東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(六) 宗教家

    

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 日乗は東金の生んだ名僧の一人である。彼の父は市東刑部左衛門(しとうぎょうぶざえもん)(別項参照)であるといわれる。刑部左衛門は異常な死を遂げた反逆的な人物であったから、その子に生まれた日乗も奇異な運命を背負った人であったのだ。彼が僧侶となったのも、そういう運命が然らしめたといえるのである。
 日乗の生涯はよく分からないことが多い。文献(「東金開拓年表」(杉谷直道)「山武郡郷土誌」その他)の伝えるところによると、彼は正保二年(一六四五)四月二三日四八歳で死去したという。徳川家光が将軍だった頃である。それから逆算すると、彼の生誕は慶長三年(一五九八)となる。生まれた月日については、四月一七日だったといわれている。幼名は八太郎といったという説もある。この年の八月には、豊臣秀吉が没し、政権が徳川家康に移行されようとする大きな転換期に遭遇していた。日乗の父刑部左衛門が異常な死(自刃または処刑)を遂げたのは慶長一〇年(一六〇五)であったとされるが、その年日乗は八歳であった。(別説として七歳説(「布留川歴代記録」「鳳凰山本漸寺」)一一歳説(「山武郡郷土誌」)一三歳説(杉谷直道「東金町誌・草稿」)がある。)
 その時、日乗は父の罪によって、あやうく一命を奪われるところであったが、本漸寺住職によって助命されたというのであるが、そのことを杉谷直道は、
 
 「此ノ日乗ト申ス御方ハ有名ノ僧ニシテ、実父市東氏ナルモノ罪状ノ事アリテ死刑ニ処セラレマシタ。其ノ節、日乗ハ幼年ナルニヨリ、之レヲ助ケントシテ、本漸寺住職ガ自我偈(げ)ヲ教ヘマシタ処、一日ノ内ニ之レヲ覚エマシテ、翌日検使ノ面前ニ於テ読経(どきょう)ヲナシマシタニヨリ、僧侶ノ徒弟ナリトテ助命セラレマシテ、成長ノ後博学多才ノ名僧ト称ヘラレマシタ。」(「東金町来歴談」(稿本))
 
と書いている。この本漸寺住職は同寺の第五世日惣(元和二年(一六一六)五月一三日入寂)だと思われるが、父刑部左衛門の死後(杉谷直道は処刑説を取っている)日乗を引取り、俄仕立の小僧にし自我偈を教えこんで、前から入寺していたごとく役人の前をつくろってやったというのである。こうして日乗は僧侶にされたわけであり、この話は一般的に信ぜられているのであるが、しかし、これには異説がある。森川寛行編「千葉県東金町鳳凰山本漸寺」という書に引用されている文には、
 
 「日乗上人は、慶長年間の人なり。上総東金に於て産す。父は酒井左衛門尉政辰の家臣なり。市藤(ママ)刑部左衛門と号す。祖父市藤筑後守紀州熊野の士なり。時に師(日乗のこと)幼少より才智凡ならず。仍って、父志願し師を出家せしめんと欲す。師七歳遂に鳳山(本漸寺のこと)六世法印日信に投じ得度(とくど)す。」(二八頁)
 
とあって、父刑部左衛門がその生前、日乗が非凡な才智を持っているので出家させようとして木漸寺の六世住職日信に頼んで僧侶にしたというのである。「七歳」というのをそのまま信ずれば、刑部左衛門の死の一年前ということになる。この説によれば、日乗は父の意志によって生前に得度していたことになり、父の非業の死によって急遽執られた措置ではなかったことになる。いずれを正しいとすべきか、迷わざるをえない。

日乗供養塔(御林)

 なお、日信は傑出した名僧で、その後日乗はこの人を師として学問にはげむのであるが、年代的に見て日乗入寺当時の住職は日惣であったと思われる。しかし、事件当時、日信も在寺していたことは考えられる。日惣もすぐれた高僧で、最福寺の住職をも兼務し、徳川家康から最福本漸の両寺に御朱印三〇石ずつを与えられたのはこの人の住職時代だったともいわれる。
 
    

2


 ところで、刑部左衛門の死と日乗の処置にまつわる問題に、もう一つ異説がある。それは、山辺郡酒蔵村(東金市酒蔵)の名門布留川家(当主は一六代嘉門氏)と市東家の関縁にまつわることである。同家の古記録に次のような記述がある。
 
 「日乗上人生処ハ東金郷市東刑部左衛門御子也。亡父ノ遺言ニ任セ、法印和尚ノ契約弟子ト雖(いえど)モ、領主ノ下知トシテ男子皆死罪タルベキノヨシ。此ノ時、布留川与五右衛門縁有ルヲ以テ、円蔵寺境内ニ幸(さち)ノ岩屋アリ、此処ニ深ク置キ、撫育スルコト実子ノゴトシ。」(「布留川歴代記録」)
 
これによると、刑部左衛門は死ぬ前に遺言して(生前、日乗七歳の時に入寺させたのではなく)法印和尚(日信のこと、彼は大僧都法印となっている)の弟子になる契約があったけれども、領主の命令で刑部左衛門の男の子は皆死罪にせよということだったので、布留川家は市東家と縁つづきであったから、円蔵寺(布留川家の屋敷内にある妙高山円蔵寺、顕本法華宗、本漸寺末寺)の境内にある幸(サチ)の岩屋(今、乗師堀といわれるところ)にかくまって、自分の子のように養ったというのである。
 さて、右の布留川家の当主与五右衛門は東金酒井家に仕え、同家の家士録によると、七百石を領する旗奉行で三ケ尻衆の部将であった。(ただし、家士録には「古川」とある。「東金史話」三六頁)この人は慶長一七年(一六一二)一一月に没している(本漸寺過去帳)。市東刑部左衛門の祖父といわれる市東筑後守は七五〇石取りで羽黒衆の部将であったが、両家はいずれも本漸寺の檀家であるという関係もあって親しい交際があったといわれるが、布留川家の一族の女子が市東家の乳母をしていたので、縁が深くなっていたという伝承が布留川家に残っている。
 ところで、日乗が布留川家に引取られた時いくつだったか、右の引用文には書かれていない。刑部左衛門が死んだのが日乗の八歳の時とされているから、その年齢と考えたくなるが、布留川家の伝承では、日乗が生まれて間もなくのことで、それを布留川家の一族たる乳母が抱いてきて、かくまってくれるよう歎願し、日乗が三歳のころまで厄介になっていたという話なのである。そうなると、だいぶ事情がちがってくる。しかし、日乗の死が正保二年四八歳であり、刑部左衛門の死が慶長一〇年だったことが動かないとすれば、右の伝承は根拠のないことになる。ただ、異説として日乗は刑部左衛門が死んだ時、七、八歳になっていたが、近親の者に連れられて布留川家にかくまわれたが、そのことを当局が知って手がまわりそうになったので、本漸寺へ連れて来て住職の情にすがったのだという話もあることを附け加えておきたい。
 ついでに記せば、布留川家の屋敷内に日乗の木像をまつった乗師堂なる建物があって、その周囲には布留川家の家来筋の墓がいくつか列んでおり、妙満寺丗二世 本漸寺先師 日乗上人 妙高山円蔵寺という標柱が建てられている。屋敷は小高い台地上にあって、城砦の形状をもっており、土手がめぐらされ、堀が二重(一の堀・二の堀)につくられている。この二の堀を乗師堀といい、ここに日乗がかくまわれていたと伝えられる。このような事実から考えても、布留川家と日乗との関係はなみなみならぬものがあったと推察される。日乗は妙満寺派の顕本法華宗に所属していたが、乗師派とか乗師宗とかいう称呼があるとおり一流派をなすほどの信仰をあつめていた。乗師堂もそういう信仰者がバックにあって建設されたものであろう。
 本漸寺に入った日乗は円智という名をつけられたが、後みずから乾龍と改めたというが、第六世住職の日信について不眠不休の修業を積み、人を驚かすほどの智識を身につけて行った。
 
 「乾龍(けんりょう)と号し養徳院と称す。二十一歳、日迢日要と同じく台教(天台宗)を学び、日信講下に於て止観(しかん)を随聞し、止観述聞五巻を撰す。」(前掲「鳳凰山本漸寺」二八頁)
 
このように、若くして著述をするほどになったが、その勉学ぶりは
 
 「現存の遺書遺品に徴するに、日乗上人の勧学弘道の非凡、驚くべきものあり。上人経蔵に入り給ひし時の如き、単に一切蔵経を通覧せしのみならず、自ら蔵経中、阿含華蔵(あごんけぞう)等の大部を書写し、悉く注解を加へられし其の篤学、常人の及ぶ処にあらず。」(同、二九頁)
 
というごとき徹底ぶりで、それ故その進境も著しいものがあったのである。日乗が師日信に対して師恩を感ずること、また格別のものがあった。後年、彼四〇歳の時に書いたという文には、
 
 「余、生れて幾(いくば)くならずして親に後(おく)る。〓子(しんし)として上人の〓妁(かいしゃく)に預(あずか)り、剰(あまつさ)へ、弟子となる。庸(つね)に厚く鐘(しょう)愛を蒙り、深く教戒を受け、師長の顧愛に依りて、沙門(しゃもん)法器を成就(じょうじゅ)す。今や四十に逮(およ)び、其の切要の処知らざるべからず。噫(ああ)、蛍雪(けいせつ)の窓に書を照し、閑灯(かんとう)の下(もと)文を読む。是れ皆自然貴院(日信は「自然院」と称していた)の高徳日信上人の指南なり。」(同)
 
と、感恩の深さを述懐している。日信は命の恩人であり、養育の恩人であり、さらに学問の恩人であった。三重の恩を受けていたのであるから、師孝の情切実なものがあったのである。
 その日信が入寂したのは、寛永三年(一六二六)九月二三日のことであった。この年、日乗は二九歳であったが、彼は本漸寺七世住職となっているので、おそらく日信の死後その法灯を継いだもののように思われるが、実際はもっと後年だったようである。
 
    

3


 日乗は寛永六年(一六二九)三二歳の時に宮谷(みやざく)檀林で玄義の講義をやっている。つまり、出張教授に出たのであろうが、その教授内容について、「鳳凰山本漸寺」は
 
 「寛永中、宮谷学校に於て始めて法華玄義を講じ、則ち、玄籖(げんせん)考拾記十巻を作為す。其の間、衆徒を領し台教の諸部を講じ、各々疏鈔を述記す。所謂(いわゆる)名目条例三巻・集解誌議集七巻・歴承二巻・指要鈔随覧二巻・信行要道義・流通根源記等なり。」(同)
 
とのべている。述作をしつつの講義であって、かなり良心的なものであったことがわかる。
 日乗が宮谷檀林に出講していた頃は、東総では常楽院日経系統の不受不施の運動がさわがしかった。寛永四年(一六二七)には、南横川の方墳寺(日経派の拠点)が幕府代官三浦監物(けんもつ)によって焼打ちされ、その事件が日経派を刺戟して、潜行活動がはげしくなり、また、同七年(一六三〇)には、江戸の池上本門寺の不受不施派の大物日樹らが配流される等の事件がおこった。その間にあって、日乗は上総諸寺に動揺なからしめるため、かなり努力したのである。彼は同年「受不受記」なる文章を書いて、その中で、
 
 「当宗の所立は、受不施に非ず、不受施に非ず。取捨宜しきを得て一向にすべからず。大抵門家の法理は受施にあり不受施にあり、いわゆる毀(き)法供養は受くべからず、順法供養はこれを受くべし。」(中村孝也氏「常楽院日経門流殉教小史」より引用)
 
と記し、中立的合法的立場を堅持していた。この辺のところは、彼が父刑部左衛門のごとく過激に流れることを自ら誡め、中道を行く姿勢をとっていたことを示すものである。日乗はまた、「流通搜源(そうげん)記」の中で、
 
 「時に適(かな)ひ機に応ず。唯、法灯を久しく挑(かか)ぐるに在り。……制を濫(みだ)さず法に符契(ふけい)するときは、但だ教風永く扇(あお)ぐに在り。苟(いやしく)も此の宗教を克くせずんば、何ぞ弘経(ぐきょう)の人たらんや。」
 
と言っているとおり、体制に随順して時の流れに逆わぬことをモットーとしていた。この点、後輩の日英(別項参照)とは対蹠的といっていい。興味深い事実と言わなければならない。で、日乗は寛永一二年(一六三五)まで宮谷の能化(第六代)をやっていたが、その年、かつての学友、最福寺の啓運院日要に能化をゆずっている。同一六年(一六三九)春になって、彼は栄光の地位に就くことが出来た。すなわち、本山たる京都妙満寺三二代の貫主に迎えられることになったのである。そして、翌一七年秋まで京都に勤務していたもののごとくである。この間に権律師(ごんりつし)の僧位を授けられている。この京都在任時のことを彼は「信行要道義」の中に、
 
 「余、洛ニ来リ、遠遼(おんりょう)ノ山川ヲ渉リ、負笈(ふきゅう)ニ能(た)ヘザレバ、則チ時ニ親シク書籍ヲ看読(かんどく)セズ。又、事ノ紛愁(ふんしゅう)(わずらわしいことが多いこと)タルニ依ツテ、克(よ)ク義ヲ思フニ暇アラズ。文ヲ遺(わす)レ、意ヲ忘ルルコト、固(まこと)ニ其レ多シ。」(原漢文)
 
と書いているが、学究肌の彼は妙満寺本山住職の劇務のため、読書思索の時間が得られなかったことをさびしく悔いていたフシが感ぜられる。帰国した彼は、前からの約束で、成就院日如(千如坊と称し、別号を素休と言い、松永貞徳門下の俳人として知られていた。)にあたえる文を書き下ろした。それが前記の「信行要道義」である。この文のおわりには「寛永十七(一六四〇)庚辰(こうしん)九月六日」と記している。すなわち、この九月六日までには東金に帰り、もとのごとく本漸寺の住職の地位についたが(この時正式に七世住職となったものか)、ふたたび宮谷檀林の能化(第八代)をもつとめ、「文句述解」など八巻の著述をしている。
 名僧日乗の名も次第に広く知られるようになっていった。とくに碩学(せきがく)としての名声が高まったのである。寛永一九年(一六四二)二月一六日のことと伝えられるが、その日、江戸の品川本光寺において、同寺の住職日啓と芝増上寺の意伝との間に法論が催されたことがある。法華宗と浄土宗との宗論である。その結果、法華宗の日啓が勝ったのであるが、その話を聞いた将軍家光が日啓を呼んで、お前も法華宗の碩学だが、お前のほかに誰か碩学がいるか、とたずねたところ、日啓は、いや、私などは小僧も同然です。ほんとうの碩学は日乗です、と答えたという話がある。日乗の名が江戸城内にも知られていた事例である。
 また、当時の学界の最高峰ともいうべき林羅山(道春、大学頭、(一五八三-一六五七 天正一一-明暦三)が日乗に熱心に帰依して、南天の木でつくった立派な机を日乗に贈ったということだが、ある時、日乗が病床にあると聞いた大学頭は、一人の門弟に手紙をおくって、日乗師がご病気だと聞くが、どうか天下の仏法のために早く全快なさるようにと伝えてもらいたいと要請したということである。なお、羅山の推挙によって、日乗は上野東叡山寛永寺の学頭となり、同寺に所蔵されている経典の類を全部閲読することができたとも伝えられている。得難い機会を得たわけだ。また、寛永寺の開山は有名な天海(一五三六-一六四三 天文五-寛永二〇)であるが、彼が一〇年以上もかかって、一切経の刊行をやった時、(これを天海版という)日乗はその手伝いをしたともいわれている。どの程度の助力をしたかは不明であるし、天海との関係がどんな風であったかも伝えられていない。が、以上のごとき話柄は、日乗が学僧としていかに高く評価されていたかを裏書するといってよかろう。ところで、東金市松之郷の本松寺の過去帳の巻頭には、「過去帳縁起」と題して、日乗の書きしるした七行ほどの文(漢文)がある。これは、日乗の真筆で貴重なものとされているが、そのおわりに、「寛永廿一年(一六四四)甲申六月六日、律師日乗在判」と書かれている。日乗の僧位が権律師から律師に上昇していることになるが、谷(やつ)の御林にある彼の墓碑には「権律師」とあるから、そのままに受け取れない。ただ、世間では、日乗を呼ぶに、「律師乗公」という特別の尊称を使って、仰慕の意を表するようになっていった。
 日乗が入寂したのは、前記のとおり、正保二年(一六四五)四月二三日であった。本漸寺において、病のため亡くなったと考えられる。彼の墓は東金市谷(やつ)の俗称御林の千部塚(千部経を埋めたのでこの名がある)にある。
 おわりに書いておきたいのは、本漸寺に日乗を記念して設けられた乾龍文庫(養徳文庫)のことである。これは明治四二年(一九〇九)一二月一五日に開設されたもので、日乗の蔵書を整理保管しあわせて、百科の図書を蒐集し社会教育に資する目的で設置したものだ。碩学の恩徳を伝える貴重な記念である。これに明治の文豪徳富蘇峰寄贈の図書数百巻が加えられて、養徳文庫の名称でも呼ばれている。(乾龍文庫・養徳文庫の名は、日乗が養徳院乾龍と称していたことに因んだものである。)
  〔附記〕
  日乗の死については異説がある。それは杉谷直道が「東金町来歴説」(稿本)に「徳川三代将軍家ノ御世ニ当リ、品川本光寺ニ於テ浄土宗ト宗門上ノ問答アリシトキ、選抜セラレマシテ、品川表ヘ出発ノ途中、船橋宿(しゅく)ニテ悪人ノタメニ災害ニ罹リ、遂ニ落命ヲイタシマシタ。什門派(顕本法華宗)一同之ヲ惜マザル者ハゴザリマセン。」と書いていることである。これは病死ではなく変死ということで読み捨てには出来ないが、「悪人ノタメニ」とあるだけで事情の記述がないのでこの説を受け入れていいか迷わざるをえない。なお、右の本光寺における宗門上の問答について、直道は「鳳凰山本漸寺縁起」(稿本)の中の「乗師寮」という項で、「寛永十九年二月十六日徳川三代将軍家光公ノ御世ニ当リ品川本光寺ニ於テ浄土宗ト宗門上ノ問答アリシトキ選抜セラレシナリ。」とのべている。そうすると、日乗は本光寺の宗論の行なわれた寛永一九年二月一六日に死去したことになる。ところが、直道は別の稿本「鳳凰山本漸寺来歴談」には、「寛永十九年二月十六日徳川三代将軍家光公品川本光寺ヘ御成リニナツテ、浄土宗ト宗門ノ問答アリシ時選抜セラレマシテ出張ノ途中、船橋宿ニテ病ニカカリマシタ。什門派一同悲歎愁傷シテ是ヲ惜シミマシタソウデアリマス。」と書いている。これによると変死ではないことになる。「病ニカカリマシタ」とはあっても、死んだとはいっていない。しかし「一同悲歎愁傷シテ」とあるから、死んだことになるだろう。しかも、直道は本文のはじめに引用したとおり、「東金開発年表」には、日乗の死を「正保二年四月二十三日」だと明記しているのである。他の文献も皆この記を取っているから、寛永十九年説は信じがたい。ただ、直道は本漸寺のことはいろいろ書き残しており、もっともくわしい人であるのに、こういう矛盾を示しているのはどういうわけか。変死説を出したのはどういうわけか。疑惑をいだかざるをえない。
 ところで、また、変死説にもどるが、直道が「悪人ノタメニ災害ニ罹リ遂ニ落命」したといっていることが、実は毒殺であり、権威筋からの指令によったのだという説があるのである。つまり、浄土宗は徳川家の宗旨であって、もっとも権威をもっていたもので、もし宗論で浄土宗派が負けるようなことがあると大変なので、毒殺の手を使ったというのである。すなわち、日乗がいかに恐れられていたかを裏書きすることにもなる。彼の死が正保二年ということが動かぬとすれば、この変死説も一片の浮説に終わってしまうわけだが、こういう浮説が生まれたのも碩学日乗の存在の大きさが水源をなしていたことと考えられる。
 
  参考資料
   (一) 養徳院乾龍日乗上人年表略記
              (原漢文)
 日乗上人ハ慶長年間ノ人ナリ。上総東金郷ニ産(うま)ル。父ハ酒井左衛尉(じょう)政辰ノ家臣ナリ。市藤刑部左衛門ト号ス。祖父ハ市藤筑後守、紀州熊野ノ士ナリ。今、南総川場村ノ民市藤佐左衛門ト云フナリ。時ニ師幼少ニシテ才智凡ナラズ。仍ツテ、父ハ師ヲ出家セシメント欲ス。師七才ニシテ遂ニ鳳山(本漸寺)六世法印日信ニ投ジテ得度シ、乾龍ト号ス。
 二十一才、日迢・日要ト台教ヲ日信講下ニ学ビ、止観(しかん)一二ノ巻ヲ随聞シ、止観述聞五巻ヲ撰ス。寛永中、宮谷学校ニ於テ始メテ法華玄義ヲ講ジ、則チ玄籖(げんせん)考拾記十巻ヲ作為ス。其ノ間、衆徒ヲ領シ、台家ノ諸部ヲ講ジ、各々疏鈔ヲ述記ス。所謂(いわゆる)名目条例三巻・集解諸議集七巻・歴承二巻・指要鈔随覧二巻、或ヒハ信行要道義・流通根源記等ナリ。
 武城ノ儒生林氏(羅山)、聿宿(いっしゅく)スルコト深ク師ノ盛徳ヲ慕フ。因ツテ、師ヲ東叡山ノ学頭ニ称説シテ揄揚(やよう)ス。是(この)故ニ、経蔵ニ入リ蔵経ヲ検閲スルコト一回ス。
 寛永十二(一六三五)歳三十八才ニシテ宮谷本国寺ニ住職シ、始メテ法華文句ヲ講ズ。寛永十六(一六三九)春、京師妙満寺ニ入ル。勅シテ権律師ニ任ゼラル。同十七帰国シテ、文句述解同ジク攬剛都ベテ八巻ヲ著ス。正保二年(一六四五)四月二十三日、四十八、本漸寺ニ於テ遷化セリ。
 以上、之ヲ略記ス。然ルニ、当辰年※師二百回忌ニ向フ。仍ツテ、聊カ報徳謝徳ニ備ヘンガ為メニ、信行要道義ヲ上木スト、爾(しか)云フ。
   天保十四(一六四三)癸卯(きぼう)年秋九月
      南総東金鳳凰山(本漸寺)
                     権少都 日珠
                (「信行要道義」巻末附記)
 
 注 ※天保一五年(一八四四)をさす。
 
   (二) 「信行要道義」(抄)
 問フ、信念ノ向(おもむ)ク所ハ、既ニ果地ノ妙智ニ在リ。若シ信心ニ住スルノ時ハ、即身成仏ト云フベキモ、有為(うい)ノ心ハ念々ニ住セズ。随ツテ起リ随ツテ滅(めっ)ス。信心滅(めっ)スル時ハ、功力亦(くりきまた)滅センヤ。
 謂(いわ)ク、然ラズ。世間ノ業念(ごうねん)、念々ニ流注スト雖(いえど)モ、必ズ其ノ果ヲ感ズ。又、小乗ノ受戒、其ノ作法已(すで)ニ謝スルニ、戒業ノ無作(むさ)ハ滅セズ。凡小(ぼんしょう)尚ホ然リ。況ンヤ、本果(か)ノ信行受戒ノ力ヲヤ。何トナレバ、一念之ヲ信ズルニ、信念忽チ仏寿海ニ至リテ、永劫ニ失(しっ)セズ。寿海ニ至ルトハ、常住ノ仏寿ト相符(ふ)シ、相冥(そうみょう)スルニ、信念ノ体無常ヲ離ルルガ故ナリ。信力所依(しんりきしょえ)ノ心ハ、是レ有為(うい)ノ法ナルガ故ニ、念々ニ滅スト雖(いえど)モ、而カモ信力ハ則チ時々(じじ)ニ常住ノ智地(ちぢ)ト習応シ冥符(みょうふ)ス。故ニ、永劫(ようごう)ニ朽廃セズ。我等凡愚ノ故ニ、頓(とみ)ニ大信力ヲ起スコトヲ得ズ。但(ただ)、平生ノ善悪ニ触レテ、般々(はんぱん)ニ信ヲ起ス。此ノ信念一々ニ仏寿海ニ至リ入ツテ習応シ、後々(ごご)ノ念々、前々(ぜんぜん)ノ信念ヲ増長シ、必ズ自受用(じじゅよう)ノ実智ヲ成(じょう)ズ。是レヲ「仏性ハ縁ニ従ツテ生ズ」ト名ヅクルナリ。一滴海ニ入ツテ、大海水ト応符ス。故ニ、滴水失(しっ)セズ。一念仏智ニ至リテ、智ト相冥(そうみょう)シテ別無シ。故ニ、永劫(ようごう)ニ失セズ。涅槃経(ねはんぎょう)ニ云(いわ)ク、「一切ノ諸法悉ク大般涅槃(だいはつねはん)ノ仏寿海中ニ入ツテ、常住ニシテ滅セズ」ト。文句ノ九(寿量品ノ下)ニ云(いわ)ク、「境既ニ無量無辺、常住不滅ナリ。智モ亦是(かく)ノ如シ。函(はこ)大ナレバ蓋(ふた)大ナリ。」ト。今ハ則チ信ヲ以テ慧(え)ニ代フ。慧ト信ト同ジク常寿ニ入ル。故ニ、失壊(しつえ)セザルナリ。
                     (原漢文)
 
   (三) 日乗上人ト布留川家
 日乗上人ノ生処ハ東金郷市東形(ママ)部左衛門ノ御子ナリ。亡父ノ遺言ニ任セ、法印日信和尚ノ弟子タランコトヲ契約ス。然リト雖(いえど)モ、領主ノ下知トシテ、男子皆死罪タルベキノヨシ。此ノ時、布留川与五右衛門由緒有ルヲ以テ、円蔵寺境内ニ幸(さち)ノ岩屋アリ。此ノ処ニ深ク陰(かく)シ置キ、撫育スルコト実子ノゴトシ。故ニ、日乗師縁起、本漸寺日乗玄孫弟養賢院日普上人ヨリ宝暦十四(一七六四)申年四月二十三日、日乗師一百二十一年ノ時下サレ候。
 日乗師正保元(一六四四)申年※四月二十三日命日。
                 (「布留川歴代記録」)
 
 注※ ほかの資料では「正保二年」としている。