東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(六) 宗教家

    

1


 日英は日乗(別項参照)とよく比較される。二人はともに顕本法華宗の僧侶であり、ともに本漸寺の住職であった。日乗のほうが先輩で、日英は日乗を師としていた。しかし、二人の行き方にはかなりのちがいがあった。端的に言えば、日乗は学問派であったが、日英は行動派であった。
 日英は本漸寺の記録その他によれば、延宝四年(一六七六)八月四日、六二歳で死去したと伝えられる。すると、彼の生まれは元和元年(一六一五)ということになる。慶長三年(一五九八)に生まれたとされる日乗より一七歳若い。
 日英の父は北村(喜多村)甚左衛門である。北村家は東金新宿の草分けで、代々名主をつとめる名門である。しかるに、日英は元和九年(一六二三)九歳の時に、本漸寺に入って僧侶となった。これは、幼い彼の自発的な意志ではなく、親の考えによったものであろう。なぜ僧侶などにしたのだろうと、今の人は疑問に思うだろうが、その頃は「一人出家スレバ、九族天ニ生ズ」という考えは、現実的に信ぜられていて、しかも、庶人の子が世に出るためには名僧知識になるのが一つの有力なコースであり、名僧になれれば王侯貴族も頭を下げるから、むしろ望むところでもあったのである。だから、利発な子は僧にする風習さえあったのである。北村家にもそういう考え方があったのではないかと思われる。また、子を僧に出す時には、そこばくの家産を分与して持たせてやり、いざというばあいの保障とする習慣があった。僧侶の世界も金が物いうものであったから、出世のためにも財産は必要だったからでもある。北村家でも日英には資産を分け与えたものと思われる。
 元和九年当時の本漸寺の住職は名僧といわれた日信であった。この人は自然院と称し、大僧都にまでなった僧である。日英の先輩たる日乗は慶長一〇年(一六〇五)頃には入寺していて、すでに二六歳になっていたから、日英を指導することの出来るほどになっていたことであろうし、事実、日英はその後長く日乗の教えを受けたのである。日乗がその師日信から大きな感化を受けたように、日英も日信に学ぶことによって、大きな成長を遂げえたのである。日信は寛永三年(一六二六)九月二三日入寂している。そのあとをついで日乗は本漸寺七世の住職となったが、日英はその下でいわゆる附弟として修業をつづけ、寺務を助けた。日乗と日英との交わりは深かったらしく、北村家には日乗の書簡が保存されている。日乗は正保二年(一六四五)四月二三日、四八歳で没した。その時、日英は三一歳に達していた。その力を内的にも外的にも発揮すべき頃であった。日乗の後は東金岩崎の山岸家の生まれである日証が嗣いで八世の住職となった。日英は日証を助けて寺務に参画したのであるが、両者の交渉についてはよく分からない。
 承応三年(一六五四)六月、日英は宮谷檀林の玄頭となり、後さらに能化となった。日英もすでに四〇歳であったが、蓄積した学識を発顕して成績をあげ、彼の学徳を慕って来る学僧が多きを加えたと伝えられる。こうして、明暦三年(一六五七)一一月ごろまで能化の仕事にたずさわり、翌万治元年ごろには、宮谷本国寺の住職となり、檀林の堂塔修理などに力をつくした。こうして、万治三年(一六六〇)には、本漸寺の九世住職の地位についたといわれる。その頃、八世住職の日証はまだ健在だった(彼の入寂は寛文四年(一六六四)一〇月四日である)から、日英に職をゆずって隠居したのかもしれない。本漸寺住職の地位は、彼が待望していたものであり、その地位を得たことは、大きな喜びだったにちがいない。この年、日英は四六歳であった。

日英供養塔(御林)

 
    

2


 ところが、間もなく上総什門派の諸寺院をゆるがす大きな事件がおこった。それは、常楽院日経の不受不施派の流れをくむ日尚を中心として勃起したいわゆる万治法難の一件である。日尚は日経の門人日寿の弟子で、大沼田檀林と宮谷檀林で学び、日経の思想行動に深く共鳴し、日経式の折伏(しゃくぶく)運動をやって、上総諸寺院をはげしくゆさぶったのである。それに対して、上総十か寺のうち七か寺が反日尚運動をおこし、万治三年九月二三日、幕府の寺社奉行に訴状を提出した。日英も反日尚の立場を執った一人である。
 
 「万治三年九月二十三日、上総七カ寺、即ち、京都妙満寺隠居日聖、東金本漸寺日英、田中法光寺、北之幸谷妙徳寺日宗、土気善勝寺日悟、本寿寺日求、大網蓮照寺日這(しゃ)は連署して寺社奉行所に訴え出た。」(窪田哲城「日什と弟子達」一九四頁)
 
この結果、同年一二月、日尚は、「不受不施の強義(ごうぎ)」を説く不逞の僧として、三宅島に配流された。この事件はこれで一応片づいた形であるが、しかし、底流はなお流れやまず、日英の心境にも微妙な影響をあたえることになるのである。
 寛文三年(一六六三)日英は什門派の本山たる京都の妙満寺の三八代の貫主に就任した。これは最高の地位である。日乗も三二代の貫主となっているが、日英も先輩と同位にのぼることができたのである。ところで、妙満寺の貫主は末寺の住職が輪番で就任するという慣例があって、日英の前の三七代は不受不施派の日経の弟子の日忠であり、日経もかつては貫主となったことがあり、穏健派も革新派もあって、それだけ本末交流の態様が見られたのである。
 ところが、寛文五年(一六六五)七月、幕府は仏教宗派内の不統一の状況をそのまま放置するのは宜しくないとして、宗派内の統一をはからせるよう指令を出したのである。この指令のかくされた目的は不受不施派のごとき「強義」の宗派を締め出そうとすることであった。ところで、日蓮宗は昔から内紛があっても外患には一致して当たるという習慣があり、この時にも京都の十六本山が団結して、門流に捉われず、自重しようと協議したが、それは結局政府の方針を受け入れようということになる。それに対し、妙満寺だけは自派の内部事情から政府の「法理一統」の方針に従えないとして、賛同の押印をこばんだのである。当時、日英は「妙満寺隠居」となっており、貫主は三九世の日休であったが、自分が責任をとるつもりで、幕府に対して返状(返書)をおくり、妙満寺の実情を訴えたのである。これが同年九月八日のことであったとされる。その趣旨は、妙満寺派(什門派)は他宗派とちがって、本山の貫主を末寺の住職が輪番で担任することになっており、本寺末寺が特別の関係をもっており、「末寺同心仕ラズ候ヘバ、則チ妙満寺破滅ニ及ビ候」という事情があるから、法理不一致と見られようとも、特例としてお許し願いたいというところにあった。つまり、彼は幕府の「法理統一」の主張に対して、「法理各別」を認めさせようとしているのである。それは結局、革新派つまり日経派の存在を当局に容認させようとすることになる。幕府に妥協を要求することになる。しかし、幕府が妥協するはずもない。日英が妥協を求めるのは日経流に共鳴しているからだと考える。そして幕府の下知に従わないのは、不受不施派に傾いているからだと判断する。すなわち、日英は反逆者だとされたのである。
 だが、日英はどの程度日経派の教義と行動とに心を寄せたのであろうか。日尚事件に反対の立場をとった彼が、ここにいたって不受不施に全面的にのめりこむようになったとも思われない。ただ、彼の心境に何らかの変化が生じたことは事実であろう。日経の門弟たる常源院日進が寛保三年(一七四三)に書いたという「捨邪記」には、日英が「輪番に当り本山妙満寺へ登り□□(虫クイ)秘記等を拝見して妙法寺日尚の怨敵となる事を懴悔のために大不受不施の高札を立ててこそ法理に叶ふ」と覚ったためであると記され、また、日進より後の「内証題目講」には、「後、懴悔して日什古正義を弘通(ぐずう)して日向(ひゅうが)へ流罪也」とあるということだが、(窪田哲城「日什と弟子達」二二六頁)これは日経派自体の評価であるから手前味噌ということもあろう。日英が妙満寺で「秘記」(この正体が不明なのは残念だが)を見て懴悔し「日什古正義」を弘通するようになったといっても、実証性を欠くので理解に苦しむが、「日什古正義」つまり日什の唱導した本来の精神に立ち帰るべきこと、不惜身命の諌暁(かんぎょう)精神を発揮すること以外に道はないことを悟るにいたったのではなかろうかと思う。
 
    

3


 かくして、日英は反逆者の烙印を押されて、その年すなわち寛文五年、九州日向国飫肥(おび)(宮崎県本郷町)藩主伊東祐実に預けられ、同地へ流罪にされることになった。ところが、それが一〇月二日のことであるという説と、一二月八日であるとの二説がある。一〇月二日説は飫肥に建てられた殉教塔の碑文(参考資料(一)参照)にもそう書かれてあり、この説が一般化されているが、日英の弟子日統が寛文一一年(一六七一)二月当局に提出した日英赦免願口上書(参考資料(二)参照)の中に「同(寛文五年)極月(十二月)八日御預りに仰せ付けさせられ候」とある。これは師僧の消息に通じていた弟子の書いたものだけに信憑性もあると思われる。しかし、両説のうちいずれが正しいかは、にわかに決しがたい。ただ、一二月八日は日英と同じ罪で同じ飫肥に流された日応(後述)の御預けになった日である。もし、一二月八日説を取れば、日英・日応両僧は同日に流罪されたことになるが、果してそうだったろうか。そこで、私見をのべれば、一〇月二日は処分が決まった日であり、一二月八日は日向送りが執行された日(つまり、日応と同時に)ではなかろうか。
 さて、日英が配流に処せられるに至った経緯はどうだったろうか。それについて、笹川日堂氏は中村啓堂氏あての書状の中で、
 
 「日英上人ハ京都十六本山ガ幕府ノ禁圧ニ懐柔(かいじゅう)サレタコトヲ慨嘆(がいたん)シ、又、教養上本迹(ほんじゃく)ノ勝劣ヲ糺明(きゅうめい)シタ為メ、十六本山ハ日英上人ヲ誹謗(ひぼう)シタ。依ツテ、日英上人ヨリ法論ノ願ヲ奉行ニ差出シ、奉行牧野某ヨリ所司代ヘ上申シ、所司代ヨリ江戸ヘ伺出デタル結果、何等ノ罪科ヲ糺明セズ、伊東出雲守ハ予(かね)テ日英ヲ帰依スルニ依リ、出雲守ヘ御預ケトナリタリ。」(中村啓堂「起塔供養」二二頁)
 
と説いている。いうまでもなく京都十六本山とは、すべて日蓮宗関係宗派の本山であって、この争いは日蓮宗内の内紛であったのである。「本迹ノ勝劣」とは、法華経二八品(ぼん)のうち、後の一四品を本門といい、前の一四品を迹(しゃく)門といい、本門を尊び迹門を軽んずる派を勝劣派といい、双方を同等に尊重する派を一致派という。日英の属する顕本法華宗は勝劣派から分かれたものである。ところが、一六本山が日英を誹謗したので、日英は正義を主張したわけである。彼はどちらが正しいか、「法論」をさせてほしいと願い出たが、奉行牧野某(この「奉行」は京都町奉行のことだろうが、当時牧野という奉行の名は見当らない)は京都所司代を通じて江戸の老中に裁断を仰いだ結果、「何等ノ罪科ヲ糺明セズ」に、日向の飫肥(おび)藩主伊東出雲守祐実へ御預けに処したというのである。
 こうして、日英は寛文五年一二月、日向へ流罪になった。ところが、それとちょうど同じ頃、京都上行寺の日応が日英と同じような罪で同じ飫肥に流されるという事件がおこった。この上行寺は後水尾天皇の論旨で建立された由緒ある寺院で、開基は常楽院日経の高弟日秀であった。日秀は慶長法難の際に、師の日経とともに江戸城内で行なわれた宗論にも列席した人である。この宗論は浄土宗との対決で、慶長一三年(一六〇八)一一月一五日将軍家康の面前で行なわれたが、その前に幕府の陰謀によって無法な暴力によって日経は頻死の重症を負わされたため、敗北させられる結果となってしまったものである。日秀は日経の死後も操持を変えずにいたのであるが、この日秀の弟子で、上行寺の二代住職となったのが日応である。日応は前述の日尚事件がおこった時も、日尚擁護の運動をやったほどで、日経・日秀から受けついだ精神に生きようとしていた。そして、日英の事件にぶつかったわけで、同じ京都の同宗の僧侶であるから、交際もあったことであろう。自然の情から共感して、これに呼応し、京都所司代に上書して、一六本山派の不法を訴え什門派の別建立を主張したのである。そうすると、幕府は日英と同様の扱いで、一一月八日、同じ飫肥へ配流することに決定した。ところが、日応は身の不安を感じて、一時加賀の国に身をかくしていたが、呼び出されて免がれぬところと観念し縛につき、日英とともに、一二月八日(「赤坂常玄寺文書」による。ただし、笹川日堂氏は「十二月七日」としている(「起塔供養」二九頁))日向へ送られることになったのである。
 
 「日英・日応両上人殉教流罪の原因は、法華経の経理日蓮主義教学法門上の論争で、その是非を論じて公訴に持ち込まれた為で、慶長の宗論とは異って、他宗との法論ではなく、同じ日蓮門下の軟弱、権力屈従に対する批判諌争からでした。」(「寛文法難妙満寺とその郷之原」一七頁)
 
と、中村啓堂氏がいうとおり、日蓮宗内部の対立抗争であって、前にも説いた慶長法難のごとき、浄土宗との対決というような大きな問題ではなかったので、当局も手早く処置してしまったのである。中村氏は右引用文のあとに「事を表面沙汰にすることを恐れてか、早く流せと言うわけで、何等の理由も附せずに」(同書、一八頁)日向へ流したとのべているが、たしかにそうであったろう。日英の要求どおり宗論させるようなことをしたならば、日経・日尚両事件の二の舞い、三の舞いにならぬとも限らないから、ろくに糺明もせずに、迅速に刑の執行をしたわけである。日英も日応も当局に訴えた以上は、諌暁に徹しようという覚悟はしていたにちがいない。しかし、当局はそれをさせてはどんなことになるか分からないから、闇から闇に葬ろうとしたものであろう。
 
    

4


 中村氏は、昭和一九年(一九四四)二月、日英・日応遠流の地たる日向の飫肥に、殉教の供養塔を建立した時の式辞で、
 
 「日英上人日応上人の法と国家とに於けるや、経王法華の全句に叶ひ、蓮祖(祖師日蓮)立法安国の大義を継承し給へるなり。実(げ)にや其の色読の如法なる、其の信念の堅確なる、気節の高き、徳持の円満なる、識見の卓絶せる、当時門流の第一人者たるは論なし」(中村啓堂「起塔供養」五九頁)
 
と両僧の卓抜な人格と徳操とをたたえた後で、
 
 「時に天下の宗風は蓮祖の正統を没して幕命に追従し、宗門の高風を失はんとす。ここに日英上人は本山妙満寺を督し、日応上人は上行寺に住持して、盛んに妙経の正義を鳴らし、本化(ほんけ)の意気を高揚して、国家の精神を回復せしめんと勉め、正義の叫び一日も休息することなくして、遂に是非を公庁に訴へて法論を失ひ、彼此(ひし)の邪正を糾(ただ)さんとす。ああ、されど、人法共に正義を失へる徳川幕府は、其の公訴を闇に葬りて、二師を待つに日向遠流(おんる)を以て科せり。」(同)
 
と、幕府の措置の不当を鳴らしている。
 ところで、日向へ流されたのは遠流にはちがいないが、不受不施の僧らが島流しにされたのとはちがって、軽い処置である。しかも、飫肥藩主の伊東祐実は日蓮宗の信者で、むしろ両僧を歓迎するような気持で受け入れたのであった。これは、両僧にとって幸福なことであった。祐実は伊東家五代の当主で、寛永一二年(一六三五)に生まれ、正徳四年(一七一四)八〇歳で没している。日英・日応が配流された寛文五年には、まだ三一歳の若殿様であった。この人は藩主としても、なかなか手腕のあった人で、長い間隣藩の島津藩との間で係争されていた牛ノ峠境界の問題も彼によって解決されているし、いろいろ善政を施して評判のいい藩主であった。ところで、祐実は伊東家五代の藩主と書いたが、これは豊臣秀吉の九州征伐の時に戦功を立てて、飫肥の本領を安堵された祐兵(すけたけ)を初代とする考え方(諸書この考えを取る)によるのであって、実は伊東家は鎌倉時代から伊豆伊東に領地をもつ大名であった。初代は有名な工藤祐経で、六代祐持の時に九州日向に国替えされ、七代祐重の時から伊東氏を名のるようになったもので、初代から数えれば祐実は二二代になる。由緒深い名門であった。
 さて、伊東家の初代工藤祐経の孫三代祐光の時、それは弘長元年(一二六一)五月のことであるが、日蓮が伊豆伊東に流されて来た。その頃、反日蓮の急先鋒であった祐光は、日蓮を笹海ケ浦の爼(まないた)岩に孤居せしめて捨て殺しにしようとした。ところが、漁師の弥三郎という者が日蓮を助け出したので日蓮は無事だったが、祐光はえたいのしれない難病に取りつかれ、どうしても直らない。そこで、やむなく日蓮の法力にすがったところ、不思議に全快することができた。それ以来伊東家では熱心な日蓮信者になったというのである。当主祐実もその伝統によって、熱心な日蓮信者であった。前引の笹川日堂氏の書状には、祐実が「予テ日英ヲ帰依スルニ依リ」とあったが、これをそのままに受け取ると、祐実は前々から日英を知りこれに帰依していた、ということになり、幕府はそれを知っていて、日英を日向へ送ったことになる。すると、そこに幕府の温情を見ることも可能になるであろう。事実、両僧は流罪の身ながら、普通の囚人のような扱いは受けることなく、それぞれ寺を持って布教に従事することさえ許されていたようである。
 
    

5


 日英・日応の二人の流刑地は飫肥から二里ほど離れた北郷村郷(ごう)之原(宮崎県北郷町)というところであったが、ここに、妙満寺・上行寺という二寺を建立して二人がこれを住持していたということだ。しかし、このことは長い間分からなかったのであるが、飫肥の郷土史家上之城民平氏が伊東家の古文書をしらべたところ、関係ある記述を発見した。そのことを氏は
 
 「藩主歴代の重要事項を摘録せる文書を閲せし際、不図(はからず)洞林公祐実hb
 
   寛文五乙巳(きのとみ)年妙満寺上行寺御預り、下郷之原に被召置(めしおかる)
とあるを発見し、……」(「起塔供養」所収、殉教塔建立に寄す、七六頁)
 
と書いている。下郷之原とあるが、これは郷之原が上(かみ)、下(しも)と二つに分れていたのであろう。御預りとは、藩主から預かったということで、妙満寺・上行寺は、京都で日英のいた妙満寺、日応のいた上行寺のそれぞれ同名の寺を祐実が建てて両僧にあたえたと考えてよさそうである。右の「寛文五年云々」の文中には日英・日応の名は出てこないが、郷之原に建てられている殉教塔の碑文(笹川日堂撰文)に、二師厚ク領主ノ帰依庇護ヲ受ケ、応師ハ同所ニ上行寺ヲ建立シ、……英師又妙満寺ヲ草建シ」(「起塔供養」六三頁)とあるように、日英には妙満寺、日応には上行寺ということであったろう。ただし、二人が「建立」「草建」したとあっても、実際は祐実の建てたものであった。それにしても、祐実が両僧の心事をおもって、京都の同名の寺名をつけさせたというのは、心にくいばかりの気のくばり方である。
 ところで、妙満寺・上行寺はいずれもその後廃寺となってしまい、現在は妙満寺という地名を残すのみとなっているが、その廃墟を探訪した中村啓堂氏は当時の妙満寺の寺域が二万坪はあったことを認めて、
 
 「祐実が二万坪を妙満寺の寺地として、流罪人として預った日英上人に供養しましたことは、徳川幕府の圧力を恐れずに、いかに心から日英上人を敬仰し帰依したか、何よりも端的にその信心の深度と確実さを証するに足る物的証拠と言えましょう。」(「寛文法難妙満寺とその郷之原」八頁)
 
とのべている。それにしても、これほど意義深い二寺が、どうしてその後廃寺となってしまったのか、われわれには大きな疑問を投げかける問題である。
 かくして、両僧は流人ながらも幸せな月日を送ることができたのであるが、日応は元来虚弱な体質であったらしく、(「赤坂常玄寺文書」に「つねづねよわきお上人にてこれあるまま」とある。)郷之原へ遷ってから一年二か月ほどすぎた寛文七年(一六六七)二月一九日、五五歳でこの地に没してしまった。日英よりは二歳年下であったのに、先に逝ったのである。一人残された日英は流謫の悲しみに屈することなく、懸命な布教活動をつづけた。藩主祐実は日英のために、さらに妙経寺・日英寺の二寺を建立したと伝えられる。民衆の帰依があつかったことが思われる。さらに、むしろ不思議に考えられるのは、日英は飫肥領内のみならず、他領への弘教をも許されたということである。中村啓堂氏は、大隅・薩摩方面から、熊本・天草・島原方面にまでも彼の足跡が及んでいるとのべている。(「寛文法難妙満寺とその郷之原」一〇頁)そのほか、日英の恩徳は海を越えて長門・周防地方にも及んでいった。彼がそこまで出かけては行けなかったであろうが、日英には流罪前から熱心な信者があって、その一人の長門萩の毛利藩士草刈太良左衛門は自己の知行所たる三隅(みすみ)村(山口県大津郡三隅)に了性院を建立して日英を開基に仰いだ。それは寛文五年三月、つまり流罪前九か月のことである。日英は長門まで行くことは出来なかったが、太良左衛門に出家をすすめている。太良左衛門は日英の配流後も日英への帰依をつづけ、同八年(一六六八)には山口県下松市切山に秋林寺を創建して、日英を開基としている。そのほか、年代は不明だが、日英を開基とした寺院としては、山口県萩市には妙性寺が、山口県岩国市錦見には日向寺が建立されているのである。流謫の僧が、かように仰慕されていたのは、おどろくべきことで、不思議にも思われる。日英の学徳がいかに高かったかを物語るものであろう。
 しかし、流人の汚名は消えることがなかった。日英を信ずる者たちにとっては、堪えられないことだった。特に彼の弟子筋の僧たちの中には、何とかして師が赦免されるように熱望して、その運動をおこす者もあった。日英の門下で、その後をついで本漸寺一〇代の住職となった日厳(ごん)(九十九里町片貝、古川家の生まれ)は、同じく門弟の勇猛院日統とともに、寛文五年(一六六五)一〇月末、日向配流の処分が決せられた日英の赦免を願い出た。もちろん、採用にはならなかった。これが第一回である。ついで、日英が飫肥へ移されてから二年後の寛文七年(一六六七)この年は時の将軍家綱の父家光が慶安四年(一六五一)四月死去してから一七年忌にあたり、特赦が行なわれるのに期待して、第二回目の願書を提出したが、これも取り上げられなかった。さらに、それから四年を経た同一一年(一六七一)御年忌の法事があるのに希望を寄せて、三たび嘆願してみたが許されなかった。
 こうして、日英は寛文五年飫肥に流されてから、一〇年すぎても罪を許されることなく、一二年目の延宝四年(一六七六)八月四日、とうとう配所で長逝した。行年六二歳である。仏教者としては覚悟すべき運命とは言いながら、思えば不遇の最期であった。
 日英の死後三年目の延宝六年(一六七九)に、日厳・日統の二人は日英の遺骨を故郷へ帰してもらいたい旨願い出たところ、今度は聞き届けられ、東金市谷(やつ)の通称御林の墓地に、分骨を埋葬することができた。墓碑(宝筐印塔)は日乗の墓碑の左側に建てられ、立塔の年時を延宝六年戊午(ぼご)極月(十二月)四日と刻んである。
 日英は東金に生まれ、故郷の寺院で壮年まで送りながら、その性行などはほとんど確実につかめない。逸話のごときも全く伝わっていない。中村啓堂氏は「生れつき剛毅明敏で学徳兼ね備えた、信念堅固の高潔正義の人でありました」(「寛文法難妙満寺とその郷之原」九頁)と評しているが、おおむねそのような人物であったと認識しておくべきであろう。
 ところで、最近筆者が眼にすることができた東金市田間の勝田家所蔵文書中の書留(筆者不明)の一節に、次のようなことが書かれている。
 
 「日英上人ノ一返題目ハ、雨坪母ノ曼荼羅(まんだら)ナルニヨリ、宝永元(一七〇四)甲申四月、雨坪ヨリ伝来。公方様御布施ヲ御受ケナサレザルホドノ大道念ナリ。之レニ依リ、日向ノ国へ流サレ玉フトキ、一返題目江戸ニテ御暇乞ノ時アソバサレタルヨシ也。」
 
一返(遍)題目とは一返(遍)首題ともいい、「南無妙法蓮華経」のことをいうが、宮崎英修編「日蓮辞典」には、
 
 「日蓮の大曼荼羅の書式に、広・略・要があり、列衆(書かれてある諸仏諸尊)の多いものを広式、比較的少ないものを略式、要法の題目だけのものを要式または一遍首題(題目)とよんでいる。」(一九頁)
 
と説明されている。さて、勝田家文書の筆者(勝田家の先祖)は宝永元年(一七〇四)(日英の死後二八年目)四月、日英の一遍題目を書いた曼荼羅を、日英の母の出身地たる雨坪(あめつぼ)(山武町)から手に入れたのである。(日英の母が雨坪生まれだったことが分かる。)この曼荼羅は日英が日向へ流される時、江戸で母に暇乞いをした際に書いて母におくったものだという。この文の筆者は日英は「公方様(将軍のこと)御布施ヲ御受ケナサレザルホドノ大道念」の人であるとして尊敬し、この曼荼羅を大切に保存していたのである。不受不施といえば、当時は禁制の邪教である。しかし、日英を生んだ東金人の中には、このように深い尊信を寄せる人がいたのである。それはおそらくこの筆者だけではなかったであろう。
 
  参考資料
   (一) 殉教塔碑文
 精進院日英上人ハ、上総国東金町ノ産ナリ。元和九年(一六二三)同所本漸寺日信法印ニ就イテ得度(とくど)ス。宮谷(みやざく)檀林ニ学ビ、万治二年(一六五九)四十八歳推サレテ本山妙満寺ノ法主(ほうしゅ)トナル。資性剛毅明敏ニシテ、学徳双備、能ク開祖日什正師(しょうし)帝都弘教ノ遺誡ヲ厳守シ、不惜身命(ふしゃくしんみょう)ノ行化(ぎょうけ)ヲ専ラニス。帰向者頗ル多シ。
 当時、京都地方教風不振、殊ニ徳川幕府執政以来、折伏(しゃくふく)禁断ノ令ヲ布キ、正義ノ主張ヲ弾圧ス。為メニ日蓮門下意気沮喪(そそう)シ、幕命ニ追従セントス。上人之レヲ慨嘆シ、立正安国ノ正義ヲ具陳(ぐちん)シ、国恩報答ノ信念ヲ披瀝(ひれき)シタル訴状ヲ提出ス。幕府公訴ノ事由ヲ糾明(きゅうめい)セズ、唯其ノ公訴ヲ不当トシ、上行寺学誉日応上人ト共ニ流刑ニ処シ、寛文五年(一六六五)十月二日、日向国飫肥(おび)ノ領主伊東大和守祐実ニ預ケラレ、同国郷之原ニ蟄居(ちっきょ)ス。然ルニ、二師厚ク領主ノ帰依庇護ヲ受ケ、応師ハ同所ニ上行寺ヲ建立シ、寛文七年(一六六七)二月十九日五十五歳行化半バニシデ示寂セラレ、英師又妙満寺ヲ草建シ、爾後十二ケ年弘通ヲ励ミ、延宝四年(一六七六)八月四日六十二歳示寂セラル。
 上人ノ堅確ナル護法護国ノ信念ト高潔ナル殉教ノ操守ハ、終生一貫シテ不言ノ教訓ヲ与ヘ、永世道念培養ノ厳誡ヲ貽(のこ)サレタリ。而シテ、其の霊蹟ハ時勢ノ推移ニ伴ヒ、草叢(そうそう)ニ委(い)シテ空シク其ノ名ヲ存スルノミ。
 時ナルカナ、上人滅後二百六十年ヲ経タル昭和十一年(一九三六)四月十九日、筑後柳河町妙経寺在職中村啓堂深ク上人ノ徳操ヲ追慕シ、孤身旧蹟ヲ探訪シ、往時ヲ追想シテ感慨ニ堪ヘズ、決然トシテ霊蹟ノ復興寺院ノ再建ヲ志願シ、爾来、数々(しばしば)往来シテ霊蹟所在地ノ購入ヲ遂(と)ゲ、此(ここ)ニ記念塔ヲ建設シテ、其ノ芳躅(ほうしょく)ヲ永ク世ニ伝ヘントス。願ハクハ、此ノ功徳(くどく)ヲ以テ、皇道増輝(ぞうき)、国家隆昌、常転法輪、万民安泰ヲ祝祷(しゅくとう)スト爾(しか)云フ。
                  大僧正笹川日堂 謹記
   (昭和一八年一二月二三日、日英謫居の地郷之原に建立された殉教塔の碑文)
 
   (二) 日英赦免願口上書
    恐れ乍ら御訴訟申上げ候口上書
          (カッコ内は編者の注記)
一輪番之役儀として、京都妙満寺え罷り登り候上総国東金本漸寺之住僧、(日英のこと)去る七年以前巳(み)年(寛文五年(一六六五))の冬、伊東出雲守(祐実)殿え御預けに罷り成り候。然るに、未(ひつじ)年(寛文七年(一六六七))大猷(たいゆう)院様(三代将軍家光)御十七年之御法事之節も御訴訟申上げ候。又、今年御年忌御法事之間、憚りを顧みず、御訴訟申上げ候。仰ぎ願はくは、御慈悲を以て弟子共悲歎仕り候旨聞召(きこしめし)上げられ、御赦免希(こいがね)ひ奉り候事。
一師匠御預けに罷り成り(二字不明)京都罷(まか)り下り、則ち十月之末に口上書を以て御奉行所え申上げ候へども、終に御尋ねも之れ無く、同極月八日に御預けに仰せ付けさせられ候。其の砌の様子、師匠指(さし)上げ置き申し候口上書に御座候事。
一師匠事、年も罷り寄り、病者にも成り申し、衰老仕り候様に存じ申し候間、弟子親類ども近処に陰居(いんきょ)致させ、養育仕り度く存じ奉り候故、御訴訟申上げ候哀願は、此の度御法事之間、御慈悲を以て御赦免成され、弟子親類共に御預け下され候様歎き入り希ひ奉り候。仍つて、訴訟之旨件の如し。
    寛文第十一年(一六七一)辛亥二月 日
            京都妙満寺陰居(日英のこと)弟子
                  上総国東金本漸寺
                    乾恕(日統)印
  謹上
    御奉行所
          (以上、中村啓堂編著「起塔供養」所収)