東金市/東金市デジタル歴史館

東金市史

総集篇五

第一編 人物

A 東金の人物

(一) 政治家

 彼は安政三年(一八五六)一月二九日、上総国山辺郡極楽寺村(東金市極楽寺)農、山本治左衛門の長男に生まれる。同家は代々名主を勤める同地方屈指の素封家で、厳格な庭訓の下に成長し、家督相続後は家業の林業の拡充に努力し、その広大な森林の育成と、杉苗の培養に勤め、精励恪勤(かくきん)よく家産を治めて、強固な財政的基礎を確立した。
 彼は明治二五年(一八九二)弟八三郎(三男)を相続人と定めてこれに家督を譲っている。八三郎は後年、天下の模範村源村長となって令名を馳せた人である。なお、もう一人の弟由次郎(二男)は山武郡南郷村富田幸谷(成東町)の平山家の養嗣子となったが、千葉県会議員を二期勤めたほか、滝沢銀行・松沢銀行の取締役をも勤め、政界・財界に広く活躍している。兄弟揃って偉材であったことはめずらしいと言わなければなるまい。当時の山本家は十数人の大家族であったが、家庭内が常に和気あいあいとしていて他から羨望されるほどだった。そういう家庭環境が人材を産み出す苗床となったのかもしれない。
 熊之助は当時の自由民権運動に刺激されて、早くから政治意識にめざめ、明治一四年(一八八一)七月には、同志の志賀吾郷(別項参照)、江口平兵衛・古川豊三郎らと民権結社「愛信会」を結成し、その幹事となって、さかんに雄弁会などを開催して気勢をあげた。志賀吾郷は東金市押堀の人、江口平兵衛は大網白里町金谷郷の人、古川豊三郎は九十九里町片貝の人、いずれも新進気鋭の俊才で、後にいずれも県会議員として千葉県政の刷新のため献身した人たちである。
 熊之助の政治的実践活動の第一は、明治二一年(一八八八)に、新町制施行に伴う町村分合問題について、村内で研究会を開き意見を交換した結果、彼が極楽寺村惣代人に選ばれ、適切な実施案を当局に示し、翌二二年源村の設置が実現するよう取り運んだことであろう。それによって、政治的手腕を買われた彼は、区長・学務委員・村会議員の要職を歴任し、さらに郡会議員に選ばれるにいたったのである。
 しかも、彼はさらに飛躍を遂げた。それは、明治二三年(一八九〇)三月、千葉県会議員の選挙に際してこれに出馬し、見事当選の栄を得たことである。この時には、前記の古川豊三郎と東金市堀上の篠原蔵司(別項参照)も当選している。次の県会選挙は同二五年(一八九二)三月であったが、この時にも熊之助は立候補し、二度目の当選を果たしている。古川・篠原の両者も同様であった。熊之助はこうして、同二七年(一八九四)三月まで、四か年間県会議員の職にあって、地域郷党ならびに房総地方の発展に大きく貢献したのである。県会において彼は教育・土木等の問題について健闘したが、特に中学校教育の充実普及に関して有益な発言をして教育施策の進展をはかったことは顕著な功績とすべきである。
 熊之助は県議を二期で退いたが、古川・篠原の二人も申し合わせたように二期で退任している。しかも、この三人は山辺郡から揃って出馬し、自由党の三俊といわれたほど世の耳目をひきつけた三羽烏であった。
 他面彼は、金融・経済の面にも明るく、明治二二年一一月、滝沢銀行(源村滝沢)の設立についてはその企画に参加し、地方産業経済の進展に大きく寄与している。また、日清・日露の両戦役の勃発に当たっては、率先義金・救恤金を醵出して賞勲局から数々の賞杯を下賜されている。
 彼が郷土の教育・社会に寄せる情熱は極めて旺盛であって、源小学校基本金・源村善行者表彰基金・恩賜財団済生会資金等に、金一千円を寄附してその基礎を強固にし、その活動を促進させている。その他報徳会の創設・図書館の設立にも物心両面にわたって援助している。晩年には極楽寺青年会館を所有地内に築造して、地元青年達の研修の壇場を提供し、非常に感謝されている。
 なお、山本家では明治の初期、特定郵便局を邸内に開設して地元の人達に便宜を与えていることも、ここに附言しておきたい。
 大正一四年(一九二五)一一月八日、病気のため逝去、享年七〇歳である。法名は「久遠院誠忠日熊居士」、自宅内墓域に葬る。
 なお、彼は教育界につくした功績により、明治三五年(一九〇二)六月と、翌三六年三月の二度にわたって、千葉県教育会から表彰されている。

山本熊之助