宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第四編 近現代

第七章 東武鉄道の開通

第三節 百間新道と宮代のバス路線

 かつて古利根川には、船で人などを対岸に渡す、いわゆる「渡し場」が町内にも幾つかあったと伝えられている。
 宮東から川端にいたる古利根川には上流から「矢島の渡し」、「紺屋の渡し」、「ガッタの渡し」の三か所の渡し場が知られている。
 「矢島の渡し」は、百間村(宮東)から堤根村(杉戸町)を結んだ渡しである。現在の宮東橋の所である。いつごろ始められたか明らかでないが、江戸時代中期宝暦十四年(一七六四)の絵図面ではこの付近で古利根川に川端や川島方面からくる道が直交している。このことから考えると江戸時代にはすでに渡し場があった可能性も考えられる。昭和二十五年(一九五〇)に延長五〇メートルの土橋が架かるまで、渡し場として船が行き来していた。船は長さ約三間で、朝五時頃から夜十時位まで堤根村に通う学校の先生や姫宮駅から電車を利用する人が乗ったという。
 「紺屋の渡し」は明治時代に始められ、昭和二十五、六年頃まであったという。百間村(宮東)から本郷村(杉戸町)を結ぶ渡しである。主に通勤の人を乗せた。船は、長さ三間、幅四~五尺くらいであった。
 「ガッタの渡し」は、百間村(川端)と小渕村(春日部市)を結ぶ渡しである。「新編武蔵風土記稿」の東村の項に古利根川に板橋が架かっており、おそらくその橋が朽ちてから渡しとなったものと思われる。近年まで橋杭が残っていたと伝えられ、橋の途中まで行くとガタガタするので「ガッタラ橋」と呼ばれていた。その名から「ガッタの渡し」と呼ばれるようになったという。船賃は二銭位で、通勤や対岸へ耕作に行く人や小渕の観音様へお参りに行くのに利用された。近くには船の安全を願って建立した水神様も祀られている。
 橋の少なかった時代、こうした渡し場の船が毎日の生活を支える重要な交通の手段であった。

4-77 矢島の渡し跡