東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(二) 行政家

    

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 安政二年(一八五五)八月二八日、上総国山辺郡堀上村(東金市堀上)農業篠原蔵之助の長男に生まれる。その祖は遠く木曽義仲に仕え、主家滅亡の後この地に土着し、農のかたわら醤油醸造を営んで産をなし、大永年間(一五二一-一五三七)からは代々名主を勤めた名門で、当地方切っての素封家である。
 蔵司は幼少時隣村川場(東金市川場)に住む儒者筑紫文岱(ぶんたい)の門に入って漢籍を学び、明治の初期、我が国の一大改革の時に当たって、弱冠二一歳の若さながら、幸田村外三か村の連合組合村の副戸長に挙げられ、戸長を輔けてよくその任を完うしたが、その功を認められて、明治一二年(一八七九)から明治二二年まではその戸長を勤めて、我が国最初の町村合併に備えたのであった。
 明治二二年(一八八九)町村合併の実施に際しては、東金町・田間・嶺南・城西の四地区一町七か村が合併されて東金町が発足することとなり、蔵司は衆望を担って初代町長に挙げられ、爾来(じらい)町長に当選すること四回、一五年の長きにわたってよくその職責を完遂し、また、町会議員には前後八回の当選を重ねた。
 しかし、蔵司にはもう一段高いところへ飛躍して手腕を発揮したい願望があった。初代町長となった翌年の明治二三年(一八九〇)三月、千葉県会議員の選挙が行なわれたので、彼は思い切ってこれに立候補した。それまで東金町からは県会に人をおくっていないので、彼の出馬を熱望する声は高かったのである。その結果、彼は見事に当選を果たし、東金出身県議の第一号たる栄誉を獲得したのである。そして、越えて二五年(一八九二)二月には、第二回衆議院議員の総選挙が実施されることになったが、彼は衆望にこたえて自己の力量を試みるべく、第五区(山辺・武射両郡)から立候補し善戦大いにつとめたけれども、僅少の差をもって、残念ながら敗れてしまった。(この時は、大総村出身の伊藤徳太郎が当選している。伊藤は詩人、桑田春風(別項参照)の庇護者でもある。)しかし、彼はそれによって気を落さず、同年三月行なわれた県会議員の選挙にふたたび立候補し見事に当選をはたしている。
 こうして、彼は県会議員を二期つとめたのであるが、自分のほんとうの仕事は町政に全力をそそぐことにあることを自覚し、それ以後は県会や国会に出ることを断念し、前述のとおり、町長をなお三期つとめて、町政の発展に尽瘁したのである。その代り、友人の布施甚七を大いに後援して県会にまた国会に送りこんだのである。立派な行き方であるといえよう。
 なお、彼の前後四回にわたる東金町長在任の期間は左表のとおりである。
 
第一回自明治二二年五月一一日
至同二五年二月一一日
第二回自同三九年六月五日
至同四三年六月四日
第三回自同四三年六月一六日
至大正 三年六月一五日
第四回自同 三年七月一四日
至同 七年六月一三日

 明治初年以来、若くして地域の行政に携わって、戸長・町長・町議・県議と約四〇年間、地方自治、就中(なかんずく)東金を中心として、その産業・経済の振興・教育文化の充実・交通の発展等に寄与し、今日の東金市の基礎を確立した功績はまことに偉大である。
 その他、所得税調査委員、千葉県農工銀行設立委員、株式会社小草畑銀行を創設してその頭取に就任する等、地方金融・財政・経済等の円滑な運用に貢献、更に東金尋常高等小学校の建設・県立東金高等女学校を八鶴湖畔に誘致する等教育文化面に尽した功労も大きく、また早くから消防行政に意を注いで、後年県下第一の消防組を育成する等々、幾多の業績を挙げ、その都度当局から表彰を受けている。
 彼はまた、社会・公共・慈善等の諸事業に対しては理解が深く、学校建設その他の公共事業が起されるや、その都度多大の土地金品を寄附している一面もあり、なお、明治一五年以来改進党系の地方政治家として名を成し、終身その節を曲げず、山武同心会長などをつとめ憲政の発展に努力して来たことも人のよく知るところである。
 大正一一年(一九二二)一月一四日、蔵司は死去した。それは病没ではなく、事故死であった。そのことは、蔵司の三男で父のあとをついだ修平(のち、蔵司を襲名)の遺句集「椎の実」の巻末に附せられた「経歴」に「大正十一年一月十四日、父、蔵司列車事故の為死去」(一〇六頁)と記されてあるので明瞭である。その時の詳細な事情はわからないが、彼のような町政の功労者が交通事故死を遂げたとは、まことにいたましいかぎりである。享年六八歳であった。
 
    

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 さて、右の修平すなわち二代目蔵司のことにふれておこう。彼は篠原家の家系において、ちがったタイプの人であった。父蔵司のような政治性を持たず、自由を愛する文化人であった。美術好きで、油絵を描き、スポーツにも趣味があり、とくに晩年は俳句に打ちこんで「椎の実」という句集をも残している。物の考えかたも平和主義的で、軍国主義を非常に嫌っていたといわれる。
 彼は明治二七年(一八九四)五月四日の生まれで、県立成東中学校から盛岡高等農林学校の農芸化学科を卒業後、東北帝国大学で研究に従事していたが、大正七年(一九一八)彼が二五歳(数え年)の時、長兄が死去したため、研究を打ち切って郷里に帰り、家業を継ぐことになった。家業は農業のほか醤油・味噌の醸造業を営んでおり、父蔵司は町長勤務中のこととて、家業には手がまわらないという事情もあった。
 ところがそれから四年後、大正一一年(一九二二)一月、前記のとおり父蔵司が交通事故で不慮の死を遂げたので、篠原家の当主となり、蔵司を襲名した。そして、家業のほかに、昭和一〇年(一九三五)二月、九十九里軌道株式会社の社長を引受けることになったが、元来、蒲柳の質であった彼は、ついに病床に臥す身となってしまったのである。四二歳の時のことである。家業や会社の仕事その他で多忙をきわめ、無理がたたったためであった。そして、一時は重態におちいったこともあったが、どうやら持ち直すようになったものの、病床を離れることにはならず、その後一〇年間病臥生活をつづけたのである。その間に彼は俳句に親しむようになった。それは「句に対しての執着が強く、句を病床の友とし命の綱として」(夫人サカエの「椎の実」後記)というほどの熱の入れかたであった。彼は俳号を「塞馬(さいば)」と称した。はじめは鵜沢玻美氏の「閑古鳥」の同人となっていたが、昭和一二年(一九三七)五月から高浜虚子門下の松本たかし(俳誌「笛」主宰)の指導を受けるようになり、「ホトトギス」にも投稿する機会を得た。病苦に明け暮れする彼にとって、俳句は全く「命の綱」であった。松本たかしも、「ホトトギス雑詠に四十数句を止め、略(ほぼ)十年に亘(わた)って、弛(ゆる)みのない句修業を、病苦に耐へて続けられたのは、作家としても立派なものであったと云へる」(「椎の実」序)といっている。
 彼の句作は、その死後(昭和二一年一〇月)遺族の手で刊行された句集「椎の実」(昭和一一年から同二〇年までの作二〇九句を収めてある)におさめられているが、だいたいにおいて温雅で清明な句風で、強く迫るものがないかわりに、やさしくつつみこむところがある。松本たかしは次のごとく評している。
 
 「氏の作品を見渡して感じられるのは、作品の内部にひそむ心の暖さであらうか。終始写生を実行して倦(う)むことがなかったが、その写生の眼を通して、いつも落着いた愛情があたたかく対象に注がれてゐるやうに見受けられ、時には自然や人間を観る眼がさり気ない中に慈光を湛(たた)へてゐるかとさへ思はせる。」(同)
 
好意ある評言といえよう。なお、「椎の実」の題名は、彼に先立って一四歳で急逝した三女みどりを詠んだ「椎の実を拾へる姿今もなほ」(昭和一一年作、この句を巻頭においてある)にもとづくものである。
 彼の人柄については、「椎の実」巻末の年譜に「性、忍耐強く、正を持し自己を捨て隣人の為に努む」とあるのによって、おおよそ推察できる。
 昭和二〇年(一九四五)六月二七日、終戦も知らず、また、長男蔵之助がその二か月前戦病死していたことも知らずに、さびしく息を引取った。享年五二歳であった。
 
   句集「椎の実」より
  焼芝に先のこげたる物芽(ものめ)のぶ      (昭和一四年)
  森の上にかたむきこぼれ渡り鳥         (昭和一四年)
  燕来し軒を仰いでなほ病めり          (昭和一五年)
  下萠(したもえ)の庭踏みて又病床に       (昭和一八年)
  衰への日々見えて来ぬ夏布団          (昭和二〇年)
  初蚊帳(かや)に病人安き眠り得し        (昭和二〇年)

篠原蔵司