東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(一) 政治家

 彼は明治三七年(一九〇四)五月一日、山武郡大網町大網(大網白里町大網)に生まれ、旧姓を板倉と言い、野老と改姓したのは、昭和五年(一九三〇)東金町川場(東金市川場)野老家の養子となったからである。
 大正七年(一九一八)三月、大網尋常高等小学校高等科を卒業した彼は、将来実業家たらんと、いわゆる青雲の志もだし難く上京し、昼は勤めて夜間中学校へ通学、刻苦勉学したが、志成らず三年で帰郷し、当時大網郵便局長であった岩佐春治(元大網町長・元県議)に認められ、郵便局員として勤務し、その薫陶を受けることになった。
 具眼の士岩佐春治は、この青年の資質を見抜きその才能を高く評価して、その前途に矚目して、将来教育によって身を立てるよう説得したが、彼もその熱意に動かされてこれに応じ、独学によってこの道を獲得することを決意したのである。
 以来三年間の努力精進が実り、大正一四年(一九二五)二月、専検に合格、旧制中学校卒業資格を獲得し、同年四月、千葉県山武郡公平尋常高等小学校(東金市)代用教員を命ぜられ、教育界にその第一歩を印したのである。時に二一歳であった。
 以後児童の教育に携わりながら、独学による上級の検定試験への挑戦のための勉学は前にも増して激しく続けられ、大正一五年(一九二五)二月には尋正(尋常小学校本科正教員)の免許状を獲得すると共に、公平尋常高等小学校訓導に補せられ、後、昭和五年(一九三〇)三月山武郡福岡尋常高等小学校(東金市福岡小学校)に転じ、昭和七年(一九三二)八月東金尋常高等小学校訓導に補せられたが、その独特の猛勉強は止むことなく続けられ、そのねらいは文検(文部省検定)教育科の免許状取得であった。以後二年猛烈な勉強を続けた甲斐あって、昭和九年(一九三四)、当時最も難関と言われた文検を見事突破したのである。
 研学心の旺盛な彼は更に東京高等師範学校研究科(修業一年)入学を志し、昭和一二年(一九三七)四月見事入学、翌一三年三月同校を卒業している。これが彼の唯一つの輝かしい学歴であると共に、待望の本正(小学校本科正教員)免許状を得る道でもあったのである。
 昭和一三年四月千葉県東葛飾郡野田尋常高等小学校訓導(後教頭)、続いて昭和一四年八月同郡柏尋常高等小学校長拝命、昭和一七年四月一〇日千葉県視学(長生郡事務所勤務)、昭和二〇年二月二日千葉市寒川国民学校長、昭和二二年二月依願退職し、二二年間の教職経歴に終止符をうったのである。
 この退職は、折からの衆議院議員総選挙に際し、教職員の代表として立候補するためで、その結果は見事当選を果している。時に四四歳であった。
 彼の後半期二五年間は政治の前面からは身を引き、東金市PTA会長・山武郡市PTA会長・千葉県PTA協議会長・日本PTA協議会長等を歴任し、その間東金市教育委員・市県の社教委員等をも兼職し、間接的に側面から教育への援助協力を惜しみなく果し、またPTAに関する著書も数多く書き残している。このような貢献に対して、文部省その他の公共機関から数々の表彰を受けている。
 昭和四七年(一九七二)八月九日、病のため逝去。享年六九歳である。
 彼の六九年の生涯は、その前半期は極めて動的主体的で、行くところ可ならざるはなく、思うこと全べて当たるの勢であった。これに比して後半期は静的な世界に沈潜著述に耽けることが多かったようである。しかし、いずれにしても、その生涯は常に「教育」と言う一本の強靱な太い紐によって貫かれていたのである。
 彼の法名はその生涯をよく象徴し、「知光院育英日誠居士」と謚(おくりな)されて東金市川場東福寺内に眠っている。

野老誠