東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(一) 政治家

 由巳は慶応二年(一八六六)五月五日、上総国山辺郡北之幸谷村(東金市北之幸谷)農、錦見五郎左衛門の三男に生まれ(母はのぶ)、幼名を五郎と言い、幼時より学を好み、小学校卒業後、佐倉の儒者猪沢能斎の門に入り経史の学を修め、明治一六年(一八八三)、一八歳の時、同郡家之子村(東金市家之子)の素封家稗田家の養嗣子となり由巳と改名した。
 「資性豁達・寛恕ニシテ風格有リ」(原漢文)とは、その墓碑に記された辞であるが、明治二二年(一八八九)地方自治制成ると共に、学務委員となり、教育改革のため尽し、明治二五年(一八九二)公平村会議員に挙げられ、爾来当選すること五回に及び、大正二年(一九一三)まで二〇年間村政の推進に多大の業績を挙げた。その間二回家之子区長をも兼ねた。このようにして、村民の信望を高めた彼は、選ばれて大正六年(一九一七)九月、村長の職に就き、同一〇年(一九二一)九月まで、五年間村治に専念し、村民の幸福のため献身した。更に明治二八年(一八九五)一〇月、山辺武射郡会議員に選出され、続いて明治三六年(一九〇三)九月、千葉県会議員選挙に際し、同じ家之子村の同僚久保田専蔵と共に憲政本党から立候補し共に当選の栄を獲得したのである。
 県会議員となった由巳は、教育問題と土木問題とで特に活躍したようである。教育問題では県立中学校の改廃の件と県立高等女学校の設置問題で適正な意見をのべ、教育の方途に誤りなからしめた。また、土木問題では、江戸川・利根川の堤坊築造調査の件と、道路網整備の件で、種々建議し、交通行政に貢献するところがあった。かくて、同四〇年(一九〇七)九月まで在任したのである。
 このように由巳は若くして区政に携わり爾来村政・郡政・県政にまで参与し、その公職歴は実に三〇年の長きに及び、地方自治の振興に貢献し、産業経済の発達・教育文化の昂揚に大きな業績を残している。
 ところで由巳は政治家になる前、家之子小学校の教員として約四年間、児童の教育に当たったと言われている。これは、その当時の教員不足によるものであるが、反面、彼の人格学識の深さを物語るものである。後年、公平小学校の創立に際して、この経験は大いに役立ち参考となったと言う。
 彼はまた、計数に明るく、明治二二年(一八八九)一一月、山武郡源村に滝沢銀行が創立された折には、これに参画して種々尽力し、創立後は取締役に就任、その解散に至る約四〇年間、この地方の財政・金融の方面に大きな業績を残している。
 由巳は晩年に至るも、地域への奉仕実践はいささかも衰えることがなく、特に後進の指導育成啓発に力を致し、報徳信用組合を創設してその組合長となり、徳に報ゆるに徳をもってする精神を身をもって実践し、自立・相互扶助の精神を郷域に浸透樹立するに至ったのは、偏に彼の終始一貫した至誠のたまものと高く評価するものである。
 昭和一三年(一九三八)一月八日、病を得遂に起たず長逝した。
 享年七二歳であった。仁沢院方聞日巳居士と謚(おくりな)し、家之子妙宣寺稗田家塋域内に葬られた。
 由巳の妻好子はいわゆる家付きの娘として、由巳を夫に迎えたのであるが、彼女は幼にして父母を失い、祖父母の手で養育され成人したのである。彼女は温順な性格であったが、克巳心が強く情愛も深く、夫由巳を助けて、家政を斉え、家運の安栄をはかった賢婦人であった。夫婦の間には、正巳・克巳・五郎の三男が生まれたが、いずれも人物学識ともに優秀で、正巳は家を嗣ぎ、克巳は東京の平松家の養嗣子となり、五郎は医学博士として令名をうたわれた。好子は夫に先立って、昭和六年(一九三一)四月一九日、六七歳をもって没した。

稗田由巳

 
 【参考資料】
    稗田由巳(よしみ)墓碑銘(原漢文)
          (東金市家之子妙宣寺稗田家墓地)
 翁、名ハ由巳(よしみ)、幼名ハ五郎、慶応二年(一八六六)五月五日、北之幸谷錦見五郎左衛門ノ三男ニ生レ、明治十六年(一八八三)稗田ヲ嗣ギ、名ヲ改メテ由巳ト称ス。幼時、猪沢能斎ノ門ニ学ブ。翁、資性豁達、寛恕ニシテ風格有リ。明治二十年(一八八七)撰バレテ村会議員ニ任ゼラレ、大正二年(一九一三)ニ至ル、此ノ間二十年、五期ヲ累任セリ。又、滝沢銀行ノ取締役トナリ、創立ヨリ解散ニ至ルマデ勤続スルコト実ニ四十年ナリ。尚、区長ヲ兼任スルコト二期ニシテ、又、村長ニ任ゼラル。明治三十六年(一九〇三)、衆望ニ応(こた)ヘテ県会議員ニ任ゼラレ、当ニ本県政界ノ重鎮タル者ナリ。然ル後、政界ヲ退イテ家居スルニ至ルヤ、村民ノ為メニ報徳信用組合ヲ起シ、其ノ組合長トナリ、専ラ力ヲ其ノ整理ニ尽シ、共益ヲ計リ、孜孜(しし)トシテ撓(たゆ)マズ、大イニ農民自衛ノ本源ヲ培養セリ。則チ、翁ヤ、真ニ至誠報国ノ実践者ト謂フベキナリ。
 昭和十三年(一九三八)一月八日、疾ヲ得テ遂ニ起タズ。衆大イニ哀惜セリ。享年七十有ニ。法シテ仁沢院方聞日巳居士ト曰フ。