の文献の中に出ているものを拾うと、次のような句がある。
 
 「  浪花より氷室(ひむろ)の題を得て
   桜見て悟て出たか氷室守 (「冬扇一路」)
   芭蕉忌やそこは誠の夢の跡(「壬生山家」)
    守黒忌開莚 宝暦七戊寅五月晦日興行
   守墨忌や山居の味の栗の花(「壬生山家」)
    注、守墨は佐久間柳居のこと
   うつむけばおもたき空や朧月(おぼろづき)
                       (「わか松原」)」