東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(七) 文人

1 俳人

    

1


 東睡は山辺郡作田村(九十九里町作田)の生まれであるが、少年のころ田間村(東金市田間)に移って来て、東金の住人となり、絵を描き俳句を作って、名を成した人である。とくに、俳人としては広く知られ、東金俳壇の草分けといってもいい存在である。しかし、この人の生涯は不明のことが多く、ごく概略のことしか分からない。
 東睡の墓は田間仲通りの中性房(院)跡の墓地の草むらの中に、さびしい姿で残っている。墓石の正面には「聞信院宗蓮日徳」と彼の戒名が刻まれ、石の側背面には、次のような略伝が書かれている。
 
 「作田東睡は同国作田の人なり。壮年の頃より画を嗜(たしな)み、風雅に遊び、理屈をはなれて居を田間に移す。爰(ここ)に住む事漸く三十余載(さい)なり。其の後、江都守黒庵主人を師とし、高弟鳥酔氏に随ひ、春東秋西の行脚(あんぎゃ)の国々へも漂泊して、一期(いちご)をおくりなどし、病臥にも一章を遣(のこ)して、命終る。さある志を空しくなすべきにあらねば、同門の乙驢(おつろ)・雨林等、鳥酔氏に語らひあはせて、碑面に其の句を刻し、不朽の形見となし侍(はべ)る而已(のみ)。
   降る雪や
     打払はずに丸合羽(まるかっぱ)           作田東睡
                 寛延三(一七五〇)庚午十一月八日卒」
 
これが東睡を知る唯一といってもよい手がかりであるが、文中の「江都守黒庵主人」とは、江戸の俳人佐久間柳居(りゅうきょ)のことで、東睡はこの人に師事したのである。また、「高弟鳥酔氏」は上総の俳人白井鳥酔で、東睡の同門で年齢的には東睡の方がずっと上であるが、後には師事した人である。右の碑を建てるについては鳥酔が主役として骨を折ったと伝えられる。この鳥酔が師柳居の死後七回忌にその追善のために編んだ「百蓮香」(宝暦四年 一七五四)の中に、東睡のことに触れた一文がある。
 
 「此の老人(注、東睡のこと)は初め西坡と云ひ、殊更先師(注、柳居のこと)を慕ひ、鳶風(えんぷう)上総庁南在・佐久間儀兵衛と心を合せ、南総の好士五百余輩をすすめて、やはらぐ国となしたる功は、先師も画工勝右衛門 東睡の俗称と云ふものありて、吹調(ふいちょう)し給ふ前書あり。」
 
これも彼の活動状況を語る貴重な資料である。以上の二資料をよりどころにして、彼の生涯をたどってみよう。
 東睡は名を作田勝右衛門と称し、作田村に生まれ、後、田間に移り、画工となり、壮年の頃から俳人となって、寛延三年(一七五〇)十一月八日死去したことになる。だが、これだけでは、何歳で死に、また何年に生まれたかが分からない。俳諧の研究家水口(みなくち)豊次郎氏の調査(「上総東金蕉風復興の魁」ひむろ・昭和一四・七号)によると、東睡は鳥酔より一二歳年長であり、寛延元年(延享五年)(一七四八)には鳥酔が四八歳、東睡が六〇歳だったのではないかということである。ところで、鳥酔は諸文献によれば、元禄一四年(一七〇一)に生まれ、明和六年(一七六九)六九歳で没している。そうすると、東睡は元禄二年(一六八九)に生まれ、寛延三年(一七五〇)六二歳で死んだものと見られる。
 次に、作田村で生まれたというが、その生家については全く分からない。また、田間に移ったというが、それが少年の時分だったという伝誦はあるが、確とした年時も不明だし、単身だったか、家族ぐるみだったかも分からない。画工になったというが、それだけで身を立てることは不可能だったにちがいないから、何かの生業についたと思うが、それも分からない。分からないずくしである。そこで、彼の生活コースのことは棚上げにして、俳諧コースに焦点をあてることにしよう。

作田東睡墓(田間・中性房)

 
    

2


 まず、彼が師事した佐久間柳居と白井鳥酔のことを簡単にのべる。この二人は他の東金俳人とも関係があるので知っておく必要がある。柳居は元禄八年(一六九五)江戸で生まれた。幕府直参の旗本で本所石原に邸があった。名は三郎左衛門長利。一九歳の正徳三年(一七一三)頃から俳句をはじめ、次年号の享保のはじめ時分には、いろいろな俳書に名が出るようになった。当時は長水と号していたが、彼が俳壇に重きをなすにいたったのは、享保一六年(一七三一)九月、同志四人とともに、俳諧選集「五色墨(ごしきずみ)」を上梓して、波紋を投げかけた時からである。四人とは中川宗瑞(そうずい)・長谷川素丸(そまる)(後に馬光)・大場咫尺(しせき)・松本蓮之(れんし)である。この書に見られる主張は、当時の俳諧が点取に堕し孕(はら)み句などという便宜的な句法が横行している弊を指摘し、また、洒落や譬喩(ひゆ)に重きをおく傾向に走るのを批判して、俳諧本来の精神を取り戻すことを訴えるところにあった。これは、かなりの反響をよび、俳諧中興の機運をまきおこす礎石となったことはたしかである。柳居はその立役者的存在であった。彼ははじめ貞門の内藤露沾の直系たる水間沾徳に師事したが、「五色墨」を出してから数年後に、伊勢派(麦林派)の中心俳人中川乙由(おつゆう)を師とするにいたった。伊勢派は各務(かがみ)支考の美濃派とともに、いわゆる田舎蕉門と称せられ、地方の民衆の間に根を張って、大きな勢力を持っていたのである。作風は蕉風を軸とするけれども、地方人相手であるから、どうしても平明浅俗なものとならざるをえなかった。柳居は伊勢派に属しながら、美濃派とも接近して、異色ある俳風を樹立したのである。柳居はいろいろな号をもっていたが、柳居を称したのは、元文末年(一七四〇)頃からだといわれる。延享五年(一七四八)五月三〇日、五四歳で死去している。
 白井鳥酔が柳居の門をたたいたのは「五色墨」が刊行された翌年の享保一七年(一七三二)のことだったらしい。鳥酔は上総地引(じびき)村(長生郡長南町)の生まれで、家は旗本領の代官をつとめる名門で、彼は父喜右衛門信利の長子として生まれ、享保六年(一七二一)二一歳の時父喜右衛門が没したので、その跡をつぎ代官となった。父喜右衛門は文才のあった人で、柳枝と号し俳諧をたしなんでいた。鳥酔はその血筋を濃く享けたのか、幼少時から文事に興味を持ち、父の指導で俳道に入っていた。父の死によって習慣的に代官職をついだが、世務に身を労することは好まなかった。そこで、享保一〇年(一七二五)二五歳の時、弟の喜六に代官をゆずり、みずからは剃髪して隠居してしまった。その七年後、思い切って江戸に出て、柳居の門に入ったのである。それから一二年後の元文二年(一七三七)処女俳諧選集「夏山伏」を発刊して地位を固め、やがて柳居門の最右翼たる実力を発揮するようになった。そして、柳居の死後は自然にその後継者となったのである。俳風においても、おおむね柳居の風を承け、知巧に走らず、平明さをねらいとしていた。
 鳥酔が師から許されて宗匠の資格を得て立机(りっき)したのは元文五年(一七四〇)四〇歳の時のことであった。彼は葛飾の地に庵を結びこれを三斛(こく)庵と号したが、葛飾では辺鄙なので、数年後日本橋銀(しろがね)町にこれを移し、その名も松露庵と改めた。門人も次第にふえて、土竜庵百明・木耳庵烏(う)明・昨非窓左明のいわゆる三明をはじめ、力量ある俳人が多く集うようになった。その中には、東金の作田東睡・四時亭雨林も数えられた。延享五年師の柳居が没すると、同門者で鳥酔に従う者がかなりあったので、松露庵もにぎやかになり、ますます名声が高まった。そこで地方からは彼の来遊をのぞむ者もふえ、鳥酔の地方出張もいそがしくなった。
 
 「松露庵ニ於ケル弘道十年ノ努力ハ、江戸ヲ中心ニ武蔵一帯ヲハジメトシ、上総・下総・常陸・上野・下野・信濃・甲斐・相模ノ関東一圓ニ於ケル鳥酔ノ声望ヲシテ、ハルカニ他門ヲ抽(ぬき)ンデテ遺憾ナキに及ブ……」(天野雨山「白井鳥酔伝及遺跡」)
 
この盛況に自信を深めたのか、鳥酔は進んで関西地方に自己の俳風を広めようと考え、宝暦六年(一七五六)五六歳の時松露庵を昨非窓左明にゆずり、関西に発向し、大坂に住んで、二年ほど京坂の地で活動したが、同九年(一七五九)また江戸へ帰って来た。その後は、関東各地に杖を引き、明和三年(一七六六)には大磯に鴫立(しぎたつ)庵を再興し、宝暦九年(一七五九)、明和二年(一七六五)、同五年(一七六八)の三回郷里の地引村に帰省している。こうして、彼は明和六年(一七六九)四月四日、江戸の松露庵で永眠した。六九歳であった。
 
    

3


 さて、東睡にもどるが、彼は壮年から俳諧の道に入り、はじめは西坡と号し、後に東睡と改めたという。では、柳居に師事したのは何時頃であろうか。前記の水口氏の調査では、寛保三年(一七四三)に出た「初冬忌」という句集に西坡の名があり、さらに同年の「柳居歳旦」には西坡の句が出ているという。また、それから三年後の延享三年(一七四六)に、号を東睡と改めたことが「門瑟(もんしつ)歳旦」(門瑟は柳居の弟子)に出ているともいう。すると、寛保三年までには入門していたと思われる。しかし、その年東睡はすでに五五歳になっていたはずで、その年より数年前に入門していたとしても、老境に近くなっていたことになる。水口氏はまた、左のように書いている。
 
 「又、(注、東睡の)友人雪点が『東睡は、耳順(じじゅん)(注、六〇歳)の賀に目も面白しと云へば』(延享五年三字題)とありて、延享五年 寛延改元は少くとも六十才、鳥酔は四十八才で、東睡よりズツト年下であつた。」(同)
 
そうすると、東睡は寛保三年(一七四三)には五五歳で、延享五年(すなわち寛延元年、一七四八)には六〇歳であったことになる。そして、前述したとおり、寛延三年(一七五〇)に六二歳で死んだのだから、彼の俳歴は十年に満たない位の短い間だったことになる。が、前引の「百蓮香」の記述によれば、師の柳居は東睡の熱心さには感心していたらしく思われる。特に「南総の好士五百余輩をすすめて、やはらぐ国となしたる功」と賛えた、俳風流布につくした功績のあったことは特筆すべきであろう。五百余というのはオーバーではあろうが、新俳人の養成に東睡が特別の手腕をもっていたことは、東金俳壇の形成に歴史的な貢献をしたことになろう。ただ、彼と心を合わせた鳶(えん)風という俳人が上総庁南(長南)の人で本名を佐久間儀兵衛といったこと以外が分からないのは残念である。前述したごとく、柳居はいわゆる田舎蕉門の開拓には意欲をもっていたので、東睡はその要請にこたえたものであろう。柳居の同志だった中川宗瑞なども上総の俳風開拓には力をつくし、東金より北辺の地域にその影響を残しているのである。
 東睡は柳居の死後は鳥酔に就いたもののようである。鳥酔は東睡より一二歳年下であるけれども、俳句の上では先輩であり、材幹もすぐれていたと思われるので、東睡も兄事したのであろう。同国のよしみで親しくしていたと思われるが、水口氏によれば、その交友の深さは兄弟もただならぬものがあったようだ。すなわち、氏はこう書いている。
 
 「鳥酔と東睡とは、肉身以上の俳兄弟で、鳥酔は宝暦の中頃、大阪滞留の金龍庵位牌堂に東睡のも安置し、宝暦十四年(一七六四)品川の松原庵では、東睡外七人の古人を追懐し、『行脚を雁行し、余と共に道を弘むるには甚だ役したる信友也』(宝暦十四年「わが松原」)と、鳥酔が東睡に対する愛惜敬慕は如斯(かくのごとく)であった。而して、其の墓碑建立に就ては、同志相談の主役を勤めた。」(同)
 
鳥酔が東睡のことを「甚だ役したる信友也」といっていたことは、よほど深い信頼をよせていたことを物語るし、水口氏が「肉身以上の俳兄弟」とたたえたのも、なるほどと思わせるところがある。なお、大阪の金龍庵というのは、鳥酔が大阪に芭蕉追慕の真情から建立した庵であった。また、「東睡外七人」の七人とは、左明(別項参照)・星飯・戸涼・白亭・野笛・鳶風(前出)・雪点の人びとであった。したがって、「信友」とはこれら八人のことを指したものである。なお、「松原庵」とは、宝暦一三年(一七六三)鳥酔の高弟烏明(うめい)が同門に呼びかけて、師のために江戸の品川鮫洲に建立した庵である。
 東睡の人柄や家庭生活については、何も伝わっていない。しかし、旅好きで活動家だったらしいことは想像できる。彼の健脚ぶりについては、柳居が詠んだ左の句がある。
 
  「西坡(東睡のこと)が老の足の健かなるを賞して
   山道も気さき頼母(たのも)し五十雀(ごじゅうから)」
 
これは、「柳居発句集」(柳居の作句千句を集めたもの。弟子の門瑟が編集し、寛政元年刊行された。)にあるものだが、五十になっても、五十雀(雀より大きく森林にすむ小鳥)のように敏捷に山歩きをしてたのもしいというのである。そういえば、墓碑に刻まれた「降る雪や打払はずに丸合羽」の句にも彼の颯爽たる姿が偲ばれる気がする。(丸合羽は袖のない合羽、坊主合羽ともいう。)なお、この句について、水口氏は、紀貫之の「雪ならば幾度(いくたび)袖を払はまし花の吹雪の志賀の山越」という歌を「換骨」したらしいとしているが、「丸合羽に積む雪を賞味するを句面に現はさず、余情に含ませた作は、先づ芭蕪の心法を得たと云つてよからう。」(同)とかなり高く買っている。「降る雪や」は彼の代表作として俳友仲間にも認められていた句なのであろう。彼の作句には、なお左のようなものが伝えられている。
 
 延享三年(一七四六)
   門並(かどなみ)や梅もかくるる煤(すす)の闇 (「門瑟歳旦」)
 延享五年(一七四八)
   草の戸や内に焚(た)く火も朧(おぼろ)影 (「三字題」)
 寛延二年(一七四九)
   行く春や麓にさびる桧木(ひのき)笠 (「鳥酔月次集」)
 宝暦九年(一七五九)
   鶯やによつと日の出る時の事(「わか松原」)
 
前記の「降る雪や」の句について芭蕉の心法を得ていると評した水口氏は、このほかの句についても「殆んど蕉風と云ってよい作である」といっている。それほどの評価が得られるかどうか多少疑問がある。しかし、骨格がしっかりした句を残していることはたしかだ。
 東睡は晩年の十年に満たない短い間俳句にたずさわったのであるから、作品も多くはなかったし、句集のごときものも残していない。彼はどちらかというと、柳居や鳥酔を助けて、啓蒙的な活動をした人だったらしい。実作家としてよりも、むしろ宣伝家として功績を残した人のような気がする。東金俳壇史の上でも、彼はもっとも早く現われて、長南(庁南)の鳶風らとともに啓蒙運動を展開し、俳諧の振興につとめたところに彼の本領があったと見られる。その意味で水口氏が「東金に定住し、其の地に努力した人として、先駆者を求むるならば、東睡を以て夫れに充てたい」(同)としたのは、妥当な見解というべきであろう。
 
    

4(勝田乙驢)


 さて、次に、東睡の墓碑銘にその名が出ている東金の俳人乙驢(おつろ)と雨林、および、同じ東金の俳人で東睡と関係のあった人たちについてふれておくことにしよう。
 まず、乙驢は本名を勝田喜左衛門といったが、雉子島雨城氏や吉井永氏の調査によると、彼は山辺郡道庭(どうにわ)村(東金市道庭)の石井清兵衛清貫の四男(末子)として生まれたが、二〇歳頃同郡田間村(東金市田間)の農業兼酒造業の勝田家の養嗣子となり、喜左衛門を襲名したということである。勝田家は田間の名門で、現在は歯科医院を経営している。
 ところで、乙驢の通称と俳号については、いろいろ問題がある。天野雨山氏の編著「俳豪鳥酔」には、白井鳥酔関係の文献が何種か載せられているが、その中に、宝暦九年(一七五九)飯田雨林の編集した「壬生山家」というのがあるが、それを見ると、鳥酔が大坂に建立した金龍庵に位牌をおさめてまつった「同門信友」の名簿があり、それを検すると、前記の東睡とならんで、「舟紅 勝田権三郎」とある。これは、上総の部にあり、姓が勝田とすると、乙驢とどういう関係かと思って、雉子島雨城氏の「千葉県故俳人名鑑」をしらべると、舟紅の名があり、その説明に、次のごとくある。
 
 「東金市田間。本名勝田権三郎と称し、宝暦年間同市道庭石井清兵衛方より勝田家の嗣子となる。又、剃髪して有定と号し、東金俳壇の元祖なり。」(一一三頁)
 
すると、舟紅・勝田権三郎は、乙驢・勝田喜左衛門と同一人であると見られる。ところが、同書には「眠雪」という俳人の名が見え、その説明によると、この人も田間の人で勝田権三郎と称し、享保一九年(一七三四)一一月一五日喜右衛門と改めたとある。さらに前引中の「有定(ゆうじょう)」の名があるかとしらべたら、これも出ていて、「東金市道庭、石井清貫の末子、宝暦五年(一七五五)亥(い)年十一月八日有定と号す。享年六十四才(注、この「六十四才」はまちがいである)」(二四二頁)とあり、これも乙驢のことと思うが、勝田家を嗣いだことは書かれていない。しかし、乙驢と同人と見てよいだろう。以上を総合すると、乙驢は喜左衛門・権三郎・喜右衛門という三つの名があり、号は乙驢のほか、舟紅・眠雪・有定の三つがあったことになる。もっとも、有定は法名と見た方がいいかもしれないが……。さて、うっかりしたが、「千葉県故俳人名鑑」の乙驢のところには、
 
 「東金市田間現勝田歯科の祖で、勝田喜左衛門と称し、酒造家であった。宝暦十一年(一七六一)没す。享年七十才。」(二六頁)
 
とある。ここには没年が出ている。なお、水口氏の前掲論文には、「乙驢は勝田喜左衛門、宝暦十一年六月十六日七十歳歿」と出ている。没年は一致している。これを逆算すると、乙驢の生年は元禄五年(一六九二)となる。東睡より三歳年少であった。
 まず、法名の有定は宝暦五年一一月につけたというが、これは死の六年前、六四歳の時である。剃髪してその名を称したとすれば、その年齢が相当だったろう。次に、「眠雪」の説明に、権三郎の名を享保一九年(一七三四)喜右衛門に改めたとあるが、これはおそらく喜左衛門の誤植であろう。この「故俳人名鑑」は非常に誤植が多いから、ここもそうだろうと考える。享保一九年は乙驢が四三歳の時である。この年に養父が隠居したか死亡したかで襲名したと見てよかろう。すると、権三郎は襲名するまでの名であったと見られる。ただ、問題なのは「壬生山家」が前記のとおり宝暦九年(一七五九)の編集であり、それは乙驢の年が六八歳の時であった。すると、権三郎の名が喜左衛門より後のものである感じがするが、必ずしもそうではあるまい。だいたい、「壬生山家」の編者雨林は後にのべるように乙驢の甥であって、雨林は叔父の若い時の名に親しんでいて、普通その名つまり権三郎を用いていたことだろうから、それを使ったのではなかろうか。しかし、俳号の方は改号することがあっても、仲間の仁義で新しい号を用いるようになるから舟紅と記したものではないだろうか。そこで、俳号は、はじめ乙驢でそれを眠雪と改め、晩年に舟紅とかえたのではないかと思う。しかし、普通その文人の号名をいう時は、いちばん終りの頃の号名を代表的に用いるものだが、乙驢のばあいは、さほど中央に名が知られたわけでもなく、東金的な俳人だったから、改名してもはじめの名がそのまま使われていたのではないかと思う。以上は筆者の独断かもしれないが、一応このように考えている。もし有力な反証が現われれば、その時には善処したい。
 乙驢がいつごろから俳句をはじめ、いつごろから柳居の門に入ったかは不明である。それについて、ちょっと気になることがある。それは、例の「故俳人名鑑」の中に「夜堂」という俳人の名があり、その説明が、
 
 「東金市道庭。本名石井清兵衛と称し、柳居門。」(二四〇頁)
 
となっている。道庭の石井清兵衛は、すなわち乙驢の実父ではないか。柳居門というのをそのまま信ずれば、この父が夜堂という号をもつ俳人であり、柳居に入門していたことになる。右の記事は簡単すぎるけれども、そのままに受け取れば、乙驢は俳諧の血筋を享けていたことになり、父から手ほどきを受けていたろうことが察せられる。東睡は乙驢と三つちがいであり、俳句道に入ったのが前述のごとく五〇歳ごろとすると、柳居入門は乙驢の方が早かったかもしれない。しかし、両者とも田間に住んでいたわけだから、深い交わりがあったと思われる。人間的にも俳諧の力量の上でも東睡の方が上だったろうから、乙驢はこれに兄事し師事するようになったのであろう。
 彼の句としては、その辞世の句が伝えられているのみである。
 
  常盤木(ときわぎ)の尽きる時来て若葉かな
 
この句は「鳥酔月次集」(宝暦一一年刊)に入っているものである。なお、乙驢の戒名は不染院浄法日行である。
 
    

5(飯田雨林)


 次に、雨林は本名を飯田弥五兵衛正俊と言い、東金市岩崎の生まれであった。飯田家は酒造りを業とし、相当の豪家であった。雨林は石井雀子氏の調査によると、本漸寺過去帳に、天明元年(一七八一)三月一二日八〇歳で死去したとあるという。すると、その生まれは元禄一五年(一七〇二)となる。乙驢より一〇歳若い。ところで、乙驢と雨林とは叔父甥の関係にあった。すなわち、乙驢の姉が雨林の母であったのである。だから、雨林は乙驢の指導で俳道に入ったと見るのが自然であろう。
 雨林の家は岩崎の東金公園下にあったが、佐久間柳居がここを訪れたことがある。それは柳居の「両総紀行」に
 
  「   黒戸の浜雨林亭にて
    木(こ)隠れて見残しがたき紅葉哉」
 
とあることによって判明するのである。ただ、これが何年のことか分からないが、柳居は延享五年(一七四八)五月に五四歳で死んでいるので、それ以前のことだったにちがいない。その頃は東睡も乙驢も健在だったから、この両人の招きで柳居は来遊したのかもしれないし、雨林がその時かそれ以前に柳居に入門していたことも考えられる。
 ところが、延享三年(一七四六)編集の「門瑟歳旦」には、雨林の句
   大空に旭一輪花の春
が入集している。門瑟は柳居の門人であるから、この年には雨林も柳居に入門していたと思われる。柳居が東金へ来たのもこの頃であったかもしれない。右の「大空に」の句について、水口氏は「伊勢調ながら器用な詞の用ひ方である。」(同)と評しているが、おおらかさはあるけれども、力強さが足らない感じだ。
 柳居が没して後は、雨林も鳥酔に就いたのであろう。鳥酔関係の文献のうち、宝暦六年(一七五六)板の「風字吟行」(天野雨山「俳豪鳥酔」所収)を見ると、左のような句が出ている。
 
  「   松露庵へ文通
   逃げ水の上に連れ立つ胡蝶かな
                        上総 雨林
   庭掃きの跡へまはるや落椿
                           林鳥
   聞くうちに目の眠うなる蛙かな
                           巨梅」
 
松露庵は鳥酔が寛延二年(一七四九)江戸日本橋に結んだ庵で、宝暦六年には左明が庵主となっていた。そこへ手紙で句を送ったのであろう。林鳥は雨林の子で通称は弥五兵衛といった。巨梅は東金の俳人で姓は関原である。この三人は揃って鳥酔門に入っていたわけである。
 それから、二年後の宝暦八年(一七五八)板の「冬扇一路」(「俳豪鳥酔」所収)には、次のような句が見える。
 
 「 短檠(たんけい)の眠り初や朧(おぼろ)月           東金 雨林
   青柳や伸びても深き水の色           林鳥
   動き止む雲のへだてや鳳巾(いかのぼり)           巨梅」
 
これも三人連名である。
 さらに、翌九年(一七五九)板の「壬生山家」(「俳豪鳥酔」所収)は、雨林に取って記念すべき集であった。それは、彼がこの集に叙(序に同じ)を寄せていることである。これは彼が鳥酔門で相当重きをなしていたことの証左である。その文を次に引用してみよう。
 
   「  叙
  発心(ほっしん)のはじめはしらず。名と利とのふたつをわすれ、花鳥風月を友として、扶桑(ふそう)(日本のこと)を浮遊しつ、倭(やまと)歌によって仏道を得たるとなむ。たまたま、東山の草宇(そうう)に風呂敷の肩をやすめて、書きすてられたるものさへ、今は金玉の集となりて、世に尊まるる圓位聖人(注、西行法師のこと)はさらなり、百明法師(注、鳥酔のこと)無分別に天(あまた)窓丸めてより、一筒の遊袋に十品の世帯道具を納めて、上手に嘘をつきありく事やや二十稔(ねん)(年に同じ)にあまれり。(中略、ここは鳥酔が各地を旅行したありさまを書いている。)爰(ここ)に、祖翁(注、芭蕉)を慕ひ詣来れる詞客手向の吟や、古碑再興のこころざしを資(たす)けたる信友の句々や、三庵(注、露柱庵(上総)・松露庵(江戸)・有明庵(京都))の句巣(くそう)や、かれこれあつめて號(なづけ)て壬生山家といふ。
     歳次己卯孟秋(宝暦九年七月)
                  南総古城下四時亭雨林撰」
 
 この文は旅の詩人西行のことから書きはじめ、西行を追慕して鳥酔が二〇年にわたって各地を遍歴したことを、西行の歌などをたくみに引用しつつ、古雅な文章で書き綴り(「中略」の部分はその部分にあたる)、最後に「壬生山家」を略叙しておわっているが、これを読むと、雨林が西行に傾倒していたこと、また、古歌古句等をかなり読みこなしていたことが分かり、彼の学殖のほどをうかがうことができる。鳥酔門下でも推重されていた所以も理解できる。
 ついで、五年後の宝暦一四年(一七六三)板の「わが松原」(「俳豪鳥酔」所収)には、その年一月一五日、鳥酔が東金の俳友たち、巨梅・雨林・林鳥・雉従(ちじゅう)・大至(だいし)らに対する親愛の情を書きしるした文が載っている。
 
 「他郷に在つて古園の知己にあふ、是れ四喜歌の一つなり。南総の詞友巨梅子、桑の枢(とぼそ)を押して入り、我が加寿を祝ひ、そこの雨林・林鳥父子の無為や、雉従(ちじゅう)・大至(だいし)が春酒のたのしみや、御殿山の鶯や、黒戸のはまのおぼろ月や、かつ芹沢の芹の今をさかりなるをつみ、手作りの菎蒻(こんにゃく)に献立をきはめて藁一苞(つと)にし、やや二十里を提げ来り恵(めぐ)む。まことに己れをしれる歓び、他の世上の人にあらずと、対して晤言(ごげん)す。
    時にむつみ月(注、正月)十五日、窓中の海上にはただ鳥のささ浪のみ
   さし向ふ目もみどりなり松のかげ
                        鳥酔   」
 
これは、巨梅が新年のあいさつに、東金産の芹やこんにやくを土産にして、江戸品川鮫洲の松原庵(宝暦一三年門人たちの寄進したもの)をおとずれたことを鳥酔がよろこんで書いたものである。真情のあふれたよい言葉である。巨梅はおそらく東金俳人を代表して江戸へのぼったものと思う。鳥酔と東金俳人だちとの交情の深さを示すエピソードである。なお、この時巨梅の詠んだ句も出ている。
 
 「   松ばらの庵にあそびて
   松原の奥猶(なお)深し春の海             巨梅」
 
 これに対して、雨林・林鳥・雉従・大至が次のような句を作っている。
 
     詞友巨梅子、松ばら庵を見て帰り其の庭前の春色を聞ては、我も共に遊ぶここ地して
   朝東風(こち)も百囀(さえづり)やまつの原            雨林
   声なうて空にあそぶや鳳巾(いかのぼり)           林鳥
   梅さくや面目坊のわらひ顔           雉従
     ことしは南総東金に春を迎へて、老師の閑居を想像す
   庵(いお)は今霞に船の品さだめ            大至」
 
東金俳人同志の交友のこまやかさもしのばれて、ほほえましい。ただ、雉従・大至については、全く伝不明なのが残念である。
 雨林についてつけ加えておくと、彼は学殖があった人だけに、蔵書家であったといわれ、おそらく東金俳人中でも第一の読書家であったのではないかと思われる。彼はまた筆まめで、同門というべき加舎白雄(かやしらお)(信州出身の俳人)から俳諧関係の書冊を借りてはこれを手写していたと伝えられる。雨林は八〇歳の長寿を恵まれ、晩年は東金俳壇の長老として尊敬され、後進の指導にも力をつくしたらしい。雨林の子林鳥は父の影にそうようにして鳥酔門において俳道をみがき、必ずといってよいように父雨林と名を並べて句集等に名を出している。ただ、没年その他が不明なのは遺憾である。林鳥の子で本名を飯田宗右衛門直俊といった雨兮(うけい)は醒(せい)庵とも号して、やはり俳人として名を成した。彼は祖父雨林・父林鳥の薫陶を受けた上に、下総蘇我(千葉市蘇我)の俳人雨塘(うとう)(本名小河原七郎兵衛)にも師事したという。雨塘は雨林とも親しかった加舎白雄の弟子だった先代雨塘を嗣いだ人で、有名な小林一茶と深交があった。雨兮は北村音人・河野呼牛らとともに、幕末期東金俳壇で活躍した。ともかく、雨林・林鳥・雨兮と、飯田家三代相伝の俳系を持ち得たことは稀有の例として特筆すべきであろう。
 
    

6(関原巨梅)


 さて、巨梅のことはすでにふれておいたが、彼は師の鳥酔とは特に親しい関係にあったことは前述のとおりであるけれども、鳥酔関係の文献のうち、明和二年(一七六五)板の「乙酉〓(いつゆうぎん)行甲乙記」は、その年の秋九月六五歳の鳥酔が常陸の笠間・水戸へ旅した紀行であるが、当時江戸にいた巨梅は、隅田川の渡し場まで師の鳥酔の旅出を見送った。その時のことを鳥酔は
 
 「南総東金の巨梅子、幸に見送り、隅田のわたし場にして別る。
     離歌
   とんぼうも水棹(みさお)わすれて物狂ひ
                          巨梅
     留別
   帰るまで淋しさ忍べ鴫一羽
                          鳥酔」
 
と書き留めている。師弟の情の深さに、心打たれるものがある。
 ところが、この巨梅の伝記がまるで分からないのである。生没年、生活環境などつかみようがない。彼が鳥酔門だったことは疑えないが、杉坂百明(別項参照)の門人でもあったといわれる。百明は東金新宿の人だったから、まず、百明に就いてやがて鳥酔に師事したものと考えられる。ところで、巨梅の句碑が東金の最福寺にあることは、知っている人もあるだろう。同寺の正面石段をあがって、宝蔵前を右へたどると、右手へちょっと入ったところに、小さい一五センチほどの碑がある。薄明のなかにひっそりと淋しげな姿で立っている。
 碑の正面には、
 
  妙法 堅樹院秀岳 秀澄院妙樹 自徳院覚証(詮) 霊
 
とあり、左側面には
 
   あさかほや木の葉は冬ぞ散(り)にける
                      関原氏巨梅建之
 
と記され、右側面には
 
   冬之庭南天能実者見事哉(ふゆのにわなんてんのみはみごとかな)           少年巨扇
     甲午霜月四日之吟
    安永四年乙未(きのとひつじ)霜月十有四日
 
と刻まれている。右の墓誌をどのように読み取ったらよいだろうか。筆者は次のごとく考える。これは、巨梅がその生前に、自分の子で少年の巨扇(俳名であろう)が死去したのを記念して建てたもので、堅樹院とは巨梅、秀澄院とはその妻すなわち、巨扇の母、自徳院とは巨扇のそれぞれの戒名を示し、「あさかほや」は巨梅の句であり、「冬之庭」は巨扇の句を漢文風に書記したもの、「甲午」は安永三年(一七七四)で、その年一一月四日に「冬之庭」が詠まれたことを示し、「安永四年」以下は巨扇の死亡した日を指したものと思われる。
 これによって、巨梅が妻を持ち、子どもが一人はあったこと(一人子であったかもしれない)、その子に死なれたことが分かる。少年とあるから、その子は一五歳以下で死んだものであろう。俳句が詠めるほどだから、利発な子であったのだろう。このささやかな碑は、愛児をうしなった巨梅のかなしみが、今もわれわれの胸にひびいてくる感じがするのである。
 
    

7(内田梅香そのほか)


 さて、活動家だった東睡は、東金地方に多くの俳人を育成した。その人たちは、東睡の仲介によって柳居に入門しているが、その一人に内田梅香がある。梅香はもっとも早く現われた女流俳人として注目すべき存在である。梅香は宝暦一一年(一七六一)九月、五二歳で死去したというから、その誕生は宝永七年(一七一〇)となろう。
 この人は、銚子柳屋の生まれで、一六歳の時に、東金新宿の内田弥次馬のもとに嫁いできたという。彼女の本名や家庭生活、あるいは子どものことなどは何も分からない。彼女の作句については、柳居関係の句集のうち、延享四年(一七四七)彼女が三八歳の時上梓された「研の友」に
 
   春もやや風に柳の身ごしらへ
 
の句がのっており、また、その翌年の寛延元年に出た「得手に帆」に
 
   鶴一羽置物にして青田かな
 
の句が見える。両句とも女性らしい才気を出している。
 柳居は延享五年(改元して寛延元年となる)に死去しているから、彼女も自然にその門から離れ、他の東金俳人たちと同様に、白井鳥酔に入門したもののようである。それが何時のことであったか、はっきりは分からぬが、さきにも引用した、鳥酔関係の文献中の宝暦九年(一七五九)板の「壬生山家」の「同門信友」の名簿に、東睡・舟紅(乙驢)・鳥雨(東金・杉谷又助)の名と並んで、「梅香女 内田弥次馬室」と出ている。それから察すると、宝暦九年までには鳥酔門に入っていたことが察せられる。それから、五年後の宝暦一四年(一七六四)板の「わか松原」を見ると、「古人部」というところに、
 
   鶯や百社の首途(かどで)おもしろし
             上総梅香女
 
と彼女の句が出ている。彼女は前述のとおり、三年前の宝暦一一年(一七六一)に死没しているから、これは追善の意味で入集したのであろう。ともかく、彼女は柳居・鳥酔両師に師事し、東金では杉坂百明夫人木の女とともに女流俳人として気を吐いていたわけである。
 梅香のほかには、今も紹介した杉谷(すぎや)鳥雨がある。鳥雨は東金新宿の名門杉谷家の第一三代当主であった人で、元来田間村(東金市田間)の生まれで村井吉平の子で又助という名であったが、杉谷家一二代の弥左衛門幸能の養嗣子となり、幸能の死後襲名して弥左衛門通幸と称した。田間生まれの関係で東睡や乙驢とも交わって、柳居に入門したものであろう。そして、柳居死後は鳥酔に就いたのであろう。晩年は江戸に住んだといわれるが、寛延元年(一七四八)閏(うるう)一〇月一八日に世を去っている。行年は不明である。彼の句で伝えられているものは見出されない。(なお、別項「杉谷直道」を参照されたい)なお、このほかに柳居門であった人に鶴岡鳥波がある。彼は福俵村の人で本名を十郎右衛門といった。前記の「壬生山家」の「同門信友」の名簿に彼の名もある。したがって、鳥酔にも師事したらしい。しかし、くわしいことは分からない。さらに、右の名簿には東金近辺の俳人として、雨坪村の布留川蕗堂(本名与次右衛門)や木原村の宍倉玉江(本名兵助)の名もある。蕗堂については「千葉県故俳人名鑑」に「柳居門、天保年中の人なり」とあるが、玉江についてはほかのことは分からない。