東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(四) 郷土史家

    

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 杉谷家は東金切っての名家である。その歴史が古く、社会的地位も高く、連綿として今日まで続いている点においても屈指である。直道はその一九代の当主として、幕末から明治大正にわたり、東金の発展につくした人であるが、文筆の才にめぐまれ、郷土史家として貴重な記録を多く残している業績は刮目に価するものがある。しかし、彼を伝するためには、前提として杉谷家の長い歴史を概述しておく必要がある。
 杉谷家は平忠常に発すると言われ、その子孫が上総市原郡杉之谷に住していたことから杉谷姓を名のるようになり、忠常から数えて一七代になる杉谷弥左衛門義祐が文明年間(一四六九-一四八六)辺田方(へたかた)郷(東金の古称)に移って来て、他の一三人の者たちと土地を開拓して町家をつくり、新宿(しんしゅく)の街を形成した。その後酒井定隆がこの地を支配するようになって郷士の身分をあたえられ、杉谷和泉と改称し、永正二年(一五〇五)二月二一日に没したという。これが杉谷家の初代である。
 その後、杉谷家の当主は弥左衛門の通称を世襲し、二代義重、三代義景、四代義直を経て、五代直重となったが、彼は新宿の荘屋(名主)役を勤めることになり、この荘屋(名主)役もおおむね世襲するようになる。六代直昌の時に、酒井氏滅び徳川氏の支配下に属すると、改めて苗字帯刀を許可され、郷士待遇を受ける。ついで、八代直明の時に、一時「椙(すぎ)谷」と姓の表記を変えたことがあった。(「椙谷」の表記は直道も時々用いている。)九代宗貞の時に、郷士制が廃止されたため、杉谷家も百姓身分となる。一〇代義村の時代になって、寛文一一年(一六七一)今まで幕府の天領であった東金が、福島藩主板倉氏の支封となるという変化があり、杉谷家もその支配下で名主役をつとめることになる。なお、義村は寛文年間(一六六一-一六七二)に酒造業をはじめているが、これは杉谷家の歴史上、注目すべき事柄である。これについて、直道は「杉谷省三直敬 杉谷弥左衛門直道父子盛衰記」(以下略して「父子盛衰記」という。)という記録の中で資料をあげて、義村時代に酒造をはじめている事実を考証している。東金地方の豪家の多くは酒または醤油の醸造をやって富を蓄えているのであるが、杉谷家もいち早くそれに取りかかっている。杉谷家の歴史をながめると、酒造業の盛衰が家運の隆替と密接な関係をもっていることが分かるのである。その意味で義村は重要な存在であった。彼は寛文四年(一六六四)から延宝三年(一六七五)まで一二年間名主をつとめ、延宝六年(一六七八)一二月七日没している。行年は不明である。
 一二代幸能の時代になると、杉谷氏に災害がふりかかる。幸能は中年から眼病になり盲目となってしまった上に、「重々ノ災害ニ罹リ、此ノ時ニ至リ祖先伝来ノ古書物類ハ勿論代々ノ御本尊迄(まで)残ラズ紛失スル」(「父子盛衰記」)と直道は記しており、災害が何であったか明示していないが、おそらく火事であったろうと想像される。幸能のもう一つの不幸は、長男善次郎が早世したことである。そのため、親戚にあたる武射郡森村(山武町森)の石橋惣左衛門の世話で田間村の村井吉平の子又助を養嗣子とした。この人が一三代通幸である。通幸は才略のあった男で、森村の地頭小幡孫市の御用金御賭(まかない)を勤めたというから、その力で杉谷家の財政も多少好転したかもしれない。この人はまた俳人としても名があり、佐久間柳居に入門し、作田東睡らとも交友があった。俳号を鳥雨と号した。しかし、この人にも不幸があった。それは、長男弥市・次男弥二郎の二人が早世してしまったことだ。そこで、村井家から通幸の甥の久七郎(滝口源兵衛の子)を迎えて、娘の須美に配することとした。これが一四代教通である。
 
    

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 教通はなかなかの人物であった。「此ノ人、才智アリテ商方ニ通ジ」(「父子盛衰記」)とあるが、その上、温厚篤実な男であった。彼は明和九年(一七七二)から寛政六年(一七九四)まで、二三年間も新宿の名主をつとめ、領主から感状を受けている。商業面でも力を発揮し、薪炭業に手を出して、江戸に出店を設けている。そのことを直道は、
 
 「天明年中、槇炭商業ヲ開ク。江都深川伊勢崎町ニ出店ヲ構ヘ、酒井雅楽頭(うたのかみ)御台所御屋敷内ヘ槇炭御用達ヲ勤ム。諸帳書物之レアリ。出店支配人杉谷庄五郎ナリ。」(「椙谷拾九代記」)
 
とのべている。当時の東金商人は、水野茂右衛門にしろ大野伝兵衛にしろ、江戸進出をはかって出店(いわゆる江戸店)をもうけたものであるが、教通もその風潮に乗じたものであろう。
 それから、もう一つ、「寛政六年(一七九四)再ビ酒造商業ヲ始ムル」(「椙谷拾九代記」)とあるから、教通は酒造もやったのであるが「再ビ」とあるのは、一〇代義村がはじめたのがその後廃業していたものと思われる。それを復活したということである。廃業したのが何時であったか、また、理由が何であったかは不明である。
 教通はこのようにして、杉谷家の隆昌のために、商業を盛大ならしむべく努力したのであるが、彼もまた不運をかかえこまなければならなかった。それは、彼の長男たる久太郎が成人して一与という名をもち、長柄郡北高根村(現・白子町)の酒井市郎右衛門の娘伊世(いよ)を妻に迎え、女子二人をもうけたのであるが、二五歳の若さで世を去ったことである。それは、天明三年(一七八三)四月二日のことだったというが、一与は父教通の後を嗣いで第一五代の当主となっていたから、教通は隠居の身分に退いていたはずである。教通は文化八年(一八一一)二月二八日七八歳で没したとあるから、享保一九年(一七三四)の生まれであり、一与の死んだ天明三年にはちょうど五〇歳であった。隠居はその年以前であったはずである。
 ところで、この一与は「椙谷拾九代記」には「諸芸ニ達シ、美男子ナリ」とあるから、遊び人で浪費者だったような気がする。しかも、「多病ニシテ散財モ又尠(すくな)カラザル」状態であったから、かなりの困り者だったと思われる。しかも、一与の死んだ同じ年の八月一八日に、妻の伊世が夫のあとを追いかけて病死を遂げたのである。夫婦相ついで死ぬとは異常である。おそらく、その病気は結核性のもので、どちらかが感染したものだったと思う。病気療養のための散財も莫大であったろう。同書には「当家累代相伝ノ田畑財産ヲ此ノ時悉皆失ヒタリ」とあるが、「父子盛衰記」には「遂ニ田間村談所田地残ラズ代金三百円(両)ニテ天明二(一七八二)寅年小安庄作ヘ質入ニナル。」とあって、文字通り「悉皆」失ったわけではなかったかもしれないが、大打撃だったにはちがいない。このため、商業のほうも資金繰りがつかないで廃業状態になってしまったのかと考えられる。五〇歳台に入った教通としては、体力的に無理だったが、農業に出精するよりほかなかった。彼は大いに働いた。その結果、寛政一〇年(一七九八)九月、領主から褒賞を受けている。その文書が「椙谷拾九代記」に載っているが、「農業の儀、年来心懸け日々耕地見廻り、怠り無く出精の故に行届き、作人共も油断無く出精いたし、格別丹誠の験(しるし)も相見候段」まことに結構だという文言である。この年彼は六五歳であった。一与の死後一五年である。教通のその間の苦労も大きかったと思われる。
 一与は早世してしまったけれども、幸い二男直温(なおはる)が優秀であったから、教通も安心ができた。直温は一与とは五歳ちがい(直温は明和元年(一七六四)生まれ)で、一与の死んだ時、すでに二〇歳に達していた。だから、父を助けて相当の働きが可能だったはずである。よき後継者を得て、晩年の教通は幸福感を持つことが出来たにちがいない。直温が杉谷家一六代となり、教通は前記のとおり、文化八年七八歳の長寿をもって永眠した。
 
    

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 直温は杉谷家の各代を通して、もっとも傑出した人物ということができよう。直温の曽孫にあたる直道は明治一五年(一八八二)直温のために墓碑に「碑陰ノ記」(参考資料参照)を刻んで、その生涯を賛えた。たしかに彼ははなやかな一生をおくった。「一代ノ功名挙ゲテ算(かぞ)ヘガタシ」(「父子盛衰記」)とも云っているほどである。なお、直道はこんなことも書いている。
 
 「現時老人ノ茶話ニ、往古杉谷老人盛ンナリシ時、杉谷隠居様ガ御出デニナリシト唱フルトキハ、三歳ノ童子モイタヅラヲ止メテ謹慎セリト云ヘリ。其ノ威勢盛大ナリシモ、仁義ヲ専ラニセシ故、上下人民和合シテ、始マリ方ヨリ泰山ノ如クナリ。」(同)
 
もって、そのおもむきを想察することができるであろう。
 直温は寛政一〇年から新宿の名主役を勤めた。彼の施政が良好であったため、領主は幾度か感状をあたえ毎年扶持米一三俵を拝領させていたが、その上、彼が公用で江戸の板倉藩上屋敷に出向く際には、道中御伝馬を許可されることになった。また、文政五年(一八二二)のことであるが、板倉領たる二又村(板倉藩は東金町・田間村・二又村計二、九〇〇石を領していた)の政治が乱れていたので、直温に名主兼帯を命じた。直温は鋭意改革にあたり、同九年まで五年間つとめて、成果をあげた。これに対して、領主は米七俵をあたえてその功を賞した。その後、彼は文政一三年(一八三〇)三月と、天保四年(一八三三)九月の二回、名主退役願を提出したけれども、領主の許可がなく、とうとう、同九年(一八三八)まで、四一年の長さにわたって、名主役を勤め上げたのであった。年齢でいうと、三五歳から七五歳までである。さすがに彼も疲れたことであろう。まことに稀有な事実である。これは、要するに彼に対する内外の信頼があつかった故にちがいない。
 けれども、これを杉谷家の家政特に経済面から見ると、いろいろ問題が多かったのである。そして、杉谷家は財政危機におちいり、その収拾がつかず、晩年の直温は惨憺たる労苦になやまなければならなかったのである。その経緯を直道は「父子盛衰記」にかなり詳しく書き留めているが、その要点を摘記すると、直温は酒造業を営んだのであるが、その運営に失敗し、多大の借金をつくり、そのため債権者からはげしい取立てを食い、土地を多く手離し、さらに悪いことには、火災に遭って家屋敷を喪失する破目に立ちいたったのである。
 難事の起因は直温が四〇年間も名主勤務に精励したため、家業がおろそかになったということにあった。
 
 「直温農間酒造商業ヲ営ム。武射郡成東村安井権兵衛氏ト取引シテ、年々米千俵ヅツ酒造ヲ仕込ムニ、一時身代盛ンナリシガ、直温数十年間新宿町長(名主)ヲ奉職セシ故、多人数ヲ使役スル酒造商業ハ勿論、農業マデモ行届カズシテ、年々多数ノ醸ニ腐造アリ……身代頗ル疲弊ス。」(「父子盛衰記」)
 
こんなわけで、安井権兵衛に二百両の借金が出来、仕方なく家屋敷を質入れし、その埋め合わせに稗田勘左衛門から二百両借りたのであるが、日頃懇意だった稗田が不安になったのか態度を変えてはげしく督促するので、やむなく住家も売り出すことになってしまった。見るに見かねた町内の大多和金右衛門・加瀬半兵衛らの好意で住家は取戻せたが、今度は年の暮れに火事がおこり(年代不明)、それに類焼してしまうという厄難が襲いかかってくる有様だった。
 さらに、家庭内にも波乱があった。直温は長女の常に養子直守(田間村小安庄作の子)を婚(めあわ)せたが、これが放蕩者で直温夫妻と折が悪く、散々もめた揚句直守を離縁してしまったが、そんな事件も頭痛の種となり、老いた直温は懊悩の末病床に臥する身となり、弘化元年(一八四四)八月一三日、八一歳で世を去ったのである。直温は社会的には功労者なので、葬儀は盛大に執行されたけれど、本人は死ぬに死ねない気持であったろう。
 直温の生涯は悲劇的であったというほかはない。人物がすぐれていたことはたしかであった。四〇年も名主を勤め、公生活において数々の功績を残しながら、私生活を惨憺(さんたん)たるものにしてしまったところに、彼の大きな悲劇があった。なぜそうなってしまったのか。世には政治に狂奔して財産を失ってしまう人は多い。しかし、彼の時代に選挙運動があったわけではない。政治資金なるものをそれほど必要としなかったであろう。あるいは商売が下手だったためだろうか。それとも商売を人任かせにして失敗したのだろうか。または、政争のごときことがあって、反対派におとし入れられたのであろうか。直道の記録には、債権者が借金の取立てに、ひどい仕打ちをしていることも書かれている。非情な商人社会にはあり勝ちなことだとしても、なぜ直温がそれはどの怨恨を受けなければならなかったのか、疑いを抱かざるをえない。
 ともかく、直温は杉谷家の歴史の上で、もっとも問題を残した人である。いい面では社会的な働きで卓抜なものを残し杉谷家の名声を高めているが、悪い面では家政をメチャクチャにして、以後何十年にわたって子孫に深刻な苦難をなめさせたということである。
 直温の後継者たるべき直守が離縁されてしまったので、やむなく常が一七代を継ぐことになった。常も不幸な女で、二歳の時に実母が離別になり、義母のもとで成長し、彦三郎という男を婿に迎えたが、これが早死にしてしまったので、直守を入れたのであったが、それも離縁になったわけだから、よくよく運が悪かった。常には二人の女の子と一人の男の子があった。その子どもたちを育てながら、彼女はさびしく杉谷家を守ったのである。彼女は明治五年(一八七二)八月二日、七六歳で死去した。
 
    

4


 一八代を嗣いだのは、常の長男たる直敬(なおたか)である。彼は文政二年(一八一九)五月二五日に生まれた。彼は母常と祖父直温の手によって養育された。その祖父の没した弘化元年には、すでに二六歳であった。だから、すぐ家督を継いでもいいわけであるが、どういうわけか、母の常が一七代となっている。
 直温の死後、杉谷一家の苦労はひどいものだった。直道はその状況を次のように記している。
 
 「父直敬亡祖父ノ家名ヲ継ギタルモ、負債ノ為メニ困難ヲ極メ、親戚大多和平左衛門・野瀬嘉左衛(門)・狩野太兵衛ノ諸氏尽力ニテ、近村懇意ノ者ヨリ米金ヲ借受ケ、家商ノ醸酒営業ヲ勉励スルモ、資産地ハ一切之レナク、高利ノ延米ヲ借リ入レテハ到底利益ヲ見ルコト能ハズ。殊ニ八百円(両)余ノ借財高(明治二十年紙幣相場ニ比スレバ、金八千円ニ相当スル)ニテ、所謂(いわゆる)首モ廻ラヌ形勢ニシテ、如何トモスルコト能ハズ。其ノ困難名状スベカラザルノ景況ニシテ、漸ク困苦ノ星霜ヲ送リシモ、漸次貧困ニ陥リ、依テ親戚協議ノ上、本宅ハ逼塞(ひっそく)シテ、家族一同酒造家会所ヘ引移リ、本宅留守居トシテ、叔父吉野文蔵居住セリ。」(「父子盛衰記」)
 
こういう困厄の中でも債権者は容赦しなかった。安井権兵衛は度々督促して来たが、嘉永五年(一八五二)の暮、ついに東金領主役所へ訴え出たので、代官から差紙が来て、やむなく酒造株を売却して借金返済にあてることととなり、ここに永年まがりなりにも継続してきた酒造業を廃絶するのやむなきに立ちいたったのである。これが嘉永六年四月のことであった。
 こうなってしまっては、生きるために恥を忍ばねばならないので、直敬は酒類の升売(ますうり)をはじめ、また、地主の下作をすることにしたが、慣れない農仕事にはえらい苦労をした。ある時、いっしょに働いていた息子の直道が鎌で指を切り、出血のため気絶したことがあった。
 そこで、何とかほかの商売をしたいものと考え、一四代教通がはじめた槇炭商業をまたはじめようと、領主役所に願出て許可を受けた。もちろん開店には資金が入るけれども、親戚の狩野太兵衛(直敬の妻安子の父)が金を持っているから借りようと考えたのであるが、あいにくその太兵衛が病死してしまったので、店が開けなくなってしまった。
 安政三年(一八五六)当時、杉谷家の借金は四百両ほどあった。農業一派ではとても返せない。そこで、生活を切り詰めようと、その年一二月、「禁酒禁遊」を誓うため、直敬・直道父子は江戸虎之門の金毘羅様をおがみに行って来た。で、いろいろ相談した結果、槇炭商業の件は取り止めにして、塩問屋の開業を願出て許可を受けた。幸い、ある僧侶から百円を借り受ける見込みがついたので、開店に取りかかろうとしたところ、向うの気が変わってダメになり、仕方がなく農業に精を出してみたが、貧困を切り抜けるために、残った山林を売りに出した。それは文久元年(一八六一)ごろのことで、大野伝兵衛(別項参照)が茶園をはじめ出したので、松之郷の山林二町六反ほどのものを売却した。ところがその翌年例の僧侶の気が再び変わって好意的になり、二百円の融通を確約したので、塩問屋を開業することが出来、赤穂塩などの取引がはじめられ、多少の利益があげられるようになったのである。
 かくのごとく、生活のために四苦八苦せざるを得なかった直敬に対し、領主側は町の役職を命じて来て、楽にはさせなかった。すなわち、天保一一年(一八四〇)二月東金の組頭になったのを皮切りに、安政三年(一八五六)一月からは新宿の名主に任ぜられ、それから明治二年(一八六九)四月まで一四年間勤続している。その間、万延元年(一八六〇)一二月からは、東金町三〇ケ村組合大惣代取締役という重職を仰せつけられ、また、明治元年(一八六八)には田間村兼帯名主をさせられてもいる。この一四年間は幕末維新の激動期であり、町内外に困難な事件が次から次へとおこって、その処置は難渋をきわめたのである。真忠組騒動・水戸浪士事件・維新の兵乱その他、狂瀾怒濤荒れ狂う時代だったから、直敬の辛労は筆舌につくせないものがあったであろう。しかも、その終末の大事件としては、板倉藩の国替えということがあった。杉谷家は東金草分けの名門だったから、各代の当主は領主と緊密な関係に立たされ。町の要職に就いていろいろ働かされて来たのである。要職とはいっても、いわば名誉職にすぎないから、責任の重いわりには収入のごときは微々たるものであった。もちろん、政治的には有利な立場を保てたところはあったが、家政を犠牲にしなければならないので、直温時代が端的に示しているような悲劇、封建制の重圧をマトモに受けて苦しまなければならない面があったのである。それだけに、明治新時代を前にすると、大きな不安に襲われ、途方に暮れざるをえなかったのである。直道は当時の心境を左のごとく書き留めている。
 
 「明治二巳(み)年正月、旧領主板倉侯国替ニナル。今年、直敬・直道役向ヲ退ク。(直道も組頭役を勤めていた)一体、旧領主板倉家ニ対シ、杉谷家累代ノ勤功モ之レアリ、名族再興ヲ思召サレ、領主役所ニ於テモ、漸次登庸アリテ、秩禄ヲ下賜セラル。旁々(かたがた)、家事向好都合ニテ家名再興ノ時至レリト、夙夜(しゅくや)尽力精勤セシニ、豈図(はか)ランヤ、今回ノ上地国替ニテ百事廃滅ニ及ビ、直敬・直道父子ノ身ニ取リテハ、生涯無比ノ大変災ニテ、終日悲嘆愁傷セリ。」(「椙谷拾九代記」)
 
直敬としては、塩問屋経営に大きな期待をかけていたのである。何といっても領主の政治力から見離されてしまっては、どうにもならなかったのであろう。
 しかし、この不安は明治新体制が進むにつれて、経済状態も漸次好転してゆき、杉谷家も明治一五年(一八八二)頃には、かなりの立直りを見せることになる。直敬は明治三五年(一九〇二)七月三日享年八四歳で長逝した。長寿を得て、幸福な晩年をおくり得たことを彼のため喜びたい。彼の妻安子(長生郡一ツ松村狩野太兵衛の長女)は同じ年の八月二八日、夫のあとを慕って世を去った。七九歳であった。
 
    

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 一九代直道は直敬の長男である。天保一〇年(一八三九)一〇月二三日に生まれた。その時分、曽祖父直温はまだ健在だった。直温はそれから五年後の天保一五年(一八四四)八月一三日に没しているが、その時六歳だった直道は、幼い眼に曽祖父の姿を映していたわけだが、どのような感じを受けたであろうか。直道は曽祖父には特に敬慕の思いを寄せていた。
 弘化二年(一八四五)四月、七歳の直道は田間村の小安竹次郎という人について、漢学と習字を学び、同四年一二月までその塾に通った。これが修学のはじめである。それから五年後の嘉永五年(一八五二)二月から、押堀村の高宮誠斎(別項参照)の塾に通い、安政元年(一八五四)一二月まで漢学の修行をした。その翌二年二月から同五年(一八五八)一二月まで曽根雲泉という学者について、やはり漢学を修学している。安政五年には彼は一五歳である。断続的ではあるが、七歳から八年間が彼の勉学期間であった。当時としては、比較的長く学問修行したことになる。
 しかし、杉谷家の財政は火の車であった。直道は一五歳の春から酒造業の手伝い等に青春を捧げて苦労したけれども、酒造業は廃絶となってしまい、その後酒類の升売(ますうり)や農耕などに彼も精出したが、なかなか好転もしなかった状況は、直敬の項でのべておいたとおりである。そういう中で、文久二年(一八六二)五月、二四歳の若さで彼は町の組頭役(はじめは見習、慶応元年より本役となり、明治二年までつとめる)を命ぜられ、大惣代兼名主であった父直敬の下で公職に奉仕することにもなった。ところが、翌三年社会を震駭した真忠組騒動事件が勃発し、彼は父を助けて事件の処理にたずさわったのであるが、自然に事件の経緯を知り、関係の文書類を読む機会も得た。そこで、事件後、当時の情況を詳細に記録し、二冊の本にまとめたのである。「真忠組浪士騒動実録」(「東金市史・史料篇四」所収)と「真忠組浪士騒動実話」(東金市史・史料篇一」所収)である。この二書は真忠組騒動の史料として最高のものである。彼は筆まめな人で右のほか、東金の歴史に関するもの、自家の歴史に関するものなど、たくさんの記録を残している。(参考資料参照)それらは郷土史の文献として頗る貴重なものである。
 慶応二年(一八六六)九月、彼は結婚した。妻に迎えたのは、山辺郡布田村猪野七郎右衛門の二女美喜(みき)である。この年には、父直敬が領主の許可を得て御用人馬継立問屋場を設けたり、直道が大豆の売買で儲けたり、また、地価が騰貴してそれに乗じて質地の請返(うけかえ)しが出来たりして、「此ノ年ヨリ家計向都合宜シキ方ニ趣キタリ」(「杉谷弥左衛直道一代記」以下略して「直道一代記」という。)と書いているとおり、家庭経済にもゆとりが出来るようになった。
 やがて、明治の世を迎える。明治元年(一八六八)二月九日、長男達が生まれた。新しい代への希望が高まったことであろう。翌々三年、直道は唐物太物の店を開いた。そして、六年(一八七三)二月、父直敬は今までの通称弥左衛門を改めて、省三と称するようになり、直道が弥左衛門を襲名した。これは、直敬が直道に世をゆずって隠居したことを意味するものであろう。
 ところが、八年(一八七五)になって唐物太物の店がうまく行かなくなった。そして、三月閉店してしまうのであるが、その間の経緯を直道は次のごとく記している。
 
 「去ル明治三午年十二月、唐物太物開店、爾後、弥左衛門直道疾病ニ罹リ、(中略)引続キ銭相場ニ変動アリ、加ルニ、年賦金済方ノタメニ物品ヲ失ヒ、其ノ外種々様々ノ重ナル変災アリテ、資本金悉皆散失シテ、金力茲ニ尽キ、商業維持スル事能ハズシテ、明治八年三月閉店スルノ不幸ニ陥リタリ。
 前条ノ困難ニ遭遇セシニヨリ、茲ニ直道決断シテ、下男下女残ラズ暇ヲ遣シ、妻ニ飯ヲ炊カセ、直道奴僕トナリ、自身鋤鍬ヲ取リ、或ル時ハ主人トナル。又或ル時ハ丁稚(でっち)トナリ千変万化シテ、朝ハ未明ヨリ起キ、夜ハオソク寝ネ、困苦ヲ厭ハズ家事農業ヲ勤勉セリ。」(「直道一代記」)
 
結局、元の杢阿弥(もくあみ)になってしまったのである。こうなった上からは、徹底的な倹約生活をするより手がなかった。そこで、今後五年間は職人などを入れないこと、交際費を悉く省くこと、小遣いは毎月二円ときめることなどの方針を立てて(「直道一代記」による)これを実行するようにしたのである。「其ノ患難ナルコト筆紙ニ尽シガタシ」(同)といっているが、家族一同ずいぶん苦しかったにちがいない。ところで前の引用文中に「直道奴僕トナリ」という語があるが、これは、明治七年(一八七四)八月大小区制が実施されて、東金は第八大区四小区となり、その扱所として杉谷家を使うことになって、直道は「小使同様」の勤務をしていたことを指すもののようであるが、閉店後四か月後の同年七月、彼は副戸長に任命された。これもいいことだったが、その頃もっといいことがおこった。それは、米価が騰貴し出して、それにつれて田地の値段が高騰しはじめたので、その気運に乗じて、うまく地所を動すことで、利益を上げ、明治一一年(一八七八)頃までには三百余円の負債も全部返却することができるようになった。それには、明治九年(一八七六)の地租改正の影響もあったのである。直道の記述を引用しよう。
 
 「米価ハ漸次騰貴シテ、田畑直段非常ニ引上ル。田地一俵入ハ金六拾円余ノ売買ナリ。米一俵ノ代金四円ナリ。(中略)実ニ田地売買前代未聞(みもん)ノ高価ニ之レアリ。殊ニ去ル九年地租改正後、従前ノ下田ハ上田トナリ、種々地面ノ変更ヨリ地主共莫大ノ利益ヲ得ルモノ数多ニテ、世上富有ノ年ナレバ、従ツテ融通シテ質地ヲ受ケ戻シ、而シテ下作人ヨリ無利ヲ得タリ。依ツテ、祖先伝来ノ地所累年質入ニ成リタル分、茲ニ悉皆請戻ス。是レ全ク直道家政向ヲ改革シテ労力ヲ厭ハズ勉励セシ原因ナリ。且ツ、先代ニ於テモ田地ヲ売渡サズシテ、質地ニ据ヱ置キタルハ、是レ先代ノ功労モ又尠(すくな)カラズ。」(「直道一代記」)
 
こうして、杉谷家にもようやく春がおとずれたのである。直道は生活を切りつめた結果であると強調してはいるが、客観情勢の変化がもたらした幸福というべき面もあるであろう。しかし、一六代直温以来、四代にわたる長年の筆舌につくしがたい労苦を思えば、直道としては感慨無量であったであろう。杉谷家の再興ここに成ると、父直敬ともども深いよろこびに浸ったことであろうと思う。そして、その心持の象徴として、明治一五年(一八八二)九月本漸寺の直温の墓碑に、直道の撰文による「碑陰ノ記」を刻んだのであろう。これは、杉谷家そのものの記念碑ともいえよう。
 直道は明治一五年(一八八二)一〇月、東金町戸長に昇任し、同一七年(一八八四)八月までその職にあった。いわば、後の町長にあたる地位である。同年、東金町会議員に選ばれ、二四年再選されている。二八年には東金町収入役となり、三三年にも再任している。このほか、種々の公職に就いて、東金の発展につくした功は多大である。
 直道の父直敬は前記のとおり明治三五年七月に死去している。直道は父のために隠居所を建ててやって老後を静安に過させたのであるが、父の死後、直道は持病の脚気症が再発して、そのため収入役を辞任して、佐倉の順天堂病院に入院することになった。それ以後、彼は病弱となり、度々入院生活をするようになる。そこで、明治四〇年(一九〇七)一月、六九歳の老年に達した彼は、長男達に世をゆずって隠退することにした。達は勤人となり裁判所につとめていた。晩年の直道は持病に苦しみながらも、書き物などしながら、長寿を得て、大正九年(一九二〇)八月一五日永眠した。享年八二であった。妻美喜は夫より七か月前、同年一月一九日、七七歳で死去している。

杉谷直道夫妻の墓碑(本漸寺)

 
 【参考資料】

(一) 杉谷家系図

   (二) 杉谷君碑陰ノ記
         (東金本漸寺杉谷家墓地)
 君、諱(いみな)ハ直温、通称ハ弥左衛門、其ノ先ハ平忠常ニ出ヅ。後六世始メテ杉谷七郎ト称ス。其ノ子弥左衛門、上総東金ニ土着シ、已降(いこう)氏名ヲ世襲ス。天正年間ヨリ十五嗣(し)直重ノ世、村正トナルト云フ。
 考(こう)、諱(いみな)ハ教通、妣(ひ)ハ杉谷氏、君ハ其ノ第二子ナリ。長子夭折シ、君ヲ以テ嗣ト為ス。此ノ時ニ当リ、東金ハ板倉侯ノ支封ニ係リ、南総ノ通邑タリ。故ニ、人民或ヒハ惰侈(だし)ノ風有リ。君常ニ以テ患ト為ス。嘗ツテ人ニ語リテ曰ク、農ハ国ノ本ナリ。吾ニシテ之レニ惰セバ、何ヲ以テカ他ヲ励マサンヤト。公務ノ暇アレバ、則チ躬(みずか)ラ耒耜(らいし)ヲ把(と)リ、奴婢ト労力ヲ共ニス。又、醸酒ヲ以テ業ト為シ、貧困支ヘザル者有ルトキハ、貲(し)①ヲ揖(す)テテ之レヲ救ヒ、尚其ノ洽(あまねか)ラザルヲ恐ル。故ニ、衆其ノ徳風ニ化シ、俗頓(とみ)ニ改マル。
 老ヲ以テ、辞職ヲ上表ス。聞ク者歎惜ス。侯モ亦聴カズ。優待ヲ増加シ、特ニ命ジテ二又邨正ヲ兼任セシメ、功ヲ以テ士班ニ挙ゲ、俸若干ヲ賜フ。君、職ニ在ルコト四十余年、老ヲ請ウテ後五年、弘化紀元(一八四四)八月十三日卒ス。寿八十有一。本漸寺先塋ニ葬ル。法謚ヲ如実院圓日道ト曰フ。是ヨリ先、秋葉氏ヲ娶(めと)リ長女ヲ生ミ、直守ニ配シテ嗣ト為ス。
 君ノ在時、篤行能ク其ノ職ヲ竭(つく)ス。交際ニ信有リ、仁恤ニ徳ヲ以テス。故ニ、葬ノ日四方ヨリ来リ弔スル者、門〓ニ満ツ。其ノ人ト為リ追慕セラルルコト知ルベキナリ。
 孺(じゅ)人②、諱(いみな)ハ多美。同郡押堀村秋葉氏ノ産ナリ。貞実ニシテ賢行、能ク家ヲ理ム。天保十一年(一八四〇)十二月十五日、病ミテ卒ス。年六十有五。謚(おくりな)シテ成正院妙乗日覚ト曰フ。
 今茲(ことし)辛巳十月、孝孫直敬、樹碣(じゅげ)ノ任ヲ以テ、男直道ニ嘱シ、且ツ、其ノ文ヲ余ニ徴ス。因ツテ、所聞ニ随ヒ、以テ概梗ヲ記ス。爾維明治十五年(一八八二)七月。
                  曽孫
                    杉谷弥左衛門直道
 
 注 ①財産 ②妻のこと
   (三) 杉谷直道著述一覧
  ○東金の歴史関係
    「東金誌」
 
    「東金町来歴談」(明治三五年五月)
    「東金町誌・草稿」
 
    「東金見聞誌」(明治三八年一月)
    「明治元年前後東金田間役員履歴見聞録」
 
    「東金開拓年表」(明治四五年六月)
    「東金町創始」
 
    「東金町第三区長事務録」(明治二五年九月)
    「本漸寺改革日誌」(明治三八年六月)
  ○真忠組騒動関係
    「真忠組浪士騒動実録」(明治三二年六月)
    「真忠組浪士騒動実話」(明治三二年一月)
  ○杉谷家関係
    「椙谷拾九代記」(明治二三年一一月)
    「杉谷弥左衛門直道一代記」(明治二三年一〇月)
    「杉谷省三直敬 杉谷弥左衛門直道父子盛衰記」(明治二三年一二月)
    「村井 杉谷一家縁起」(明治三一年七月)
                (以上、東金市新宿杉谷家所蔵)
   (四) 杉谷家子孫ヘ教訓ノ条
                      杉谷直道
第一条 忍耐ヲ守リ、誠直ナルヲ専要ニスベシ。
第二条 家名ヲ大切ニシテ、質素倹約ヲ守ルベシ。
第三条 富メルト雖(いえど)モ、困窮ノ時ヲ忘ルベカラズ。
第四条 分外ノ商業ヲ成ナズ、万事身分相応ナルヲ忘ルベカラズ。
第五条 利益ハ少薄ナリトモ、家業ヲ営ミ、僥倖(ぎょうこう)ヲ望ムベカラズ。
第六条 一時ノ流行物又ハ危険ナル商業ヲ為スベカラズ。
第七条 大利ヲ得ントスル、却ツテ損失アリ。少利ヲ積ンデ大トナルヲ専要ニスベシ。
第八条 借金ヲ為スベカラズ。利足ノ為メニハ一家滅亡スルコトアリ。必ズ負債ヲ為スベカラズ。
第九条 利付資本金ニテハ、商業ハ必ズ成立セズ。利子ハ恐ルベキモノト知ルベシ。
第十条 杉谷家不動産ヲ売却又ハ質入書入ニスベカラズ。
第十一条 杉谷家宅地ハ尺寸ノ地ト雖モ売却スベカラズ。現今所有ノ宅地ハ累代(るいだい)相伝フタニヨリ、将来有形ノ儘保存維持スベシ。
第十二条 困窮ニ陥リタル時ハ、忍ンデ卑賤ノ身トナリ、農事ヲ勉強シテ、家名永続スルヲ心掛クベシ。
第十三条 耕地田畑ノ耕耘(こううん)ニ注意シテ、農事ト大切ナルヲ忘ルベカラズ。
第十四条 総ベデ家業ヲ勉励シテ、冗費(じょうひ)ヲ省キ、随時家計向ノ可否改良スルヲ怠タベカラズ。
第十五条 住居家ハ狭小ニシテ質素ナルヲ要トス。必ズ美麗ヲ好ムベカラズ。