宮代町立図書館/宮代町デジタル郷土資料

宮代町史 通史編

第四編 近現代

第五章 耕地整理と河川改修

第二節 大正・昭和戦前期の農業

昭和十三年物価統令が施行され、必需品に対して協定価格や公定価格と称する最高販売価格が定められて、この価格を超えた価格で販売すると闇価格として取り締まりの対象となった。この統制により中小企業は、特に原料の入手が困難となり大きな打撃を受けた。産業は、軍需が最優先される時代であったが、国民生活に欠くことのできない食糧増産は重要な課題であった。
 昭和十五年ころになると重要食糧である米、麦、甘藷、馬鈴薯などは、村に割り当てられた数量を各個人にまで割り当てを行い量の確保に努めている。しかし、戦争の拡大により農村からの出征兵士も増大し、農業労働者が不足した。このような農村の状況に対し勤労奉公隊が組織され、出征兵士の留守宅の麦蒔、甘藷掘り、稲刈などの奉仕作業を行っている。
 昭和十八年五月ころには、村長や村の農会長などが中心となり、食糧戦必勝運動が開催され、食糧増産の一層の督励が求められた。また、児童生徒は、食用と薬用原料になったといわれる樫の実拾いを実施している。昭和十九年五月埼玉県は、農地作付統制細則に従って、県下町村に指定農作物の作付面積を指示したり、沼沢地の開墾なども行われている。
 町域の百間村・須賀村でも昭和十八年頃水路等の改良工事が行われた。百間村では、隼人堀、姫宮堀等の水路が、須賀村では、客工、用排水の工事が行われている。工事の実施にあたっては国民学校、青年学校の児童、生徒や村民(一般報国隊)が勤労奉仕として、工事にたずさわっている。
 都市部の食糧不足は明らかであり、農村に東京からの食糧買い出しの人々が多数訪れているが、各警察署は各駅で一斉取り締まりを実施し県外へ持ち出す人々を検挙した。飢えに苦しみ、なんとか食糧を入手しようと出かけてくる人々にとっては気の毒の限りであった。
 折原哲三頌徳碑(しょうとくひ)には、「(略)昭和十四年より土地を解放し、一方食糧増産の重要性に鑑み土地改良こそ目下の急務なりとし下ノ谷耕地四〇町歩の灌漑工事計画を樹て(略)着工、戦いは益々激烈を極め応召者続出し銃後の手不足は極度に達し普く奔走し青山第一師範より四〇人の勤労班の援助を得た、戦時深刻なる資材難に直面せし(略)」とあり、この工事が完了したのは昭和二十七年であった。